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好きになるより難しい

 ものの一分も経たないうちに、私は嘘をつかなかったことを後悔する羽目になった。
 なぜってその一分間、福浦はずっと黙っていたからだ。
 何も言わず、ただ私だけ見ていた。

 居酒屋前の通りは賑やかで、閉じたドア越しにも中の喧騒が聞こえるほどだ。
 だけど福浦の表情は真剣そのもので、辺りの雑然とした空気にはまるでそぐわない。見とれるほど整った顔にネオンの光がちらつくと、その明滅になぜか私まで気が逸る。この沈黙と彼の視線が、どうしてか居心地悪くて、はずかしくてたまらなかった。
 それもこれも北道さんが変なこと言い残してったせいだ。
 だいたいなんだ、お似合いって。そんなわけないじゃん。福浦はふつうだったら絶対捕まらないようなハイスぺ男で、私とはたまたまきっかけがあって身体の関係を持てたに過ぎない。さんざん言われてきたとおり、むしろ釣り合わなくて当然の間柄だ。
 たしかに思ったより相性いいなとか、なんとなく気が合うなとか、一緒にいて楽しいなって思ったりはするけど――。

 結局、この気まずさはそういうところから来るものなのかもしれない。
 つまり、なんというか、心当たりがある――みたいな。

「天野」
 唐突に福浦が私を呼んで、よそに行きかけていた意識が強制的に引き戻される。
「な、何?」
 思わず声が上ずった。
 そのせいか、福浦の表情が少しだけほどけて、柔らかくなる。
「どうして動揺してる?」
「し、してるかな? 別にそんなことないけど……」
 私はわざとらしく咳払いして、気を取り直してから続ける。
「でも北道さんってたまに訳わかんないよね。さっきも微妙にキレ気味だったし、っていうか今日はほとんど機嫌悪そうだったし」
 そう、本当に訳がわからない。
 お店に入った直後はタダ飯に浮かれてさえいたみたいだったのに、急にへそを曲げた感がある。私のことも福浦の元カノと比べて徹底的に貶していったし、そういえば福浦にだってずいぶんと絡んでた。
「そっちもけっこうあれこれ言われてたよね」
 私が指摘すると、福浦は今思い出したというように眉をひそめた。
「……そういえば、今日はしつこかったな」
「ね、あんなに根掘り葉掘りしなくてもいいのに」
 マスコミかってくらいになんでもかんでも聞いてきた。ちょっとの失言をつつきに来るところもそっくりだ。
 でも福浦は真面目な調子で言った。
「たぶん、わざとだと思う」
「わざと?」
「俺に『未練がある』って言わせたかったんだよ」
「え……本気で意味わかんないよそれ。なんで?」
 福浦が元カノに未練あったらあの人が何か得するんだろうか。
 むしろ今でも未練あったらつらすぎだし、きっと未だに立ち直れてなかっただろうし、私はそんな福浦見たくないけど――まさか北道さんは見たいのか。どんな趣味だよ。
「さあ、なんでだろうな」
 あまり関心なさそうなそぶりで、福浦は肩をすくめる。
 それから私に優しく笑いかけてきた。
「あの時、天野が割って入ってくれて助かったよ。ありがとう」
「ううん。ネタ思いつかなくてすごく不自然な乱入になっちゃったけど」
 今思い返すと不自然どころじゃない話題の変え方だった気もするけど、それでも福浦が喜んでくれたならいい。
 福浦はもう一度微笑んでから、道の向こうを手で指し示す。
「少し、歩かないか?」
「いいよ」
 誘われたから、とりあえず承諾した。
 実は私も、もう少し一緒にいたかったんだ。

 ――いや、別に変な意味じゃなくて。
 一緒にいたいとか当たり前だ。福浦は顔が好みだし、優しくしてくれるし、話してるだけでふつうに楽しいし。だから帰り際に『もうちょっとだけ』って思うのも当然だし、そこに他意なんてない。
 北道さんは本当に余計なことを言ってくれた。
 おかげでなんでもない言葉が引っかかってはひとりでぐるぐる考えてしまう。

 時刻はまだ午後八時過ぎ。
 うちの店もまだ開いてる頃だし、もちろん夜はこれからだ。面倒事が思ったより早くに済んだことだけは北道さんに感謝したい。
 福浦は明日休みだと言っていた。私は出勤だけど遅番だし、なんだったらこれからホテル行ってもいい。というか行きたい。どっかで切り出そう。

