聞いちゃいけないこと
仕事の後、私と福浦は北道さんを連れてご飯を食べに出かけた。職場が池袋にあるからか、私を含めてうちの店の人たちはこの辺りの居酒屋にはあまり行かない。
理由はいろいろある。池袋の駅と街並み見ただけで仕事思い出すからとか、安くていい店が多い分空きを見つけるのが難しいからとか。でも一番は、お店のお客さんに会うとやりにくいからっていうのが大きいみたいだ。
そう言ったって山手線沿線で飲んでたらどこでもお客さんには会っちゃいそうな気もするんだけど、新宿あたりだと案外出くわさないから不思議だった。東京の途方もない広さをそういう時に実感する。
もっとも今夜は、池袋で居酒屋を探して適当な店に入った。
福浦とふたりならともかく、北道さんを連れて電車移動はちょっとだるかったからだ。
全席個室の手頃な居酒屋はちょうど空きがあって、私たちはそれほど待たずに席へ案内された。掘りごたつのテーブルの上座に北道さんがまず座り、向かい側に私が座る。すると福浦は黙って私の隣に座ってきた。
「お前そっち座んのかよ」
北道さんが半笑いで指摘する。
実際、私も隣に福浦が来るとは思ってなかった。でも彼はなんでもないそぶりで答える。
「こっちホスト側ですよ。北道さんは今日クライアント側でしょ?」
「まあ、そうだけどな」
説明を聞いた北道さんは、ほんの少し納得いかない顔をしていた。
私は納得も何もないし口挟む気もなかったけど、福浦が隣に座ってうれしいような、なんか余計なこと考えてしまいそうな、変な気分だった。
今日の福浦はリネンのスキッパーシャツを着ている。店で着ていたのと同じものだ。Tシャツよりも開きの大きい襟元から鎖骨がちらりと覗いていて、つい目がそちらへ行ってしまう私がいる。
大概やらしいな私も。福浦のこと言えないじゃん。
三人前のビールと串焼き盛り合わせ、それに定番のおつまみをいくつか頼んだ。
ビールとお通しは注文後すぐに運ばれてきて、まずは適当に乾杯をする。
「後輩の金で飲む酒はうまいな」
ジョッキを傾けた北道さんはひとまずご満悦のようだ。
当初は焼肉もしくは鰻と言い出していたはずだけど、福浦が居酒屋を提案したらあっさり乗ってきてここに決まった。やっぱり無茶を言う相手は選んでるってことなんだろう。
とりあえず、お礼は言っておく。
「シフト替わってもらえて助かりました。ありがとうございます」
私が頭を下げると、北道さんはやたら得意げに顎を反らした。
「だろ? 感謝しろよ天野、優しい先輩に」
「ほんとですね。感謝してます!」
優しい先輩は後輩にご飯おごらせるかなって疑問はありますが、下手なこと言って気が変わられたら困るのでそこは黙っておく。
「にしても案外早く決めたな、引っ越し」
北道さんはお通しをつつきながら福浦に言う。
「美人の彼女だったし、もっとずるずる引きずんじゃないかと思ってた」
「おかげさまで、もう吹っ切れました」
福浦は歯切れよく応じた後、にっこり笑ってみせた。
「その節は北道さんにもご心配おかけしました」
「まあな」
北道さんは肩をすくめた後、好奇心を一切隠さずに身を乗り出す。
「もう復縁する気ないの? 付き合い長かったんだろ?」
元カノ話を掘り下げようとしてくるのは相変わらずの無遠慮さだ。
私はこっそり福浦をうかがう。
つらそうにしてたら話題を変えてあげようと思ったけど、福浦は意外と冷静な面持ちだった。
冷静に、むしろ冷淡なくらいの声で言った。
「ないですね。確かに長かったですけど」
「もったいないな、向こうが『許して』って戻ってきたらどうする?」
「それもないです、地元帰ったそうなんで」
福浦が元カノの動向を答えたからか、たちまち北道さんがにやりとした。
「把握してんじゃん。実は未練あるんだろ」
「違いますって、親経由で情報入ってきたんですよ」
何気ない調子で福浦は言ったけど、私はその情報にこっそり驚いていた。
親公認の付き合い、だったんだ。
話の流れからして地元も一緒っぽいな。ふたりで上京してきた、とかかな。
「何年くらい?」
北道さんがずけずけと尋ねる。
「高校時代からなんで、七、八年でした」
福浦は過去形で答える。
「うわ、ほんとに長いな。マジでもったいない」
「いいんですよ、もう済んだことなんで」
「でもそんだけ一緒にいたってことは、本気で好きだったんだろ?」
そう聞かれた瞬間、福浦の表情がにわかに曇った。
口元がこわばるのを隣から見ていた私は、今こそ話題の変え時だと察する。ちょうど店員さんが串焼き盛り合わせの皿を運んできたので、挙手の上で発言した。
「はい! 串焼き来ましたけど、私鶏皮もらっていいですか!」
たちまち福浦も北道さんもこっちを向いて、北道さんだけが顔をしかめた。
