疑似恋愛っていうのかな
約束をした二日後、私は福浦と待ち合わせをしていた。時刻は午後七時。夏の空はようやく暗くなりだして、ビル街の向こうの空が残照で赤々と燃えている。新宿の街にはすでにネオンがともり、行き交う人はスーツ姿を多く見かけた。そういえば今日は平日なんだよな、とぼんやり思う仕事帰り。
うちの店のシフトは変則的で、休みの申請も前月のうちに早い者勝ちだ。遅番の翌日が休みとは限らないし、他の人の都合次第では遅番の日が連続で続いたりもする。私と福浦の休みも今月中は合わなくて、仕方ないから仕事帰りに会うことにした。
今日はお互い早番の午後六時上がりだから、一旦別れて新宿で落ち合う約束だった。
同僚なんだし、一緒にご飯食べに行くくらいなら人目を気にする必要はないのかもしれない。でもこうして待ち合わせをしようと言い出した福浦は、この関係にいくらか後ろめたさを覚えているんだろうか。私としてもうるさい先輩がたに見つかったら面倒だし、特に反対もしなかった。
待ち合わせ場所は新宿駅東口。
わかりやすく交番前に立っていたら、やがて福浦が現れた。
夏らしいきれいな青色のサマーニットとベージュのチノパン。その服装を見て、あれっと思う。店では白シャツを着ていたはずだから、わざわざ着替えてきたんだろうか。
福浦は駅を出るまでは人波に合わせて慎重に歩いてきた。だけど外へ出て交番前の私に気づくと、たちまち笑顔になって駆け寄ってきた。
「ごめん、遅くなった!」
そして目の前に立つなり謝られたから、私も笑ってかぶりを振った。
「全然。十分も待ってないよ」
「十分も待たせた? それは全然じゃないよ」
福浦は気にしていたようだけど、時間を決めていたわけでもないし遅刻には当たらない。私は肩をすくめて話題を変える。
「着替えてきたの? そのニット、いい色だね」
それで福浦も自分の服を見下ろし、すぐに照れ笑いを浮かべた。
「ああ、これ。汗かいてたから」
そういうとこ気にするのがまたかわいいな福浦。
「似合うよ。そういう色いいよね」
「ありがとう」
私が褒めると彼は素直にお礼を言い、それからこちらをちらりと見る。
あれから二日経って気持ちが落ち着いたのか、それとも会う約束をしたことで開き直ったのか。福浦は前ほど私に動揺しなくなった。時々は思い出したように顔を赤くしてるけど、勤務中はうろたえないよう振る舞っているようだ。
今も、彼の目は優しく、そして紳士的に私を眺めている。
「天野も、その服いいな」
「褒めてくれてありがと。店でも着てたやつだけどね」
私服勤務の職場だから、仕事帰りにそのまま街をぶらつけるのはいい。でも同僚と会う時の新鮮味はゼロだ。私も着替えればよかったか。
ちなみに本日のコーデは黒のアンサンブルニットにデニムのワイドパンツ。一見無難な組み合わせだけど、カーディガンを脱いだら下はノースリーブという勝負服だ。福浦がそこまで見越して褒めてくれたのかはわからない。
ともかく、お互い今日を意識して迎えたことだけは間違いなかった。
「ご飯、何食べたい?」
駅を離れて歩き出しながら、福浦が尋ねてきた。
「私が決めていいの? 暑いし、そこまでしっかり食べなくてもいいかな」
そう答えると、彼は少し考えてみせる。
「じゃあ、カフェダイニングとかにしようか。喉も乾いてるだろうし」
「いいね、そうしよ」
福浦が手ごろな店を知ってるらしいので、彼の案内で店まで向かう。
肩を並べて歩くのはホテルに行ったあの日以来だ。背の高い福浦は私の歩幅に合わせてくれて、ふたりで新宿の雑踏をはぐれないよう進んだ。
一度だけ、人を避けようとした時に手がぶつかった。
「あっ」
声を上げた福浦は一瞬こちらに手を伸ばしかけて、すぐに引っ込める。
「ごめん」
「いいよ」
繋いでもいいよ、のつもりでそう言ったのに、福浦は粛々と前を向いて歩き出した。整った横顔にほんのちょっと動揺の色がうかがえる。
付き合いたてのデートっぽいな、と思う。
いや、付き合いたてでも一週間と置かずまた会うってのはなかなかないだろう。福浦にとっては後ろめたい関係だとしても、私としては久々のデート気分がけっこう楽しくて、心が弾むひとときだった。
こういうの、疑似恋愛っていうのかな。
連れていってもらったカフェダイニングは、雑居ビルの二階にあった。
駅ビルなどのテナント店と違い、ドアで仕切られた店内は静かで落ち着いていた。ディナータイムとあって客席は八割がた埋まっていたけど、笑い声が響くような賑々しさはない。穏やかなざわつきが心地いい店だった。
全席ソファー席で譲り合う必要もなく、私と福浦は向かい合わせに座る。テーブルを挟んだ差し向かいの視線には慣れないのか、福浦はそこではにかんだ。
「今日は、来てくれてありがとう」
「誘ってって言ったの私だよ」
お礼を言われるのがくすぐったかった。
でも福浦は思うところがあるようで、少し複雑そうに答える。
「あんまり日を置かずに誘ったから、迷惑じゃないかと思って。それに……」
言葉を濁したかと思えば、声を落として続けた。
「それに、下心があるって思われそうだろ。こんなすぐに誘ったら」
「下心ないの?」
逆に私は聞き返す。
それで福浦は答えに窮したのか、目を伏せた。言いにくそうに、でも聞こえる程度の声量で続ける。
「な……皆無だとは、言えないけど」
