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とっくにそんな関係じゃない

 福浦は時々、こっちの度肝を抜くようなことを言う。
 全部解決する。それは確かにそうだろう。名目上の関係はさておき、客観的に見れば私にとっての福浦はここ一か月間毎週会ってる相手だ。たとえ付き合ってなくてもそれだけ告げれば両親は『娘にもようやく春が』などと喜ぶだろうし、北道さんはあきらめてくれるかもしれない。
 でも、それを他人に話すというのがどういうことか、福浦はわかってるんだろうか。

「そういうの、人に言わないほうがいいと思うけど」
 びっくりした私が苦笑すると、福浦はきょとんとしてみせた。
「そうかな」
「だって誰かに言ったら、後腐れのない関係じゃなくなっちゃうよ」
 セフレっていうのはそういうものじゃないんだろうか。誰にも内緒にする代わり、会わなくなって疎遠になっても気づかれない。『付き合ってた』って経歴が残るものでもないし、別れ際にこじれる必要だってないはずだ。終わりがある関係だってことも織り込み済みだと思っている。
 でも、福浦はそこで不服そうに顔をしかめた。
「もうとっくに、そんな関係じゃないだろ」
 そして、さらに私の度肝を抜くようなことを言った。
「俺は天野のこと、みんなに話したいって思ってるよ。俺が一番つらかった時に支えてくれた大切な人だ」
 福浦は嘘がつけない。
 だからそういうことを平気で私に対して言う。
 しかもご飯中なのに。お蕎麦食べてるのに。
「私、なんにもしてないよ」
 絶望から立ち直ったのは福浦自身の力によるものであって、私はやっぱり何もしてない。あとで思い出すことがあった時、この時期『自力で立ち直った』って思うほうが福浦にとってもいいはずだ。私に頼った、支えてもらった、とかじゃなくて。
 でも福浦なら、そんなふうには捉えないんだろう。
「そんなことない」
 かぶりを振った後、福浦は優しく微笑んだ。
「天野はそう思いたいのかもしれない。でも、俺はそうは思わない」
 表情は柔らかい。なのにどこか、揺るぎない意思みたいなものも感じられる微笑みだった。これ以上私が何を言っても、彼の考えは何も変わらないだろうと思えた。
 なす術もなくなった私は、残っていた蕎麦を猛然とすすりはじめた。喉を通らなくなる前にと思ってのことだったけど、せっかくの味がすでにわからなくなりかけている。
「同じように思ってくれたら、うれしいんだけどな」
 念を押すように彼が言う。
 そして、彼もまた残りの蕎麦を片づけに入ったようだ。それからはお互いに黙って食事を済ませて、店を出るまでほとんど無言だった。
 私はさっきの言葉にも、何も答えられなかった。

 でもわかっている。先延ばしになっただけだ。
 今は答えなくても、近いうちに答えなくてはいけない。
 とっくにそんな関係じゃない。たぶん、本当にそうなんだろう。それが正しいのか、適切なのかどうかも考えるべき時期なのかもしれない。

 福浦の新居は駒込にあるそうだ。
 連れていってもらうのは当然ながら初めてで、福浦もまだ道を覚えきれていなかった。ふたりで地図アプリを見ながら、古い街並みをきょろきょろしながらアパートまで歩いた。いつの間にか手を繋いでいたけど、振りほどく理由なんてなかったし、気づいてもそのままにしておいた。
 駅から歩くこと十分くらい、少し年季の入った七階建てマンションの四階。エレベーターでそこまで上がると、福浦はドアの鍵を開けて私を中へ入れてくれた。
 入居にあたってリフォームが入ったのか、部屋の中は新築みたいな匂いがした。まだ何の家具も入っていなくて、がらんとしたキッチンダイニングと、その向こうにある洋間が見える。カーテンのない窓から射し込む午後の光が、フローリングの床に四角い陽だまりを作っていた。
「トラック、もう少しで来るって」
 備えつけのエアコンを試運転させる福浦がそう言った。
「もう少しってどのくらい?」
「あと二十分くらい」
「ほんとにもう少しだ」
 池袋から駒込までは山手線だと三駅。車だとどのくらいかはいまいち掴めないけど、業者さんたちもお昼食べてから来るって話だった。
「じゃ、荷物来たら作業再開だね」
 それまでちょっとだけ休憩のつもりで、私は床に座り込む。真夏の作業は息抜きも大事だ。エアコンから吹いてくる風が涼しくて、心地よかった。
「お疲れ、天野」
 福浦が隣に腰を下ろす。
 肩がぎりぎりぶつからないくらいの距離感も、これまでは気にならなかった。今はその近さにちょっと身構えてしまう。
「全然疲れてないよ」
「すごい、タフだな」
 感心したように福浦は笑い、
「助かるよ、ありがとう」
 感謝の言葉の後、そっと唇を重ねてきた。
 不意を突かれて、目をつむるのが一瞬遅れた。おかげで瞼を閉じた福浦のきれいな顔がすぐ近くに見えた。前髪が触れ合う音がして、柔らかい感触に呼吸ごと塞がれる。
 たったそれだけで背筋が震えるほど、私の身体は福浦のことを覚えてしまった。
「……最初のいい思い出、作っておきたくて」
 唇が離れた後、福浦はそう言ってはにかんだ。
 やることはしっかりやるくせに時々言うことがかわいいのがずるい。
 今日なんて朝からずっとやられっぱなしだ。名前は呼ばされるしお蕎麦屋さんではとんでもないこと言われたし、今だって――むかついたから、私は身を乗り出し福浦の膝に手を置いた。
「今からしよっか?」
「え!?」
「せっかくだし、もっといい思い出作ろうよ」
 驚く彼の耳元にささやけば、すかさず苦笑いを返された。
「いや無理だろ……あと十五分で荷物が来る」
「十五分あればいけるでしょ?」
「そんなに早くない」
 福浦は断固として誘いに乗らなかった。当たり前か。
 私としても時間に追い立てられて余裕がないのは楽しくないし、それは後のお楽しみに取っておくことにした。

