もっと爛れた関係です
福浦の部屋で過ごした一晩は、とても楽しかった。買ってきたアイスを、床に座って一緒に食べた。
コンビニから歩いて帰る途中でだいぶ溶けかかっていたから、棒から落とさないように大急ぎで食べた。あんまり急いだからか同じタイミングで頭が痛くなって、それがおかしくてふたりで笑った。
ソーダ味のアイスで冷えた唇を重ねたら、いつもと少し違う感触に思えた。その時もお互い顔を見合わせて笑って、一時の冷たさを楽しむみたいに何度もキスをした。
捨てたベッドの代わりに買ったという新しい布団をリビングに敷いて、その上に並んで寝転んだ。
そのお泊まり会感がまたいい気分で、明かりを消した後もしばらく他愛ない話をした。
「いろんなもの捨てて買い替えて、けっこうな出費だったよ」
「おまけに引っ越しだもんね、大変そう」
「でも今度の部屋は家賃安く済むんだ。先々への投資と思えば」
「たしかに、ある意味投資だね」
前に進めるようになるなら、それは彼にとって必要経費だってことだろう。買い替えも引っ越しもつらい思い出を吹っ切るために必要なことなら、ばんばんやってしまうのがいい。
「次の部屋ではいい思い出ばかりできるといいね」
私は祈るような気持ちで福浦に言う。
天井を見上げる私の隣で、彼がくるりとこちらを向いた。頬杖をついているのが横目に見える。
「天野がいてくれたら、いい思い出ばかりになるよ」
「へえ」
「……今、なんで笑った?」
思わず笑ってしまった私に、福浦は声を尖らせる。わかりやすく拗ねている。
「福浦はそういう思い出がいっぱい欲しいんだな、って思って」
「そういう思い出ってなんだよ」
「えー、そんな下品なこと女の子に言わせる?」
「天野がそれ言うか?」
今度は福浦のほうが吹き出して、私もつられて笑ってしまった。たしかにね。
ただ、彼が新居でも私と思い出を作りたいと思ってくれたことはうれしかった。この関係を続けたいと望んでくれてるなら、私だって許されるまで傍にいたい。
「俺は天野と一緒にいられたら、それだけでいい」
薄闇の中で、福浦の声からふっと笑いが消える。
どこか深刻にも聞こえるトーンで言われて、私は返答に窮した。
今まで福浦とはセックス抜きで会ったことがない。だから『それだけでいい』なんて言われたら、私が困る。
それだけって、本当にそういう意味なんだろうか。
「……なんで?」
苦しまぎれにとりあえず聞き返した後で、聞き返してしまったことを後悔した。
あわてて打ち消す。
「えっと、なんでもない」
それから福浦が口を開く前に、彼に抱きついてみた。
「ね、もう一回しない?」
「天野は明日仕事だろ。寝なくて大丈夫か?」
彼は心配そうに聞いてきたけど、そんなことはこの際どうでもよかった。
「大丈夫だって。むしろ元気になるよ」
「なるかな……わ、ちょ、握るなって……!」
「あ、福浦はもう元気だね。ほら、早くしよ?」
「わ、わかった、わかったから……は……っ」
めちゃくちゃ色っぽい吐息が彼の口から漏れはじめて、私はこっそりほくそ笑む。
福浦がその気になってくれるならうれしい。私にとっては、それだけでいい。
「……ごめん、いっこだけ」
私に長いキスをした後、頬に手を添えたまま彼が言った。
「明かり、つけていい? 天野の顔見たい」
せっかく消した明かりをつけたがる人は珍しい。でもそう言われて悪い気もしなかったから、私はうなづいた。
「いいよ」
そんな感じで、すごく楽しい一晩だった。
あまりにも楽しすぎて、ちょっと羽目を外しすぎたかもしれない。
次の日の朝、起きたらもう九時だった。
「寝坊した……」
「ごめん、俺もさっき起きた」
私を必死で起こしてくれた福浦が、布団の上で手を合わせている。
本当なら七時に起きて、電車乗って一旦家に帰るつもりだった。そして手早く出勤の準備を済ませたら、どこかのカフェで優雅なモーニングでもと考えていた。でもこの時刻だとその計画はまず無理だ。
「俺もアラームかけとけばよかったな」
福浦は申し訳なさそうにしている。
一応、昨夜のうちにスマホのアラームをセットしてはいたのだ。その記憶はちゃんとある。ただ、今朝まどろみながらアラームを止めた記憶もある。要はふつうに二度寝。
「福浦のせいじゃないよ」
私は笑って肩をすくめた。
