いわゆる賢者モードってやつ
しばらく休んでから、福浦は私に冷たい水を持ってきてくれた。わざわざベッドの上で身体を起こさせて、キャップを開けたペットボトルの口を唇まで運んでくれる。病人の看護みたいって思いながらもありがたく飲ませてもらう。少しだけ零れて裸の胸を濡らしたけど、元から汗かいてたし、冷たいだけで気にならなかった。
「あー……」
呻く声がちょっとがさついている。福浦にさんざん喘がされたからだ。
「明日声出ないかも」
喉を押さえながら私が笑うと、彼もうれしそうに目を輝かせた。
「俺のせい?」
「なんでうれしそうなの、喜ぶとこ?」
「うれしいね。天野をめちゃくちゃにできた」
ああ、そういう意味でか。
実際、福浦はどことなく満足げだ。前回見せたような謎のしおらしさはもうどこにもなく、ただにこにこしながら私を眺めている。
でも私も、満足と言えば満足だった――いや、もう認めてしまおう。めちゃくちゃよかった。楽しかった。
あんなふうに誰かに尽くされるのは本当に久しぶりだった。愛がなくてもいいって考えは自分で決めたことだけど、それでも優しくされたらうれしくならないはずがない。ぞんざいにされて喜べるような趣味は私にだってないのだ。
福浦とは相性がいいのかもしれない。そんなことも思う。
単に身体の相性だけではなくて、フィーリングという点でもそうだ。ちょっとした冗談でも笑ってくれたり、ふざけて乗ってくれたりするし、最中でさえお互い笑いあってた。同い年だから話が合うんだろうか。
一緒にいてつらくない、それどころか楽しい相手がいること自体、久しぶりだった。
心地よい疲労感の中でそんなことを考えていたら、ふいに福浦が私の肩を抱いた。
「明日、天野は休みだったよな?」
「そうだよ」
私は休みで福浦が遅番。
シフトを見て、そういう日を選んで会った。
「一日で喉直るといいな。ゆっくり休めそうか?」
どうやら彼は本気で心配してくれてるようだ。尋ねられたから、正直に答えた。
「うん、喉休めとくよ。ヒトカラ行こうって思ってたけどやめとく」
「ヒトカラ? 好きなの?」
そこで福浦が意外そうに目を丸くする。
「まあね」
うなづいてから、苦笑気味に言い添えた。
「私の場合、どこ行ってもひとりナントカになるってだけ」
彼氏もいないし、平日休みの友達もいなくてめっきり疎遠になりがちだ。地元にはめったに帰らないし、東京ではひとりぼっちで過ごす時間が圧倒的に多い。そういうのにも慣れつつあったけど、だからこそ誰かと過ごす、こんなひとときは貴重だった。
「そっか……」
福浦は一瞬、ためらうように目を伏せた。
でもすぐにこちらを見て、けっこう真面目な調子で続けた。
「天野、他に会ってる男がいるのかと思ってた」
いつか聞かれるだろうと考えてはいたけど、想像していたよりストレートな問いだった。
そういうところも福浦らしい。私は軽く肩をすくめる。
「さすがに二股みたいなことはしないよ」
セフレの掛け持ちを二股と呼んで差し支えないかはさておき、私は同時にふたり以上とは会ったりしない。気をつけてはいるけど、万が一妊娠ってことになったらややこしくなるし。そもそも二股できるほどご縁のあるいい女でもないしね。
「福浦と会ってる間は他の人と会ったりしない」
チャンスがあってもそういうことしない。
それは最低な私が、それでも最低限守るべき倫理だと思ってる。
「誘ってくれるうちは、福浦だけのセフレだよ」
そう告げて笑いかけたら、彼はにこりともせず、至って真面目に私を見つめた。
切れ長の目を、何かを見極めようとするみたいにすがめる。印象的なその表情で、私の顔を黙って注視していた。
かと思えば、手にしていたペットボトルをボードに置き、そのまま私を押し倒してきた。
「わっ」
ふたり分の体重を受けて、ベッドがぽわんと弾む。その揺れも収まらぬうちから福浦は私の上にのしかかり、肩を包むように抱きながら唇を重ねてきた。
ぎゅっと抱き締められているからか、拘束するみたいなキスだと思う。
