前向きすぎて眩しいくらい
福浦の部屋は、三階建てアパートの二階にあった。一度クレームをもらったそうなので、ふたりして静かに中に入る。福浦が部屋の明かりをつけて、次にエアコンを動かす。真夏だけあって室内は蒸し暑い空気が充満していたけど、程なくしてエアコンから涼しい風が吹き出してきた。
「ごめん、すぐ涼しくなるから」
福浦は言って、入ってすぐのリビングにクッションをふたつ敷いた。
それから隣のダイニングに入り、冷蔵庫の前に立つ。
「何か飲むか? 麦茶か水しかないけど」
「ありがとう、麦茶がいいな」
私が答えると彼は冷蔵庫を開け、コップに麦茶を注ぎはじめた。
その間に私はクッションに座った。そして室内をぐるりと見回してみる。
物がない。
彼の部屋に対する第一印象はこうだった。
ここはリビングのはずだけど、目につく家具はエアコンとテレビの載ったテレビボード、それに本棚くらいだ。テーブルに値するものはなく、本棚は雑誌やゲーム機が入ってはいるけど歯抜けみたいにすかすかだった。まるで一部をどこかへ持ち出されたような――『ような』ではないか。そういうことだろう。
隣のダイニングにはテーブルが置いてあったけど、椅子は一脚しか見当たらない。冷蔵庫の隣に並ぶ食器棚も中身はほとんど入っておらず、なんだか寂しい感じがした。
生活感がないというわけじゃない。本棚の上の卓上カレンダーには福浦のシフトが書き込まれていたし、床の片隅に青いタオルケットが畳まれていたし、冷蔵庫の上にはプロテインの銀色の袋が置いてある。ここで彼が暮らしているというのは間違いなさそうで、だけどどこか寂しい印象だ。
私も独り暮らしだけど、部屋はもっとごちゃついてるし物も多い。
彼の失くしたものがここでも露わになったように思えた。
直に、福浦が麦茶のコップを二つ持って戻ってきた。
私が室内を見回していたことに気づいて、きまり悪そうに首をすくめる。
「なんにもない部屋だろ?」
「引っ越しの準備してるから、ではないよね」
正直に印象を告げると、福浦は座りながら素直に顎を引いた。
「けっこう物、捨てたから」
でもその答えは予想していたものと少し違っていた。
もしかして、ダイニングの椅子が一脚しかないのは――。
「ソファーとか、ローテーブルとか。ベッドも捨てた」
「お、思い切ったね……」
「自分が暮らす部屋に置いときたくなくてさ」
福浦がつらそうに語る理由は、あえて詳しく聞かないでおく。彼がそれらを選んで捨てた理由も残念ながらちゃんとあるんだろう。
「当時は病んでるところもあったんだろうな」
今は、遠い思い出を語るような口調だった。
「病んでたね。みんなで飲みに行った日とか、ダウナー極めてたよ」
「あれ、本当は行きたくなかったんだ。店長のお誘いだったから断れなかった」
あの夜、福浦は酔っ払っていた。店長や他のみんなが帰ってしまったことすら気づいていなかったほどだ。
だからこそ私が隙を突けた、というのもまた事実だろう。
「店長たちが心配してくれてるのはわかってる。でも誰に慰められても、励まされても、ちっとも立ち直れる気がしなかった。もう二度と誰かを好きになることなんてないとさえ思ってた」
そんなの仕方ない。あれだけ手酷く裏切られたら絶望するに決まっている。
むしろ、目の前の福浦が穏やかに微笑んでいるのが不思議なくらいだ。
「よく闇堕ちしなかったよね、福浦」
彼女を寝取られ捨てられて、ひとり東京に残されて、ヤケ酒の勢いで行きずりの女と寝てしまって――なんか後味悪そうな映画にありそうな筋書きだ。
事実としては何も間違っていないのに、福浦からは仄暗さやじめじめした情念を感じない。さっきも『未練なんてない』と言い切っていたし、ちゃんと吹っ切れてはいるようだった。
「堕ちかけてたとは思う」
福浦が、やっぱり笑う。
「でも天野のおかげで立ち直れた。本当にありがとう」
「私はなんにもしてないよ」
単に失恋して落ち込んでる男の隙を突いて誘って、おいしくいただいてしまったというだけだ。ぶっちゃけお礼を言われるようなことも、褒められるようなこともしていない。
