嘘をつけない性分
引っ越しの日が決まった。そう福浦が教えてくれたのは、あれから一週間後のことだった。
「今月中?」
「ああ。業者さんがたまたま空いてて、今月中に荷物動かせるって」
オフシーズンだからだって、と福浦は言った。
開店前のロッカールームにて、今日はふたりとも早番だった。そうして顔を合わせるや否や教えてくれた。てっきり月末退去、月初め入居だと思っていた私は率直に言った。
「思ったより早いね」
「急いでもらった」
五つ隣のロッカー前で、福浦はカバンをフックに引っ掛けている。それから鏡を覗き込んで前髪を少し直す。横顔になんとも言えない苦笑が浮かんでいた。
「俺もあんなとこ、ずっと住みたくはないから」
まあ、そうだよね。
それには納得というか共感しつつ、私は尋ねる。
「でもそれだと二重家賃になっちゃわない?」
「フリーレントの物件にした。一ヶ月分損するのには変わりないけど」
損をしてでも、というところに福浦の強い意思を感じた。
「今の物件の家賃はあきらめてるよ。すんなり退去できただけでもありがたい」
福浦は前髪を直し終えると、溜息と共にロッカーのドアを閉める。音が響かない丁寧な閉め方のせいで、つぶやいた言葉もはっきり聞こえた。
「例の件で、クレームもらってさ」
「クレーム?」
「騒音がひどかったらしくて。出てってほしいって、遠回しにだけど」
「え、そんなに……?」
私はぎょっとしたけど、考えてみればありえないことでもない。
あの時福浦は彼女と間男を怒鳴ったというし、事態がそれだけですんなり収束したとは思えない。
彼女が悲鳴を上げたり、間男が弁解を喚きたてたり、あるいは泣き出したりしてひと騒動起きていた可能性もあるだろう。
そしてそんな悲劇の現場を、ご近所さんが正しく把握してくれるとは限らない。
福浦にとっては苦い思い出のみならず、本当にいづらい部屋になってしまったようだ。
こうして考えると彼の受けた打撃の大きさに眩暈がする。
精神的ダメージに加えて風評被害と金銭的負担まで。そりゃ溜息もつくだろう。
せめて私くらいは労わってあげよう。そう思って、わざと明るく申し出た。
「じゃ、約束どおり手伝いに行くよ! なんでも言ってよ」
それで福浦も、気を取り直したように笑ってくれた。
「ありがとう、本当に心強いよ」
でもその後で気遣うように付け加える。
「ただその日、天野は出勤みたいなんだ。無理はしなくていいから」
彼はすでに私のシフトを把握していた。
それによると、引っ越し当日は福浦は休み、でも私は早番の出勤になっていた。
早番なら仕事の後に駆けつけられなくもないし、なんだったら誰かに頼んでシフト替わってもらうという手もある。もちろん快く替わってもらえたらの話だ。
「一応、都合つけてみるよ」
私はそう答えておく。
うちの店のシフトは一旦決まってしまえば、よほどのことがない限り変更不可能。あとは店長を介さず従業員同士の交渉で融通しあう決まりになっている。つまり引っ越し当日のお休みが誰かで交渉の難易度が違ってくるわけだ。
「うれしいけど、無理ならそう言ってくれていいから」
「うん。とりあえず、替わってくれるかどうか当たってみる」
私も髪型を直しながら言った。
ロッカーの扉に据えつけてある鏡には、髪を結わえながらも難しい顔をする私が映っている。その日は優しい人かいい人がお休みだったらいいなあ。店長とか。
普段は髪を下ろしているのが好きだけど、夏場はやっぱり結んでしまったほうが涼しくていい。結ぶと鳥のしっぽみたいになる髪でシニヨン作って、適当にヘアピン刺して留める。鏡を見ながら形整えて、それからロッカーの扉を閉める。
福浦がまだそこにいるのが視界の隅に見えてたから、声をかけておいた。
「予定決まったら教えるね」
そう告げてから振り向けば、彼は五つ隣のロッカーの前で突っ立っていた。
ぼんやりとこちらを眺めていた瞳が、視線がぶつかった瞬間に見開かれ、すぐに逸らされた。
「どうしたの?」
「い、いや……」
福浦は口ごもったけど、言わないほうが気まずいと考えたようだ。
こっちを見ないままで続けた。
「うなじ、きれいだなと思って」
何を言うかと思ったら。
「ずっと見てたの?」
