menu

甘い響きにはならなかった

 店長が言うには、北道さんは私のことを好きらしい。

 という話を打ち明けたら、福浦は真顔で応じた。
「俺もそう思ってた」
「え、ほんとに? 本気で?」
 思わず聞き返せば今度は苦笑いされてしまう。
「何その反応。俺になんて言ってほしかった?」
「思いっきり否定してほしかった」
「残念だけど、期待には応えられない」
 そんなにか。
 福浦が『まさかそんな』って笑い飛ばしてくれるのを期待していた身としては、なんともがっかりな答えだった。一縷の望みがついえた感じだ。
「だって北道さん、天野にだけあからさまに態度違うだろ。天邪鬼っていうか、素直じゃないっていうか」
「あれを好意の裏返しと見るのは無理あるよ……」

 たしかに、私への態度が他の人と違うという点は間違いない。福浦と付き合ってる疑惑が浮上したってだけであれほどねちねち言うのも、ことさらに女扱いしてくれないのも私に対してだけだ。もっともそれは店で唯一の年下女性店員だから、という理由なのかと思っていた。
 ここで『実は好きだったんだ』って言われても、『私も!』とはならんでしょ。

「福浦は最近、あの人になんか言われてない?」
 食器類を紙で包みながら尋ねたら、福浦は服を畳みつつ笑った。
「言われてみれば、近頃当たりがきつくなったよ」
「マジか……。ごめんね、私のせいで」
「天野のせいじゃないよ」
 福浦の手さばきは勤務中と同じくらい早い。あっという間にクローゼットが空になり、中の衣類はそのまま店に陳列できそうなくらい美しく畳まれ、段ボールに詰め込まれている。
 引っ越し作業は順調そのもので、業者さんのトラックが来る時刻には十分間に合いそうだった。

 いろいろあったけど、私は無事に福浦の引っ越し当日を迎えていた。
 正直、土壇場で北道さんが『やっぱシフト替わんのやーめた』と言い出す可能性も危惧していた。朝イチで電話が鳴ったらもうだめだろうと、寝る前からスマホを肌身離さず置いていたほどだ。だけどありがたいことに電話は鳴らず、私は池袋にある福浦の旧居を訪ねている。
 福浦はこつこつ準備を進めていたようで、当日に詰める荷物は衣類と食器と掃除用品くらいのものだった。彼がクローゼットを空にしている間に、私は食器棚の中身を梱包している。彼の仕事はもちろん早いけど、私も引っ越し経験は豊富なほうだ。だいぶ貢献できていた。

 作業の間に北道さんの件を打ち明けたら、福浦は前から知っていたみたいな反応だった。
「擁護するつもりはないけど、あの人は好きになったらああいう態度しか取れないんだろうな」
 話しながら、衣類を詰めた段ボールにガムテでぎゅっと蓋をする。血管の浮いた色っぽい手が慣れた様子で作業をするさまを、私は時々横目でうかがう。
「どういうやり方でも、とにかく天野が反応してくれたらうれしいって思ってるのかもしれない」
「子供かよ……」
 私は溜息をついて、食器の梱包を再開した。
 福浦の分析は正しいのだろうし、そういう心理が全く理解できないわけでもない。でもその調子で絡まれたらこっちだって傷つく。
「ふつう、好きになったら相手を大切にするもんじゃない?」
「そうだよ」
 私の愚痴に、福浦は素早く反応した。
「俺だったら好きな人にはとことん優しくする」
 こっちを見て言い切る彼に、私はなぜか少し気まずくなる。
 たぶん、そうだろう。福浦ならそうする。なんとなくわかる。
 いや、『わかる』なんてたかだか一ヶ月の付き合いで口にするのもおこがましい。福浦は元から優しい人だ。私に対しても最初から優しくて、その点は何も変わってない。だから私の『わかる』は絶対に勘違いだ。

 でも最近、その優しさに敏感になった私がいる。
 福浦は優しい。些細なことでも私を褒めてくれたり、寝るまで腕枕をしてくれたり、困った時には手を差し伸べてくれたりする。そういう気遣いに触れるたび、うれしさと戸惑いの両方が込み上げてくる。
 こんなにしてもらえることなんて、ずっとなかったから。
 福浦はなんにも変わってない。
 変わったのは、私の意識なのかもしれない。