 やがてマンションの前にトラックが止まり、順次荷物が運び込まれてきた。
 見覚えのあるクローゼットや冷蔵庫、食器棚などが部屋にやってきて、あれよあれよという間に並べられていく。空っぽだった部屋が息を吹き返したように生活感で満ちていく。
 業者さんが帰っていった後は、段ボール箱を次々開けて中身をしまう作業に入った。窓にはカーテンをかけ、食器類は梱包を解いて食器棚へ、きれいに畳まれていた衣類はクローゼットへ収納する。独り暮らしの部屋ならふたりで片づければあっという間で、今日のうちにほとんどの段ボールを空けてしまうことができた。

 とは言え時間はそれなりにかかり、作業が一段落したのは午後五時を回った頃だった。
「天野、夕飯食べてかないか?」
「え、いいの?」
「手伝ってもらったし、なんでもご馳走するよ」
「なんでもいい? やったね」
 じゃあ福浦が食べたいです――と言いたいところだけど、肉体労働の後はどうしたってお腹が空く。ここはちゃんと食べないと食後に運動だってできない。
「なんか食べに行く? まだ冷蔵庫使えないもんね」
 引っ越し当日は冷蔵庫も動かせないし、何か作ってもらうって選択肢はない。この間福浦が作った朝ごはんもおいしかったけど、今日は彼も疲れてるだろうから簡単に済ますのがいいだろう。
「何か買ってくるでもいいけど」
 福浦はそこで困ったように笑う。
「俺もこの辺りはまだ慣れてなくて、どんな店あるか詳しくないんだ」
 彼が引っ越し先に駒込を選んだのは、職場に近いのと家賃が安いのと、治安がよさそうだかららしい。今まで一度も住んだことはないそうで、これから開拓するつもりだと続けた。
「じゃあ散歩がてら、その辺ちょっと歩いてみる?」
 そういうことなら私は提案して、ふたりでちょっとぶらぶらしてくることにした。

 駒込の駅前には商店街があって、そこでおいしいものを探すことにした。
 夕飯時だからか、そこそこの人出があった。歴史ありそうな店々が細い通りの両端に軒を連ねる、昔ながらの、お手本のような商店街だった。私と福浦はまた手を繋いで、のんびりとその中を歩いた。
 あまり高い建物もなくて、行き交う人の足取りも速すぎなくて、どことなくのどかに感じられる街だった。東京に住むんだったらこういうところがいいのかもしれない。
「こういう商店街だと、まずお肉屋さん探すよね」
「肉屋? なんで?」
「お肉屋さんで売ってるコロッケっておいしいじゃん」
「食べたことないな。買ってみよう」
 それで私たちはまず精肉店を探し、予想どおり売られていた揚げたてのコロッケを購入した。食べ歩きたい気持ちをぐっとこらえて他の店も回ってみる。
 次に立ち寄ったのはお総菜屋さんで、そこで何品かおつまみにもなりそうなおかずとおにぎりを買う。さらに古式ゆかしいタイプのスーパーも見つけ、そこで缶ビールとウーロン茶も購入した。それらをふたりがかりで抱えて、マンションへ帰る。
 じわじわと陽が沈みはじめていた。買い物帰りの夕暮れ、初めて来るのに懐かしく思える街並みを、ふたり並んで歩いてる。
「お腹空いたねー」
 私の言葉に福浦が笑う。
「コロッケ楽しみだな。あんなの絶対おいしいだろ」
「おいしいと思うよ、さっき揚げたてだっていうし」
「いいとこに引っ越したな」
 声を弾ませる彼は楽しそうだ。引っ越しのきっかけこそ不本意で理不尽なものだったけど、そんな陰りはもうどこにも見当たらない。今日から始まる新生活も、きっといいものになるだろう。
 私も、そんな福浦の隣にいるといつだって楽しかった。
 不思議なことだけど、なんにもしてなくても楽しい相手だった。他愛ないおしゃべりも、散歩がてらの買い物も、一緒に食べるご飯も。気が合うなって思ったことも一度や二度ではなかったし、会話が途切れた瞬間ですらなぜか苦痛を感じなかった。
 後腐れのない関係なんてもう無理なんだろう。
 そんなものはとっくに通り越していたことに、私もついに気づいてしまった。