立ち直れたのは福浦自身の前向きさによるものだろう。闇堕ちしない光のパワー。映画だったら絶対的ヒーローの役だ。
「天野がいたから元気になれたんだよ」
福浦は強く主張して、麦茶を一口飲む。
喉仏が色っぽく上下するのを見守る私をよそに、彼は続けた。
「あの時の俺は死にかけてた。でも息を吹き返したんだ」
「それが私のおかげって?」
「ああ。天野がいてくれなかったら、どうなってたかわからない」
そう言い切る福浦が、すごく優しい目で私を見る。
彼の比喩が大げさではないことを、私もすでに知っている。
浮気は心の殺人――そんなフレーズをどこで見たのかはもう思い出せないけど、そのとおりだと心から思った。たとえ身体的に暴力を受けたんじゃなくても、裏切られたら心には深い傷が残る。その古傷はずっと残って、いつまでも自分を蝕んでいく。
もう二度と誰かを好きになることなんてない、そんなふうに思いかけていたはずの福浦は、だけど殺されかけても息を吹き返した。
前向きすぎて眩しいくらいだ。まさに光のヒーロー。完璧すぎるいい男。
「……天野?」
私が黙り込んだからか、福浦が不思議そうに顔を覗き込んできた。
本当に、立ち直れてよかった。私は自分のことみたいにうれしい気持ちで彼に顔を近づける。短めのキスをする。
唇は温く、かすかに触れた頬はひやりと冷たい。エアコンの風が部屋を十分冷やしてくれたのだとわかった。福浦が閉じていた目を開けて、今度は楽しそうに微笑む。
「びっくりした」
「立ち直ったんなら、どんどん思い出作ろうよ」
私は彼を急かしてみた。
「ほら、楽しい思い出で塗り替えようって話してたでしょ?」
「そうだったな」
福浦が小さくうなづく。
それから麦茶のコップを置くと、ゆっくり私を抱き寄せた。
私が彼の頬に手を添えれば、また唇が重なる。今度も短い、触れるだけのキスだ。彼の唇は相変わらず柔らかくて、その心地よさに笑う私を福浦がじっと見つめてくる。
「天野」
眼差しが真剣そのもので見とれてしまいそうになる。
また顔が見たいんだろうか。至近距離にある好みの顔を見つめ返していると、抱き締める腕にぎゅっと力が入る。
「あっ」
思わず声を漏らす私に、福浦はまた唇を塞いできた。
今度はもっと強く、ついばむようなキスだった。感触を味わうように角度を変え、強さを変えて押しつけられる唇に、私もつい強くしがみついてしまう。
「んんっ……」
情熱的なキスも気持ちいい。
背中がひとりでに震える私を、福浦は支えるように抱き締めてくれる。腕越しに身体の反応も伝わっているはずで、だからか彼はしばらくの間私を離さなかった。
息継ぎの合間に私が福浦のシャツの胸元を握り締めると、彼は焦れた様子で私を床に押し倒した。
「は……っ」
そして荒い呼吸で短く息をつく。
私を見下ろす瞳にはぎらぎらと強い光が宿っていて、これから起きることの予感にぞくぞくするほどだ。期待高まる私が笑うと、福浦は少し気まずげに微笑んだ。
それから少し心配そうに尋ねてきた。
「背中痛くないか?」
リビングの床はフローリングだった。夏服越しに背中が冷たい。
「大丈夫」
私が答えると、福浦はいくらかほっとしたようだ。表情をわずかにゆるめた後、こう言った。
「嫌じゃなかったら……今日も、天野をめちゃくちゃにしたい」
もちろん嫌なはずがない。
宣言どおり、今日の福浦も私をとことん攻めたがった。
床が痛くないと言ったのをいいことに、私をうつぶせにさせた上で覆いかぶさってくる。そして後ろから両胸を揉みしだきつつ、首筋に顔をうずめてくる。
「ん……くうっ」
うなじに柔らかい唇が触れるだけで身体が跳ねる。くすぐったいと気持ちいいの間の刺激がじわじわと走る一方、裸の胸には彼の指が優しく食い込んで、ふにふにと優しく揉まれている。
「あ……っ」
今日はラブホじゃなくて福浦の部屋だ。あまり大きな声を上げることはできず、でも声を抑えると込み上げてくる快感に耐えられなくなる。
いつもより息が上がるのが早い、自分でもわかっていた。
「はあっ……」
「うなじ、ほんとにきれいだ」
福浦はそこも気に入ったようで、二度、三度と唇で触れてくる。声を出しかけた私が口をつぐめば、すかさず耳元でささやかれた。