 何も言えなくなる私を見て、福浦はだめ押しみたいに小首をかしげる。
「ね?」
 同意を求められても困る。それこそどんな反応が欲しかったって言うんだろう。妙に板についた仕草から目を逸らし、私はお箸とフォークとスプーンをぐるぐる包んだ。
「そうなんだ……」
 それから何気なく答えたら、とたんに彼が吹き出すのが聞こえた。
「なんで笑ったの!?」
「ごめん。天野がかわいくて」
「な、何言って――」
 わかりやすく声が上擦ったから、私はそこで一呼吸置いた。
 こんな些細なことで褒められるのも困る。今のは特にかわいいポイントもないはずだし。
 まだ笑っている福浦を放置して、無理やり話を戻す。
「とにかくね。北道さんが福浦にもしつこく絡んでようだったら言って、なんとかするから」
「なんとかって?」
 すぐに笑うのをやめた彼が聞き返してきた。
「私がどんな奴か正直に話せば、勝手に幻滅してくれると思うよ」

 北道さんを退けるのは簡単だ。私の経験人数を正直に打ち明ければいい。
 今以上に罵られることは必至だけど、福浦や店長に迷惑がかかるよりはましだろう。
 もちろんそれは私自ら悪評をばら撒く自爆行為でもあるし、北道さんが秘密を守ってくれるとも思えないから、最後の手段にしたいけど。

「天野がどんな人でも気にしない、って言われたら?」
 福浦がさらに突っ込んでくる。
「言うわけないよ」
 北道さんがそんな物好きだとは思えない。
 飲み会で酔っ払うと『俺ドSだからさ』と言いながら毒舌を吐くあの人は、意外と潔癖で処女じゃないと逆上するタイプと見ている。
 あと自称ドSはだいたいマグロ。偏見だけどけっこう当たる。
「俺から釘を差そうか? 天野にちょっかいかけないでくれって」
 福浦は心配してくれているようだ。気づかわしげにそう言ってくれたから、私は首を横に振る。
「気持ちはうれしいけど大丈夫。わざわざ首突っ込んで火傷することないよ」
「俺も無関係ではないだろ」
「そうだけど。福浦まで北道さんに恨まれる必要ないでしょ」
 もう恨まれかかってる気もするけど――誤解だってわかれば福浦への態度は和らぐかもしれない。そっちへの飛び火は最小限で済ませたいから、やるなら私がやるべきだと思う。
「汚れ役は私に任せてよ」
 私が胸を張ると、福浦は黙って段ボールを持ち上げた。ちょっと納得いかない様子で眉をひそめ、衣類の詰まった段ボールを部屋の隅まで運んでいく。
 その背中を見送りつつ、ふと先日のことを思い出した。
「福浦ってさ」
「ん?」
「そもそも北道さんとは仲いいの?」
 戻ってきたところへ尋ねると、福浦はさらに眉をひそめてみせた。
「いや。プライベートで会ったの、こないだの飲みが初めてだ」
「なんか、借りた福浦のTシャツに真っ先に気づいたから」
「店で一回着てるからな。気づく人は気づくと思う」
「それと福浦のこと、ハルトくんって呼んだから」
 そう続けたら、福浦はゆっくりと目を見開いた。ひどく驚いた様子だった。
 少し間を置いて、怪訝そうに続ける。
「そんなふうに呼ばれたこともないな」
「まあ、冗談っぽくだったけど。すらっと名前出てきたから、よっぽど親しいのかと思った」
 冗談っていうかほぼ嫌味だったけど。
 でもあそこで迷わず名前出せるかな、って気もする。なんとなくの違和感があった。
「実は私じゃなくて、福浦のこと好きな可能性ないかな?」
「ないと思う」
 私の推論をばっさり一蹴した後、福浦はいやに楽しげに笑った。
 そして私の傍らに屈み込むと、ねだるように顔を覗き込んでくる。
「もう一回呼んで」
「何が?」
「俺の名前」
 彼の顔には屈託のない笑みが浮かんでいた。

 私はあっけに取られていた。
 もちろん、呼ぼうと思えばいくらでも呼べる。さっきだって呼んだばかりだ。
 福浦が望むなら恋人プレイに興じたっていい。最初は痛いなってむずがゆくもなるだろうけどそのうち盛り上がってくる。たぶん楽しい。
 名前を聞いた時はそんなことも考えていた。
 はずなのに。