「このまま出勤すると思えば、むしろいい時間に起きれたんじゃない?」
なにせここは池袋、うちの店は目と鼻の先だ。一旦帰ることをあきらめてしまえば、今からのんびり準備しても余裕で間に合う。なんならカフェでモーニングもできる。
「帰るのやめて店行くから、心配しないで」
「それならいいけど……」
「うん、切り替えてこ。服買わなきゃだから、少し早めには出るけど」
さすがに昨日と同じ服は着ていけない。朝帰りだってばればれだし、私も含めアパレル店員ってやつは意外と同僚の服もよく見ているものだ。トップスだけってわけにもいかないからボトムスも――となると、出費に頭痛くなるけど。
「服?」
そこで福浦はようやく笑って、こう言った。
「俺のでよければ貸すよ。Tシャツとかなら天野も着れるだろ」
「……いいの?」
彼シャツ、という単語が脳裏を過ぎるのを急いで打ち消した。
トップスだけでも買わずに済むならそれは助かる。ありがたい申し出に安堵する私を、福浦はリビングの隣の部屋へ連れていってくれた。
そこはすでに段ボールが積み上がった荷物部屋になっていて、それでもクローゼットはまだけっこうな量の服を収めてそこに立っていた。福浦は私でも着られそうなデザインを何枚か見繕ってくれて、私は嬉々としてそれを眺めた。
「お客様にはこちらお似合いかと思います、去年のモデルなんですが」
「なんで仕事口調になるの。でもけっこうデザインいいね」
「こちら今年のトレンドカラーとなっておりまして、女性の方も合わせやすいかと」
「まあ素敵。でも襟ぐり深くない? 見えたら困るものがあってね」
「でしたらクルーネックのこちらはいかがでしょう。キスマークも隠せます」
「つけた本人が言うなら間違いないね。これにしようかな」
私は福浦お薦めのフォトTシャツを借りた。海外のどこかの街並みをプリントした、けっこうかわいいTシャツだった。
それから福浦が作ってくれた朝ごはんをごちそうになって、出勤前にボトムスだけ近くの店で買ってから、朝帰りとはみじんも感じさせないそぶりで店に出た。
「……お前、そのTシャツどうした?」
店で顔を合わせた北道さんは、開口一番尋ねてきた。
昨夜のお礼とか昨夜機嫌損ねたこととか、そもそもの挨拶すらすっ飛ばしての質問に、私は当然びびってしまう。
「あ、これ、買ったんですよ。なんかいいなって一目惚れしちゃって」
つい早口になって弁明する私を、北道さんは無遠慮な目つきでじろじろ眺めた。
そして、
「同じやつ、福浦も着てた」
割とあっさり事実を撃ち抜いてきて、私を余計あわてさせた。
福浦はこのTシャツを『一度しか着てない』と言ってたけど、アパレル店員は同僚の服を本当によく見ているものだ。
「そ、そうでしたっけ? かぶっちゃったかなー」
「お揃いで買ったんだろどうせ」
「違いますって! 単に偶然ですよ」
「お前ら付き合ってんだろ」
じめっとした口調で言われた。
そこで『あいつの服借りてきたんだろ』とはならないあたり、北道さんは意外とピュアな人なのかもしれない。
「あーあ、ペアルックとか頭沸いてんなお前らも」
それでも嫌味ったらしく声を張り上げた北道さんが、私をにらんで続ける。
「『陽登くんとお揃いなのー』とかすっげえ痛いからな、バカップルめ」
勘違いで罵られたのはさておき、聞き慣れない名前があった。
「ハルトくん?」
私が聞き返せば北道さんはせせら笑う。
「お前、彼氏の名前も知らないのかよ。まだ名字呼びとかしてんのか? 高校生じゃあるまいし」
福浦ハルト――たしか陽が登るでハルト、だったかな。
シフト表には当たり前のように書いてあって、でも意識したことはなかった。うちの店長は女の子しか名前で呼ばないから、っていうのもある。シフト見て、イケメン向きの名前だなと思ったことがあったかもしれない。今思うとびっくりするほど明るい名前だ。
ハルトくん、かあ。
今度名前呼びあう恋人プレイでも提案してみようか。
いやいや、やめとこ。そっちのが痛い。だいたい恋人プレイとかしなくても、福浦はいつだって優しくしてくれる。
「私、福浦とは付き合ってないですよ」
とりあえずそれだけははっきり言っておいたけど、北道さんは信じなかったようだ。
「どうだか」
それだけ言うと後は何も言わなくなった。