どうりで私が髪結んでる間もずっとそばにいたわけだ。褒められてうれしくないわけではないけど、なんか微妙な恥ずかしさもあって、私は首の後ろを手で隠す。
「見てた」
対して福浦は正直だ。あっさり認めてみせたから、逆に笑えてくる。
「やらしいなあ福浦」
「べ、別に変な目で見てたわけじゃない。本当にきれいだと思って!」
「今でも時々思い出してるんでしょ、仕事中とか」
こうやってシフトがかぶった時、たまに視線を感じたりする。さすがに勤務中にツッコミ入れたりはしないけど、福浦が何考えて私を見てるのか、想像するとけっこう楽しい。
案の定、彼は恥ずかしそうに目を泳がせる。
でも思ったより素直に答えた。
「……今、思い出してた」
耳まで赤くして、そこまで正直に答えなくてもいいのに。
たぶん福浦は嘘をつけない性分なんだろうな。
開店前にシフト表を確認する。
福浦の引っ越し当日、私は確かに早番だった。
そしてその日休みなのは福浦と、北道さんだった。
交渉成功率、五割ってとこかな。この時点で私は覚悟を決める。
北道さんは、私と福浦の二年先輩だ。
悪い人ではない。でもちょっと絡み方が厄介だ。特に私は北道さんから見て、店にいる唯一の後輩女子ってこともあり、なんとなく見下したような態度を取られることがある。
たぶん同い年とか、こっちが年上だったらまた印象違ったんだろうなと思う人だ。
「北道さーん」
開店前のうちに、私は早速話しかけてみた。
「すみません、シフトの交替をお願いしたい日があるんです」
そう持ちかけたら、棚の整理をしていた北道さんが振り返る。細い眉を互い違いにして私を見る。
「シフトの交替?」
「ええ。この日とこの日なんですけど、ご都合どうですか?」
スマホのカレンダーで福浦の引っ越し日と、それから私の本来の休日を指し示す。
北道さんは肩がぶつかるくらいの距離でそれを覗き込んできた後、まるで試すような目で私を見た。
「替わってやってもいいけど、理由による」
言うと思った。
シフトの交替を申し出ると、北道さんは必ず理由を聞きたがる。ただの好奇心なんだろうけど、聞いてどうするんだろうと思う。ちなみに北道さんのほうが頼んでくる時は絶対理由を言わない。
ともあれ、今回は言えない話でもない。私も福浦に倣って正直に答えておく。
「この日、福浦が引っ越すんですよ」
「へえ。ついに因縁の部屋から出てくこと決めたのか」
北道さんがふんと鼻を鳴らした。
「……で、私それの手伝い行こうと思って」
私がそう続けると、今度は妙な顔をされる。
「なんでお前が?」
「単に同期のよしみです。それに私、引っ越し慣れしてるんで」
「いや絶対嘘だろ」
そこで北道さんは冷やかすように低く笑って、私の肩に手を置いた。
「やめとけよ天野。いくら福浦がフリーになったからって」
「どういう意味です?」
わかってるけどすっとぼけて聞き返す。
すると訳知り顔を近づけてきて、こう言われた。
「後釜狙ってんなら言っとくけど、福浦はモテるからな。いくらでも選べる立場にいるのにお前レベルで尽くしたってまあ無駄だね。絶対釣り合わないし振り向きもしないって」
繰り出されたのは遠慮会釈もないトゲのオンパレードだ。
そういう言葉でいちいち傷ついていたのも一年目の頃だけで、今となっては聞き流せるくらいに慣れてしまった。自分が十人並みなのもよくわかってる。それでも言われたくはないけど。
ともかく、北道さんはこういう人だ。
無遠慮なだけでたぶん悪気はない。
私が頼まれてシフト交替してあげたことなんて数えきれないほどなのに、こっちがお願いするとこんな調子でなんだかんだと絡まれる。そして若干見下されてる。
別にいいんだけど、傷つくことも今さらないけど、たまに思う。
私のほうが先輩だったら思いっきり言い返してやるのにな。
しかしどうあがいても私は後輩、下っ端だ。
年功序列には逆らえず、へらへら笑ってかわしておく。
「さすがにそこまで身の程知らずじゃないですって。福浦とはふつうに友達ですし」
「だったらいいじゃん、行かなくて」
「いや友達だから手伝うんですよ。お願いします」
私が両手を合わせると、北道さんは少し鋭い目でこっちを見た。まだ勘ぐるような目つきではあったけど、どこかで気が変わったようだ。急ににんまり笑ってみせた。