 福浦と私は、池袋の駅方向へと歩き出した。
 でも彼は程なくして立ち止まった。単に居酒屋の前にいたくなかっただけのようで、駅近くの歩道橋前で足を止め、歩道沿いの欄干にもたれかかる。私もその隣に並んだ。
 ここからは歩道橋と線路をくぐるガード下が覗けた。昼間でもどこか薄暗いガード下は、この時分だと暗闇がわだかまってちょっと怖いくらいだった。人通りはほとんどない。車だけはびゅんびゅん走ってる。
「暑くない?」
 福浦が尋ねてきた。
「そんなでもないよ」
 私は首を横に振る。夏の夜の外気が涼しいなんてことはありえなかったけど、でも外にいたくないほどでもなかった。
 歩道橋の向こうの線路を、山手線の車両が走り抜けていくのが見えた。温い風が吹いて、ほろ酔いの頬をぬるりと撫でていく。
「……未練なんか、あるはずない」
 電車が完全に走り去ってから、福浦はぽつりと言った。
 少し険しい横顔が、電車の消えた線路を見上げている。
「北道さんには言わなかったけど、そういう段階の話じゃないんだ。もう完全に壊れて、何があっても元通りになるはずがない。そう思わされるくらいにはひどい目に遭った」
 それはそうだろう。
 福浦の受けた仕打ちは強烈だった。あれから元鞘まで漕ぎつけるのは、めちゃくちゃ口の上手いセールスマンだって無理だろう。
「彼女のことは、好きだったよ」
 そう言ってから、福浦は私のほうを横目でうかがう。
 私がうなづくと、少しだけほっとしたように語を継いだ。
「でもそれ以上に信じてた。何があっても裏切られることだけはないと思ってた」
「うん……」
「長く一緒にいて築き上げてきたものが全部――いや、築き上げたって俺が思ったこと自体、勘違いだったのかもしれないけど」
 福浦は長い溜息をついて、弱々しく笑った。
「だから、未練なんてない。たぶんお互いに」
「……そうだよね」
 私には福浦の気持ちがよくわかる。
 一度失われてしまった信頼が、元の値に戻ることなんて絶対にない。

 人を好きになるのは簡単だ。
 単に見た目が好みだったり、一緒にいて居心地がいいとか、胸がときめくから楽しいとか、ほんのちょっとしたことで恋に落ちてしまうものだ。
 でも人を信じるのは、好きになるより難しい。好きになった人だってすぐには信じられないものだし、信じられないまま、でも離れられないなんていうのもよくある話だ。
 福浦は長い年月をかけて、彼女に対する信頼を育ててきた。その辺の詳しい経緯は知らないし、紆余曲折あったのか、なかったのかもわからない。ただ『好き、以上に信じてた』という言葉が全てだ。
 それを踏みにじられて、壊されて、未練なんて持ち続けられるはずがない。

「今度北道さんに何か聞かれたら、スルーしちゃうといいよ」
 私はそうアドバイスした。
「あの人が福浦を困らせたいのか知らないけど、律義に付き合ってあげる必要ないよ。はいはいって聞き流すくらいでいいと思うな。きっと『未練ない』って言っても疑ってくるだろうし」
「だろうな。俺もそう思う」
 そこで福浦は吹き出して、ちらりとまた私を見る。
「でも俺、天野が知っててくれたら十分だ」
「……私?」
「ああ。それで俺の話を信じてくれたら、それだけでいい」
 彼は少しうれしそうに、隣の私を見下ろしている。

 私は一瞬だけ考え込んだ。
 福浦の言葉を疑う気なんてなかった。だって彼が嘘をつけない性分ってことはすでに知っている。今の発言だって、きっとそうなんだろう。
 同僚として、たかだか二年三ヶ月弱の付き合い。
 こういう関係になってからはまだ半月も経ってない。
 だから信頼なんていうにはおこがましいくらいだけど、それでも、このくらいは信じていていいはずだ。