 夕飯に食べたコロッケは、予想にたがわぬおいしさだった。
「もっと買ってくればよかった……!」
 私は思わず天井を仰いだ。カロリーを考えて一個だけにしてしまったけど、お腹の容量的にはもう一個くらい余裕でいけた。というか食べたかった。
「また買いに行けばいいよ」
 福浦がそんな私を見て、おかしそうに目を細める。
「うちに来るたびに買ってくればいい。いつでも食べられるだろ」
「それもそうだね」
 そのうち恒例になるのかもしれない。福浦の部屋に遊びに行ったらコロッケ買って食べる。あの商店街まで二人で買いに行くのか、訪ねていく前に私が買っていくのか、どっちでもいい。
 でも、それもいつまでだろう、なんて考えてしまう。
 なんにでも終わりはある。楽しくても、離れがたくても。
 今日もすでに午後七時を過ぎていた。ふたりで同時に時計を見ていた。
「天野は明日、早番だったよな」
「そう。福浦は遅番だよね、いいなあ」
 私は北道さんにシフトを替わってもらった身なので贅沢は言えない。明日があるので泊まりは無理だ。
「終電までには帰ろうかな」
 急かすつもりで予告して、福浦に微笑みかける。
「でも、それまでは時間あるよ」
 なんにもしなくても楽しいのは本当だけど、だからってなんにもしないで帰るのはもったいない。
 福浦は一瞬うれしそうに口元をゆるめ、あわてて噛み殺したようだ。
「ああ、じゃあ……バスルーム使うか? 洗ってあるし」
「いいよ。一緒に入る?」
 私の提案には難しい顔で首をひねっていたけど。
「あんまり広くないから無理かもしれない。天野先でいいよ」
「え、さすがに家主より先には入れないよ」
 引っ越し当日、最初のお風呂がお客さんっていうのも申し訳ない。私は福浦に先を譲り、彼の後にシャワーを浴びることにした。

 言われたとおり、バスルームは程よく狭かった。
 バスタブと洗い場を交替で使うならともかく、ふたりでお湯につかるのは難しいかもしれない。でもお風呂でできないってほどではないかな――いや、あちこちぶつけるのも雰囲気よくないか。
 そんなことを考えつつシャワーを浴びて、バスタオル一枚で部屋へ戻った。
 湯上がりの福浦はダイニングテーブルの椅子に、いやに姿勢よく腰かけていた。前の部屋に遊びに行った時は椅子が一脚しかなかったのに、今日は折りたためる椅子が増えていて、ふたりで食卓を囲めるようになっていた。
「お待たせ」
「ああ、お帰り――」
 いつぞやと同じように、私が声をかけると福浦は振り返り、そして私を見たとたんに固まった。
「天野、その格好……」
「どうせ脱ぐからいいかなって思って」
 私は笑って答える。
 福浦が喜んでくれると思ってそうしたんだけど、彼は今回、意外にも困った様子で目を逸らした。
「ええと……その、うれしいんだけど。決して嫌じゃないんだけど……」
「どうかした?」
 思ったより反応がよくない。なんだろう、今日は一枚一枚脱がしたかったのかな。
 いぶかしく思う私の前で、福浦は一度深呼吸をした。
 惚れ惚れするほど真剣な顔になる。
「実は、先に話があるんだ」
「話?」
「ここに引っ越して来たら、改めて言おうと思ってた」
 まさか。
 バスタオル一枚の私の前に立った福浦は、剥き出しの肩に手を置いてきた。
 そして大好きなはずの胸の谷間には目もくれず、真っ直ぐに私の目を見て言った。
「好きだ。俺と、付き合ってほしい」
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