だから、こっちもひとまず放っておくことにした。弁明してもだめならしょうがない。たぶん昨夜に引き続き機嫌が悪いんだろう。
ところが、放っておいたのがよくなかったのか。
この件は閉店後、爆弾となって返ってきた。
「羽菜ちゃん、お疲れ様。ちょっといい?」
閉店作業を終え、ロッカールームで帰る準備をしていた私に、店長が声をかけてきた。
「あ、お疲れ様です」
振り向いた私の目に飛び込んできたのは、やけに心配そうな顔をした店長の顔だ。
それだけでまずいい話じゃないのは察した。
発注ミスかレジの違算かクレームか、まさか店長まで福浦のTシャツに気づいたか――あれこれよくない想像をしていた私に、店長は一度ためらうように息をつく。
「あの、立ち入った話を聞くようで悪いんだけど……」
「はい」
「羽菜ちゃん、福浦くんと付き合ってるって本当?」
――北道さんだな。
昨夜と昼間の一件があったから、すぐさまぴんと来た。他に勘繰られる要素があったとしても、うちの店長はわざわざ従業員にそんなこと聞いたりしない。
「付き合ってないですよ」
もっと爛れた関係です。
とは、もちろん言ったりしないけど。
ともあれ私がかぶりを振ると、店長は申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「そっか……ごめんね。変なこと聞いちゃって」
「いえ、いいんです。でもどうしてそう思ったんですか?」
予想はつきつつも聞き返せば、
「北道くんがそう言ってて……」
案の定の答えが返ってきた。
あまりにも予想どおりすぎて驚きは一切なかった。
「だと思いました」
私が笑うと店長まで苦笑いを見せる。
「心当たりある? 私もね、同じお店で付き合ってる人がいるとか、そういうのは構わないと思ってるの。でも羽菜ちゃんでも福浦くんでもなく、北道くんが言い出したとなると、やっぱり本人に確かめないとと思って……」
本っ当にあの先輩はろくなことしない。店長の心労まで増やしてどうする。
「誤解させてすみません」
とりあえず詫びて、それから昨夜のことを話しておいた。
「昨日、仕事の後に三人で飲みに行ったんです。それから疑われてるみたいで……ずっと『違う』って言ってるんですけど、聞いてくれないんですよ」
「そうなんだ……」
店長はそこで、困ったように目を伏せる。
「たぶんね、逆なんだと思うな」
「逆? 何がですか?」
「北道くん、羽菜ちゃんのこと好きなんじゃないかな」
これには、驚きしかなかった。
驚きすぎてしばらく言葉も出なかった。
いや、だってふつうにないでしょ。
好きな相手に嫌味言ったりご飯おごらせたりマウント取ったりするもん? 私ならしない。
「ないですよ! 私すっごくきつく当たられてますもん」
あまりにも予想外すぎて笑う私に、それでも店長は主張する。
「ずっとそうじゃないかなって思ってたの。北道くん、羽菜ちゃんにだけ厳しいでしょ?」
「ええ、それはもうかなり」
「困ったことだけど、素直になれないタイプなんだろうね。羽菜ちゃんを福浦くんに取られると思って、ヤケになってるところもあるのかも」
そんなツンデレいらんわ。
それが本当なら北道さんこじらせすぎでしょ。どんだけ恋愛してないの。お前が高校生か。
とは言え個人的には半信半疑だ。
正直、本当であってほしくないという気持ちのほうが強い。
「とりあえず、北道くんには私から釘を差しておくから」
店長は疲れた様子で、それでも元気づけるみたいに微笑んだ。
「羽菜ちゃんも何か困ったことあったら知らせてね」
「ありがとうございます。なんか、すみません……」
なぜ私があの人のせいで頭を下げなければならんのか。
納得いかない気持ちはあったけど、店長の心労を増やしてしまったのも事実だ。申し訳ない気持ちになりつつ、私はそそくさと店を出た。
でも常識で考えたら、好きな相手にきつく当たるとかないよね。
北道さんにはさんざん馬鹿にされてるし、美人じゃないとか一応女とか言われてるし、それで実は好きでしたと言われてもまず信じられないと思う。
好きならふつうは優しくするでしょ。福浦みたいに。
いや、福浦が私のこと好きとかそう思ってるわけじゃなくて――とにかく。
この件、彼にも一応話しておこう。