「勝手に決めんな! こういうのは分け合うのがマナーだろ」
そんなのはわかってる。
けどマナーって言ったら、彼女と別れたての人に根掘り葉掘りしないっていうのもマナーじゃないだろうか。
とりあえずはいかにも物知らないそぶりで笑っておく。
「だって鶏皮好きなんで」
「だからって独占するやつあるかよ。ったく天野は……」
北道さんにはしばらくぐちぐち言われた。
でも福浦はこっそりこっちを見て、おかしそうに笑ってくれたから、結果オーライだと思う。
串焼きから串を外すか否か、というのはよく議論の種になる事象のひとつだ。
北道さんは断然外す派で、三人前の串焼き盛り合わせの全部をは断りなくさっさと外しはじめてしまった。
「こういうのは本来女がやるもんだろ。天野はほんとに気が利かないよな」
しかも私はお説教まで食らったので、頭悪そうに反論してみる。
「私は外さないで食べたい派なんです」
これは嘘でもない。串焼きなんだから串で食べたいよね。
もちろん北道さんには思いっきり呆れられた。
「串にかぶりつきとか女捨ててんな」
「捨ててないですよ。女の子だって串焼きくらい食べます」
「そう言うけど、福浦の前でもそんな真似できるか?」
いい男の前でかぶりつきなんてみっともない。北道さんはそう言いたいようだ。
でも、私は答える。
「ふつうにできますけど」
福浦の目があったって別に気にならない。
彼もそんなんでドン引いて『幻滅しましたセフレやめます』って言うとは思えなかった。
「……だってよ。福浦、どう思う?」
北道さんが水を向けると、福浦は私を見ながら少し考えてみせた。
それから笑顔で答える。
「天野が一生懸命かぶりついてたら、きっとかわいいと思います」
「え!?」
「はあ!?」
予想外の回答に、私と北道さんは揃って声を上げてしまった。
でも福浦はいたって朗らかに続ける。
「隣で食べてたら、ずっと見ていたくなるんじゃないかな」
「マジかよ……」
北道さんがうめいたけど、ぶっちゃけ私も同意見だった。
「福浦、前から思ってたけど『かわいい』のボーダー低くない?」
何かにつけて褒めてくれるのはうれしい。でも福浦の目にはなんでもかんでもかわいく映ってるんじゃないかって、ちょっと心配にもなる。
私の問いに、彼はきょとんとしてみせた。
「そう?」
「そうだよ。なんか、その辺の犬とかでもかわいいーって言いながら駆け寄っていきそう」
「犬はかわいいけど、天野はそういうのとはまた違うな」
「どこが違うの?」
突っ込んで尋ねれば、福浦はまた私を見つめて考えはじめる。
でも今回はすぐに答えが見つからなかったようだ。隣りあう距離からじっと、黙って見つめられ続けて、逆にこっちが戸惑ってしまう。考え込む時の細めた目と薄く開いた唇がたまらなく色っぽかった。
切れ長の目は、片時も逸らさずに私を見ている。
私はこの待ち時間をどう過ごせばいいかわからず、しばらくそわそわと視線を巡らせたり、違うことを考えようとしてみた。でも私の目は気づけばすぐ福浦に戻ってしまって、結局見つめあう形になってしまうのがはずかしい。
なぜか、元カノについて以上に聞いちゃいけないことを聞いてしまった、気がした。
「……え、何この空気」
ふいに北道さんがつぶやいて、私と福浦ははっとする。
テーブルを挟んだ向かい側、北道さんは引きつった笑みを浮かべていた。
「福浦、さすがにそれはないだろ」
わざわざ私を指差して、信じがたいという口調で説く。
「いくら振られたからって天野までグレード下げるか? やめとけよ本気で釣り合ってないから!」
そこまで罵られるいわれもないけど、微妙な空気は払拭したくて口を開く。
「さすがに違いますって! 私と福浦はふつうに友達なんで……ね?」
そして隣に水を向ければ、福浦は少しだけ笑った。
「そうだったな」
「ほら、誤解しないでくださいね。福浦がグレード下げたなんてないですから」
我々の必死の取り繕いに、北道さんはしばらく釈然としない様子だった。
それでも気を取り直したか、ビールを一口飲んでから溜息をつく。
「別に、いいけどな」
その一言で場はとりあえず落ち着いて、また思い思いに飲んだり食べたりしはじめた。
渦中の串焼きはまだほとんど手つかずだ。串から外されてないものも残っていて、それを見つけた福浦が私に言う。
「天野、鶏皮の串あるよ。食べる?」
「え、どうしようかな。この流れで食べづらくない?」
「三人前あるんだし遠慮要らないって、ほら」
福浦は串外したい派の先輩の視線も気にせず、鶏皮串を二本、小皿に取り分けてくれた。
「ありがとう。でも、なんで二本?」
「俺のぶん。あげる」
「いいの?」
「いいよ、好きなんだろ?」
相変わらずびっくりするほど優しいのが福浦だ。