 考えた末に、私は笑って答えた。
「信じるよ」
 たったその一言だけで、福浦はたまらなく安堵したようだ。いつの間にか張りつめていた笑顔が和んで、噛み締めるように目を伏せる。
「ありがとう、天野」
「お礼とかいいって。福浦の気持ちわかるから」
 同じ気持ちを味わったことが私にもある。だから一切の情や未練を失ってしまう心境もわかる。できれば福浦には、二度と同じ思いをしてほしくないって思うけど。
「それでもうれしいよ」
 福浦はまた溜息をついた。でも今度のはほっと一息つくような溜息で、続けた言葉も明るく響いた。
「あとは引っ越しさえ済めば、きれいさっぱり切り替えられるな」
「そうだね。心機一転、再スタートできるよ」
 来たる引っ越しの日は福浦にとって、晴れがましい門出の日にすらなりえるのかもしれない。
 それなら私は盛大に祝ってあげよう。福浦がいい気分でその日を迎えられるように、楽しい思い出でも作ってあげるとしよう。
 あ、でも。
「最後に楽しい思い出作って、諸々の記憶塗り替えちゃうってのもいいかもね」
 私が提案すると、福浦は不思議そうに目をしばたたかせる。
「何、楽しい思い出って」
「私と作る思い出なんて一種類しかないでしょ?」
 そう聞き返したら、彼の顔が一瞬あからさまに動揺した。
 もっともすぐに表情を引き締め、言われた。
「そんなことない」
「いや、あると思うけど……」
 実際それしかないよね。今のところ。
「引っ越しで荷物運び出した後に部屋の掃除するじゃん。その時にできないかな? 部屋に家具がなかったらチープなエロ動画みたいでテンション上がらない?」
 それも楽しいかと思ったんだけど、福浦には首をかしげられた。
「テンション上がるか? 動画でもそこまで物ないことないだろ」
「そんな語れるほどエロ動画見てるの?」
「見て――見ることもある、かもしれない。たまに! たまにだけど!」
 ここでも福浦は嘘をつけず、言葉の後半をやたら強調してきた。
 彼がどんな検索ワードで動画探してるのか気になる。『巨乳』は絶対ありそう。『巨乳 Fカップ』とかかな。
「とにかく、その、引っ越し当日って忙しいから」
 今度は福浦がわざとらしく咳払いをして、さも生真面目そうに続ける。
「そんな暇はないよ、たぶん。荷物出したらちょっと掃除して、すぐ移動になる」
「それもそっか。なんか残念だね」
「……まあ、そうだけど」
 曖昧に答えつつも、決して否定はしなかった。
 私が黙って視線を送ると、福浦もこっちを見ていた。いざ目が合うと先に逸らしたくなるのは私のほうで、でも逸らすより先に彼が口を開く。
「じゃあ、嫌じゃなかったらだけど」
 ちょっとだけ言いにくそうにしながら、言った。
「これから、俺の部屋来るか? 割と近くにある」
「……いいの?」
「いいのって……俺は全然いいけど、天野は?」
 口ではそう言いつつも、福浦の表情は気まずげだった。
 なにせこれまでたっぷり話を聞かされてきた渦中の現場だ。ふつうに考えたら抵抗があってしかるべきなのかもしれない。でも私は気にならなかったし、もっと言うと妙な対抗意識があった。
 本当に、福浦の中の嫌な記憶を塗り替えてやりたい。
 最後の最後に楽しい思い出ができたって思ってもらいたい。
「私も全然いいよ。連れてって」
 即答する私を見て、福浦の気持ちも決まったようだ。
「わかった、行こう」
 彼はうなづくと、私の手を取る。
 指を絡めて手を繋ぐと、そのまま欄干から身を離し、ひと気のない歩道を歩き出した。

 思えば福浦の部屋で起きたことは聞かされてきたのに、福浦がどんな部屋に住んでるのかは何も知らないままだった。
 彼女と同棲していたならそれなりに広い部屋だろうし、上京してからずっと住んでたのか、就職の折に引っ越したりしたのかもわからない。アパレル店員のクローゼットが充実してないはずもないだろうし、筋トレグッズとか、オーディオの類とか、動画見る用のパソコンとかもあるのかもしれない。
 そういうものを見せてもらえるのかと思うと、これもある意味テンション上がった。

 それでも手を繋いで歩いていると、ほんのちょっと余計なことを考えてしまう。
 北道さんは本当に余計なことを言いやがる。
 お似合いとか、思っても言わなくていいのに。いや、思ってほしくもないけど――ない、わけじゃないけど。でも本当に違う。
「天野って明日、出勤だよな」
 歩きながら福浦が尋ねてくる。いつの間にかシフトを把握されている。
「そうだけど、遅番だから遅くなっても大丈夫」
 私はうきうきしながら答える。
 福浦と過ごす時間は楽しくて、だからこそ第三者からどう見えるかなんて知りたくなかった。

 お似合いって言われるだけの心当たりがある。
 だってそれだけ居心地いいし、一緒にいたいって思う。
 でも人から言われたらはずかしい。なぜなのかは、よくわからない。
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