 福浦が期待の眼差しを、あまりにも真っ直ぐに向けてくる。
 そのせいだろうか、喉が詰まってすぐには応えられなかった。
 恋人プレイってやつは今からすでにはずかしくてたまらない。頬が熱を持っているのがわかる。穴が開きそうなほど見つめられて、うずうずと待たれて、私は重い口をようやく開いた。
「……ハルトくん」
 思ったより甘い響きにはならなかったように思う。
 それでも呼んだ瞬間、彼は照れたように目をつむってはにかんだ。
「うん」
 返事をするようにつぶやいたその後で、今度はうれしそうにこう持ちかけてきた。
「次は呼び捨てがいい」
 そんなに名前を呼ばれたいのか。
 実は好きなのかこういうの。
 これ以上は無理だとさえ思っていたけど、ねだられてしまうと弱い。私はさらにはずかしい思いで震えつつも、息を吐きながら呼んであげた。
「ハルト」
「……うん」
「まだ作業中だよ。片づけちゃおうね、ハルト」
 福浦が満足げにしているから、私は釘を差すつもりで続けた。
 すると彼は私の頬にキスをして、勢いよく立ち上がる。
「よし、おかげでがんばれそうだ。ありがとう」
「どういたしまして……」
 バケツに水を汲み、窓の拭き掃除を始める福浦はきびきびとした動きで、宣言どおりがんばれそうな雰囲気に満ちていた。
 でもこっちはだいぶ消耗してしまった気がする。
 名前を呼ぶだけでこんなにもいたたまれなくなるんだから、やっぱ恋人プレイはやめとこう。熱を持った頬を押さえながら、私は決意を新たにした。

 荷造りを終え、あらかた掃除も終えたあたりで引っ越し業者さんが来て、段ボール箱や家具を鮮やかに運び出していった。
 最後に軽く掃き掃除をして、鍵を返却した後、私たちはその部屋を後にする。
 新居へ向かうまでに少し時間があったから、軽くお昼を食べておくことにした。

 引っ越しの日と言えばお蕎麦。
 ものすごく単純な発想が一致して、ふたりで駅近くのお蕎麦屋さんに入った。そうして注文したお蕎麦をすすりはじめてから気づいた。
「引っ越し蕎麦って、引っ越した後に食べるものだったっけ?」
「どうなんだろうな。あんまり気にしたことなかった」
 福浦はおかしそうに笑いながら続ける。
「でもおいしいからいいよ。喉越しいいもの食べたかったし」
 引っ越しの後にお蕎麦を食べるのは、肉体労働で疲れているから、なのかもしれない。茹でるだけですぐ食べられるし、喉越しいいからするする入るし。実際はもっとすごい由来があるのかもしれないけど、たしかによく働いた後のお蕎麦はすごくおいしかった。
「天野は引っ越し慣れてるんだな」
 食べながら、ふと彼が尋ねてきた。
「食器しまうとこ、すごく手際よかった。助かったよ」
「子供の頃、何回か引っ越してるんだ。それでかな」
 私の答えを聞くと、福浦は興味を持ったようだ。質問を続けてきた。
「そういえば天野の地元って聞いてなかったな。転勤族とか?」
「ううん、そういうんじゃないけど」
 引っ越した理由はそういうのじゃない。
 でもご飯時に話すような内容でもないから、今答えられることだけ答えておく。
「私の実家、神奈川なんだよね。すぐそこ」
「へえ、本当に近いな」
 福浦は目を丸くしていたけど、なんとなく察してもくれたようだ。それ以上突っ込んで尋ねはしなかった。

 実家にはたまに帰る。年に一度くらい。
 両親は仲がいいし、歳の離れた妹はまだ小学生でとてもかわいい。私が帰ったら歓迎してくれるし、家族でご飯食べに行ったりもする。
 でも、実はあんまり帰りたくない。
 日帰りで行き来できる距離なのに足が遠のきがちなのは、仕方のないことだと思う。

「時々親に『彼氏できた?』って聞かれるんだけど、答えにくくてさ」
 セフレならおります。
 ――とは、さしもの私も親には言えない。
「なんて答えてる?」
 福浦が苦笑するから、私も肩をすくめておいた。
「いつも適当に。『仕事忙しくて』とか『ご縁がなくて』とか言ってる」
 そこまで追及する親でもないから、その程度の嘘でどうにかなってる。
 でもいつかは結婚を促されるようになるんだろう。困ったものだ。そんな気なんてとうにないのに。
「俺がいるって言えばいいのに」
 ぽつりと、福浦がつぶやくように言った。
「え、な、なんで?」
 友達を、そんなふうに親に紹介はできない。誤解されるだけだからだ。
 かと言って正直にも言えるわけがない。
 うろたえる私に、彼はにこやかに応じた。
「それ言えば北道さんのことも、ご両親への返事も全部解決するよ」
top