でももらいっぱなしはどうかと思うので、逆に聞いてみた。
「福浦は串焼きだったらどれ好き?」
「強いていうなら、ささみ」
「渋いね! あ、そっか。筋トレしてるんだっけ」
「そういう理由でもないけど、店で食べるささみっておいしいよな」
わかる。家で焼くとジューシーな焼き加減がなぜか再現できないんだよね。
さっきのお礼ってことで、私はささみ串を二本取ってあげた。北道さんがバラした串はねぎまや鶏ももといったメジャーどころで、ささみは奇跡的に全くの無事だった。
「ありがとう」
福浦はお礼を言うと早速一本手に取ってかじりつく。この店の焼き加減も絶妙だったようで、すぐに目を細めた。
「おいしい?」
「うん」
満足げな福浦を見届けてから、私も念願の鶏皮串をいただく。串から一口噛みちぎると、その様子を福浦がじっと見ていたから、思わず肘でつついてやった。
「見るな、食べにくいじゃん」
「さっき天野も、俺が食べるとこ見てたよな」
「見てたけど。何、仕返しのつもり?」
「そんな物騒な話じゃない。俺も見てたかっただけ」
何を見たかったっていうのか。また北道さんに誤解されそうなことを言う。
そういえば北道さんはずっとおとなしい。そのことにようやく気づいた私が面を上げると、差し向かいの席で苦虫噛み潰した顔の先輩がいた。
「俺の前でいちゃいちゃすんなよ、お前ら」
目が合うと舌打ちされたから、私と福浦は顔を見合わせる。
「してないよね?」
「してないよな。そう見えました?」
「どう見てもしてるわ!」
北道さんは『いちゃいちゃ』のボーダーが低いっぽいな。全然そんなことないのに。
居酒屋だから長引くことになるかと思いきや、北道さんはさっさとご飯ものを注文してたいらげると、ぼちぼち帰るぞと私たちを促した。
店に入ってから一時間経ったかどうか、その程度の滞在時間だった。
会計は福浦と折半して、彼が払ってくると言うから私と北道さんは店の前で待っていた。外はもう日が沈んでいて、代わりに居酒屋のネオン看板が夏の街並みを照らしている。少し蒸し暑い。
「結局、お前らのいちゃつきを見せられただけかよ……」
北道さんはその件についてまだ文句を言っている。
私は思わず苦笑した。
「だから、そういうんじゃないですって。誤解ですよほんと」
「どうだか」
吐き捨てるように言われた後、北道さんは私を睨む。
「お前、福浦の彼女見たことあんだろ?」
「ええ、まあ。一回きりですけど」
「すごい美人だったよな。大人っぽくてスタイルよくて落ち着いてて」
「そうでしたね」
「お前とは正反対だよ」
それは言われなくてもわかってる。
ただ全く残念なことに、尻軽ってところだけはそっくりなんだなあ。そんなとこ共通しなくていいのにね。
ま、そこが似てたって問題はない。私は福浦の彼女じゃないし。
「本当にそういうんじゃないんで、ご心配なく」
とりあえず笑って乗り切ろうとへらへらしていれば、北道さんはなぜか肩を落とす。
「けど、釣り合わないってのは間違ってたな」
「……え?」
「なんかふつうに、お似合いだよお前ら」
いや、だから、そういうんじゃないってずっと言ってるのに。
私は困惑したけど、向こうもそれ以上何か言う気はないようだ。急にくるりと背を向けた。
「帰る」
「……あ、はい。お、お疲れ様でーす」
こちらがかけた声が届いていたかどうか、北道さんは一切振り向かなかった。ただ駅の方向へ、早足になって去っていって、すぐに見えなくなった。
お似合い、ってなんだ。
さんざん人のことディスっといて、急になんなんだあの人は。
呆然とする私の背後で居酒屋のドアが開き、
「お待たせしました、会計終えましたよ」
「わっ」
声をかけられて、私は思わず跳び上がりそうになる。
振り返ると、福浦は辺りをきょろきょろ見回していた。
「あれ? 北道さんは」
「なんか、帰った」
「帰った? なんで?」
「さあ……」
後輩にごちそうしてもらってお腹いっぱいになって満足したから、じゃないことだけは確かだ。
でも、よくわからない。
「帰ったのか……」
福浦もすっきりしない様子でつぶやいていたけど、すぐにこう尋ねてきた。
「北道さん、なんか言ってた?」
その瞬間、私は嘘をつこうかと思った。
正直に言ってどうする。ああ言われて私ですら戸惑ってるのに、福浦にまでそれを伝染させてどんないいことがあるというのか。ひとりで飲み込んでおくほうがいい。
そうも思ったけど。
福浦に嘘をつくのが、どうしても抵抗あった。
彼が嘘をつけない人だって知ってしまったからかもしれない。
だから、結局言った。
「私と福浦のこと、お似合いだって」
そう告げたら福浦は、やけに真剣な目で私を見た。
息苦しくなるような蒸し暑さの中、私たちはお互いに黙り込んでいた。