目を開けても福浦の顔しか見えなくて、唇が離れるまでじっとしているしかなかった。そしてキスの後も福浦は、しばらくの間私を腕の中に閉じ込めるように抱きすくめていた。
「どうかしたの?」
思わず尋ねれば、少し間を置いてから答えがあった。
「……なんでもない」
明らかになんでもなくなさそうだったけど、そう言われてしまうと追及もできなかった。
私はまだ福浦のことを知り尽くしてるわけじゃない。
服を脱がして裸になったって彼のことが何もかもわかるわけじゃない。
だから――もしかしたらちょっとした会話の中で、彼のトラウマに触れてしまったのかもしれない。推測だけど、そう思った。
二股、って言ったのがよくなかったかな。
福浦がなんでもなくなさそうな態度を取っていたのはほんの数分間のことだった。その後はまたふつうにキスしてくれて、汗かいたからお風呂に誘ったらノリノリでバスルームへお湯を張りに行った。
彼が自発的に言いたがらないことをわざわざ追及して、掘り起こすのはよくない。
でも彼が嫌がることをしないよう、言わないように気をつけるのも大事なことだ。
ラブホのバスルームは広い。
円形のバスタブもふたりで足伸ばして座れるくらいには広くて、私と福浦は仲良く並んで湯につかった。アメニティの入浴剤は三種類あって、ふたりで相談の上、ラベンダーの香りのバスソルトを選んだ。おかげで辺りはいい香りだ。
時刻はすでに午前一時、真夜中だった。そんな時分に入るお風呂は程よい疲労感と相まって、ふわふわ漂う不思議な心地があった。
「真夏のお風呂っていうのもいいよね」
「わかる。冷房で冷えたところに温まるのがいいよな」
「そうそう、電気代とかガス代とか考えたら贅沢なんだけど」
その点ホテルでは光熱費なんぞ気にする必要がなく、好きなだけお風呂に入れるし冷房だって効かせられる。最高の贅沢だと思う。
「またこういうとこのお風呂って広いし、気持ちいいよね」
こんな会話さえよく響いて、ここで歌ったら気分いいだろうなと思う。天井まで立ちのぼる湯気を見上げていれば、ふと福浦が言った。
「そういえば、引っ越そうと思ってさ」
「……あ、決めたんだ?」
振り向くと、彼は洗いたての髪を邪魔そうにかき上げた。
「ああ」
普段はパーマがかったその髪も、水に濡れると癖が弱まる。額を晒したオールバックも福浦にはよく似合っていて、どきっとした。
額が本当にきれいだ。
形のいい眉も瞳がいつもより見つめやすくて、惚れ惚れしてしまう。
「どの辺住むの?」
「まだ検討中だけど、通勤に便利なとこにしたい。今度の休みに内見行く」
「通いやすいほうがいいよね」
今は確か池袋って言ってたっけ。店に近くてうらやましいなと思ってたけど、引っ越さなくちゃいけない福浦がかわいそうになる。
でも、彼の表情は思ったより明るい。目が合うと穏やかに笑いかけてくれる。
「動かないと、前に進めないって思って」
「そうだね」
「これでやっと区切りがつけられる気がするよ」
きっと、そうだ。
福浦だっていつまでも寝取られ現場なんかに住みたくはないだろう。引っ越しをして気分が変われば、その時の傷も次第に癒えていくはずだ。
「引っ越しの時、人手必要なら呼んでよ」
私は喜んで申し出た。
福浦はそれにびっくりしたようだ。濡れた睫毛をぱちぱちと上下させた。
「そう言ってくれるのはありがたいけど……いいのか?」
「何かと手伝い要るでしょ? 休み合ったら駆けつけるよ」
その手の荷作りは私も何度か経験あるし、人手ならいくらあってもいいくらいだった。私がひとり加わっても邪魔にはならないだろう。
「助かるよ、天野。ありがとう」
どこかほっとしたように福浦の表情がゆるむ。
それからほんのちょっと寂しそうに微笑んで、こう付け足した。
「ひとりでやろうと思ってたから本当にうれしい」
「そうだったの? じゃあ尚のこと呼んでよ、戦力になるよ」
「ああ、心強いよ」
彼が心底喜んでいるようだったから、私も申し出てよかったと思う。
そういえば聞いたことないけど、福浦って地元ここじゃないのかな。
引っ越しひとりでするっていうくらいだから、東京に頼れる相手いないのかもしれない。まあ独り暮らしなら、業者さん呼んだらなんとかなるものかもしれないけど。