「じゃあ今夜、飯おごって。そしたら替わってやってもいいよ」
「え、ええ……?」
「何にするかな。焼肉――いや夏だし、鰻でもいいな!」
くそ、足元見られてるわ。
私この人に何かおごってもらったことなんて一度もないのに。というかふたりで出かけたことすらないし、そういう意味でもめっちゃ抵抗ある。
でも、たったひとりで引っ越しする福浦を放ってもおけないし。今夜かあ。
「……じゃあ」
私がしぶしぶ先輩の要求を呑みかけた時だ。
「――それ、俺も行っていいですか?」
福浦の声が、私と北道さんの間に割って入った。
陳列棚を挟んだ向かい側に、いつの間にか彼が立っていた。
棚の上から顔を覗かせた福浦は、ずいぶんとさわやかに笑いかけてくる。
突然の乱入に驚いたのは私だけじゃなかった。
「お……おお、聞いてたのかよ」
北道さんは一瞬うろたえつつも、すぐにいつもの調子で私を指差す。
「福浦も来るか? 今日の退勤後、天野がごちそうしてくれるって」
勝手に人数増やすのやめてほしい。ボーナス出たてとはいえ三人はきついっす。
でも福浦が来てくれたらちょっとは気楽かな。北道さんとふたりきりとか絶対しんどいもん。いっそ巻き込むのもアリか――あれこれ考えをめぐらす私をよそに、福浦は言った。
「参加します。でも俺、おごる側ってことでいいですか?」
「は?」
北道さんがぽかんと口を開ける。
私も訳がわからなかったけど福浦曰く、
「天野は俺の引っ越しに来てくれるっていうんで、北道さんがシフト替わってくれるならお礼すべきはむしろ俺ですよ。よかったらおごらせてください」
ということらしい。
いや、いいのかな。ただでさえ引っ越しでお金かかる人にこれ以上出させても。ここは遠慮して私が三人分出しますよって言うべきか。
私が迷っている間、北道さんはいち早く納得したようだ。
「出資者が増えるのは歓迎に決まってる。よし、三人で行こう」
そう言ってから、反応に困る私の肩をまた叩く。
「そういうことだから天野、シフトは替わってやるよ。よかったな!」
「は……はい、ありがとうございます」
釈然としないまま頭を下げて、その後で私は福浦を盗み見る。
陳列棚越しに彼もこっちを見ていて、視線が合うと軽く目配せされた。
私は『それでいいの?』って小首をかしげておいたけど、ちゃんと伝わっただろうか。
その日は休憩時間も福浦と一緒だった。
店の休憩室でふたりきりになったタイミングを見計らい、私は実際に尋ねた。
「福浦はよかったの? 北道さん、たぶん遠慮なくおごらせてくるよ」
私はとにかくそのことが気になっていた。こういう時に後輩の財布事情を考えて遠慮してくれるような人ではないと思う。
でも福浦は苦笑して肩をすくめる。
「このくらいは必要経費。天野だけに出させるわけにはいかない」
「けどさ……」
「おかげで天野と一緒にいられるなら安いくらいだ」
私の懸念を遮るように言い切った福浦は、直後ぼそりとつぶやいた。
「それに北道さん、俺にはそこまで無茶言わないと思う」
やっぱり、そうかな。
あの先輩は明らかに私を与しやすい後輩だととらえているようだ。失礼な弄り方をするのも、何かと絡んでくるのも圧倒的に私が多い。福浦なんか成績優秀な後輩だからか、あんなふうに絡んでるところを見たことない。
私が顔をしかめた時、
「仲いいのか? 北道さんと」
福浦もちょっと硬い表情になって、そんなことを尋ねてきた。
「仲いいように見える?」
「いや、ご飯行くって言うから」
「誘われたの今回が初めてだよ」
しかもこっちのおごりっていうね。
でもそういう相手だからこそ、福浦が来てくれるのが本当にありがたいし心強い。
「だから正直、福浦が一緒でほっとしてるんだ。ありがとね」
私が感謝を告げると彼は照れたみたいだ。
口元をゆるませながら、くすぐったそうに首をすくめた。
「俺も、天野と一緒にご飯行きたかったから」
「そういう理由? 福浦なら別にいつでも付き合うのに」
「理由は他にもあるけど、言わない。格好悪いし」
福浦は照れた表情のまま、『他の理由』を本当に一切語らなかった。
突っ込んで尋ねたくても休憩室に他に人が来て、結局聞けずじまいだった。