「痕つけていい?」
「だめ……見えないとこにして」
見えるところにキスマークがついたら仕事に差し障わりが出る。というかさしもの優しい店長も怒る。
それは福浦もわかっているはずだけど、ともあれ聞き入れてはくれたのか、代わりに鎖骨の下あたりを強く吸い上げられた。
「んっ」
今ので痕がついただろうか。
明日にでも見返したら、どんな気持ちになるだろう。二度も福浦に攻め立てられて悔しいって思うのか、それでもよかったからいいって思うのか。またしたいって思うかもしれない。
思考がよそに逸れかけた時、
「あっ、やあっ……」
思わず声が上がりかけた。彼の指が胸の先端をつまんだからだ。
好きだというだけあって、福浦は胸の扱いには長けていた。痛くないほどにつまんだり、指の腹で捏ねくりまわしたり、指先で弾いたりと緩急をつけて弄ってくる。あっという間に身体の力が抜けて、声を抑えるのがつらくなる。
「も、もう……っ、胸ばっかり……!」
「他も触ってほしい?」
福浦のささやく声がどこかうれしそうだ。
彼は本当に攻めたがりなのかもしれない。もちろんこれはこれで楽しいけど、されるがままというのもやっぱり気が引けて、私は覆いかぶさられてる下半身を少しだけ揺すった。
今、服越しにもわかる。福浦のズボンの下にあるものが熱く膨張している。太腿をずらすとそれに当たって、軽く擦り合わせてみたら彼がびくりと震えた。
「あっ……何するんだ」
「私も触りたい。だめ?」
「……いいよ」
少し笑ったのは、譲歩してくれたってことかもしれない。
彼が私の上から下りて、すぐ真横の床に寝転ぶ。私はそのベルトを外し、チノパンのファスナーを下ろして、ボクサーブリーフの上に手を滑らせる。中はすでに膨張していて、手のひらに熱を感じた。
「すごいね、もうこんなになってる」
私が言うと、福浦は悪びれもせずに答える。
「天野がかわいいからだ」
「褒め上手なんだから」
「褒めてるとかじゃなくて……っ」
下着の中に手を潜らせると、熱が直に伝わってきた。体温よりもずっと熱く感じるそれを手で包むように握ると、福浦が眉間にしわを寄せる。
「は……手も、柔らかいな」
「動かしていい?」
「ん、ゆっくりで頼む」
頼まれたので、私は手を上下に動かして静かにしごき始めた。手のひらに強弱をつけながら締めつつ、濡れた先端を親指の腹で刺激する。
「あ……上手だ、天野」
うめく福浦が、私の下腹部へ手を伸ばす。
私が手を動かしている間、彼も私の中に指を入れてきた。動きを同調させるみたいにゆっくりと抜き差ししてくる。なんの抵抗もなく侵入してくる指が、入り口を押し広げようと動く。
「あっ……あ、あ」
福浦の指使いも上手だ。もうすでにどこが弱いか把握されてる気さえする。私が思わず腰を揺らすと、彼がまた喜ぶ。
「天野の感じてる顔、すごく好き」
「見ないで、はずかしいから」
「やだ」
頼んでも聞いてくれず顔を見つめてくるから、それならと私も福浦の顔を注視した。もちろん手の動きはゆるめず続けたままだ。手のひらがねばつくように濡れてくると、次第に福浦の呼吸も乱れはじめた。
「は……っ」
「私だって好きだよ、福浦のそういう顔」
もともと好みの顔だけど、気持ちよさに堪える切なげな顔はさらに好きだ。眉を寄せ、思わず目をつむってしまって、薄く開いた唇からは声まじりの吐息が漏れる。もっと見たくて仕方がなくて、私は動きを止められなくなる。
止められないのは彼も同じなのかもしれない。私の中に入った指が濡れた音を立てている。気持ちよさの一方で、どこかもどかしい気持ちがあった。握り締めたこれを入れたらもっと気持ちよくなれる――手のひらに感じる熱の塊が、欲しくてたまらなくなってきた。
「はは……両想いだ……」
福浦はずいぶんかわいらしいことを言った後、薄眼を開けて私を見た。
目が合うと、軽く息を呑んでから言われた。
「天野、もう……入れていい?」
「ん……お願い」
私もちょうど、そうして欲しいと思っていた。
お互いに同じタイミングでねだりあうなんて、本当に相性いいのかもしれない。