ともあれこれについては疑問というほど知りたいわけじゃなかったから、別に聞きはしなかった。
でも私、本当に福浦のこと、まだ全然知らないんだな。
こうして交わす会話の合間にもつくづく実感させられる。
「じゃ、日程決まったら教えて。なるべく休みもらうよ」
「わかった」
福浦はうなづいた後、楽しげに声を弾ませた。
「引っ越したら天野を招待しようと思ってた。ちょうどよかったかもな」
そうして隣に座っていた私に両腕を伸ばして、囲うように胸へ抱き寄せる。水しぶきが上がってバスタブのお湯が揺れたけど、彼は気にせず私を膝の上に乗せ、後ろから腕を回してくる。
私は福浦の胸にもたれかかる。こめかみのあたりに彼の顎があり、頬を寄せ合うにはいい距離だった。温まった頬の火照りと、濡れた髪の冷たさを感じた。
「福浦、私を呼んでくれるつもりだったの?」
「当たり前だろ。天野には来てほしかった」
彼のその口調はこっちが驚くほど気安くて、それこそ友達でも呼ぶような調子だった。
引っ越しの日取りはいつ頃だろう。
その頃まで私と福浦はこうして会ってるような仲だろうか。
関係を解消したって同僚は同僚だし、なんならそのままふつうの友達に移行したっていいわけだけど――でもなんとなく、先のことを考えてしまう。
その時、私はなんのために福浦の部屋に行くんだろう。
こういう物寂しさは事後特有のもので、考えすぎてもいけないとわかってる。
ただ今夜はそんな寂しさが無性に強く感じられて、私は黙って福浦の手を掴む。そっと握る。
血管の浮いたしなやかな手が好きだ。
この手に、さっきまでめちゃくちゃにされてた。
福浦はつい数時間前、私に『付き合おう』と言ってくれた。
もちろんそれを受け入れるわけにはいかなかったけど、もし受け入れてたらどうなってただろう。
いつ頃まで、なんて考えなくて済んだかもしれない。
あと何回会えるだろうって、終わりを意識してしまうことはなかったかもしれない。
これがいわゆる賢者モードってやつか。
柄にもない感傷は溜息で吹き飛ばして、私は福浦の手を強く握った。
「天野? どうした?」
福浦がいぶかしげな声を上げる。
後ろから顔を覗き込んで来ようとしてたから、私は握っていた福浦の手を自分の胸の上に乗せた。たちまち彼のきれいな手がこわばり、背後で低くうめく声がする。
「触らないようにしようと思ってたのに……!」
「なんで? 減るもんじゃないし、好きなだけ揉めばいいよ」
「胸ばっかりって思われそうだから。っていうか思ってるだろ」
「思うも何も、まごうことなきおっぱい星人じゃん」
そこだけはすでに十分すぎるくらい存じ上げてるわ。
私の答えを聞いた福浦は、むっとうなった。かと思うと私の耳を甘噛みしてきて、そのままささやいてくる。
「好きなのは胸だけじゃない」
「ひゃっ……も、もう、耳弱いんだって……!」
「全部好きだよ」
そう言ってもらえるのはうれしい。福浦も私を気に入ってくれてるって、一番知りたかったことだから。
「じゃなきゃ、こんなことしない」
熱い舌が耳をぞろりと舐める。
「や……あ、あっ」
声に甘さが混じるのが自分でわかる。思わず身をよじるとバスタブの水面に大きな波ができて、振り向いた私を、福浦が熱っぽい目で見てくる。
辺りに生じた波が収まるまでの数秒間、私たちはお湯の中で見つめあった。
先に切り出したのは私のほうだ。
「もう一回、する……?」
とたん、福浦はやたら悔しそうに頭を抱えた。
「明日が休みだったらしてた……!」
もう日付も変わってだいぶ経つ。明日が仕事の福浦にとっては非常に悩ましい問題だったようで、うなるように続けた。
「次は、お互い休みの日に会いたいな……」
バスルームを出てベッドに戻った私たちは、寄り添いあってそのまま眠った。
次の日は一緒に起きて部屋を出て、駅で手を振って別れた。私はひとりで五反田に寄って、またうどん食べて帰った。
充実した一夜が明けて、ひとりで過ごす休日がやってきた。
それでもあまり寂しくなかったのは、次の約束をしたから、かもしれない。