ないはずないでしょ、こんなすぐ誘っといて。
確かめるべく、私は羽織っていたカーディガンを脱いだ。
ノースリーブの二の腕は福浦には効果抜群だったようで、顔を上げた彼の目がかちりと留まる。じっと数秒間見入った後、見入っていたことに自分で気づいていたたまれない表情になる。
「天野、なんで脱いだ……?」
「ほんとに下心ないのかなあと思って」
「いや、だから、ちょっとはあるよ」
ちょっとかよ。
「別にたくさんあってもいいのに」
私はテーブルの上で頬杖をつく。
「見たかったら遠慮しないで、じっくり見てもいいんだよ。あとで触ってもいいし」
そのためにこれ、着てきたんだから。
目のやり場に困っているのか、福浦の視線は私の顔と二の腕を行ったり来たりしている。なんて正直な目だ。
「私はちゃんとあるからね、下心」
むしろそれしかないとも言える。
すると福浦は何か言いたげに私を見た。その目が今はどことなく、恨めしげだと思った。
「俺は……それだけじゃない」
そうつぶやいたかと思うと、一転して生真面目に私へ向き直り、言った。
「今日は話があって、それで天野を誘ったんだ」
「話? どんな?」
気になって聞いてみたけど、これは聞くべきタイミングじゃなかったのかもしれない。福浦は一瞬黙ってから苦笑して、テーブルに据えつけられたメニューを差し出してきた。
「とりあえず、注文しよう。食べながら話すよ」
ここのカフェのメニューは甘味から食事まで、目移りするほど豊富だった。
仕事の後だからかさっぱり冷たいものが食べたくて、私はアイスの乗ったパンケーキに目をつけた。ところがパンケーキひとつ取ってもプレーン、バナナチョコ、いちごカスタードにミックスベリーと種類多彩で選べない。
「うわ悩む、どれにしよ……」
私がメニューの前で唸っていれば、福浦が目をしばたたかせる。
「迷ってる?」
「うん、ものすごく。どれもめっちゃおいしそうじゃない?」
「確かにな」
ふっと微笑んだ福浦が、メニューを覗き込んでくる。
「天野、ふたつまで絞り込めないか? そしたら決めてあげるから」
それは助かる。こういう時は他人の助言も欲しいものだ。
私は早速熟慮に熟慮を重ね、
「じゃあバナナチョコと……ミックス……いや、いちごカスタードにしよう!」
ぎりぎりのところでふたつに絞り込むと、福浦が長い指でメニューを確認する。
「バナナチョコと、いちごカスタードだな」
「うん。どっちか、福浦が選んでくれる?」
「いや、俺がバナナチョコを頼むよ。天野はいちごカスタードを選んで、半分こすればいい」
さらりとそんなことを言った後、驚く私に向かって照れてみせる。
「俺も甘いものが食べたかったんだ」
顔もいいのにさりげなく気づかいまでできるとか!
こんな優良物件、フリーなのも今だけだろうなあ。
「ありがとう福浦! めちゃくちゃ優しいね」
私が絶賛すると、彼は照れ笑いを曖昧に濁した。
「……そうありたいって思うよ」
あ、そうか。
福浦は前の彼女に『間男より優しくない』みたいなこと言われて振られたんだっけ。
でもこの福浦を捕まえてそこまで言える彼女さんはすごいなと思う。どんだけ聖人君子の間男見つけたんだろ。
そりゃ付き合ってから豹変する男、優しいと見せかけて暴力振るう男もいるもんだけど、福浦はそんなタイプにも見えない。だって一回寝ただけであんなうろたえて、思い出して赤面しちゃうような人だよ。ないでしょ。
なんか、納得いかないな。
やがて注文したパンケーキが運ばれてきて、私と福浦は仲良くそれをシェアした。
まるいチョコアイスにさらにチョコレートソースをかけたバナナチョコも、バニラアイスをいちごで囲んだいちごカスタードも、それぞれにひんやりおいしくて、仕事疲れの心と身体を存分に癒してくれた。
「おいしい! 最高だね!」
「これは半分こして正解だったな。どっちもおいしい」
私と福浦はパンケーキのおいしさを大いに喜び、何度もうなづきながら味わって食べた。
「このおいしさは福浦のおかげだよ、ほんとにありがとう!」
特に私は、彼を神と崇めんばかりに感謝していた。
だって半分こしようって言ってくれなかったら、このおいしいパンケーキの片方の味しか知らなかったことになる。それは実にもったいない。
「すごく感謝してくれるんだな」
福浦は楽しそうな笑みをこぼした。
「そんなに喜んでもらえると、こっちまでうれしくなるよ」
「喜んでるよ! 誰かとシェアするごはんっていうのもいいよね」
考えてみれば、職場以外で誰かと食事するのも久々だった。
「私、ごはん食べるのもここ最近はひとりだったんだ。半分こっていい響きだなって思ったよ」
学生時代の友達とは休みが合わず全然会えてない。
彼氏を持つのをあきらめてからだいぶ経つし、かといってこういう時にすぐ捕まる男がいるほどいい女でもない。
それでなんとなく、ひとりの時間に慣れつつある自分がいる。
「なんだ、そのくらいなら」
福浦は目を丸くしてから、私に向かってこう言った。
「俺でよければいつでも付き合うよ。半分こしたくなったら呼んで」
「ほんとに?」
それはいいなと思いかけて、でもすぐに考え直す。
「半分こしたくなる時って、メニュー見て迷ってる時だよね」
「だからメニュー見て『迷うな』って思ったら、すぐ連絡くれたらいい」
「それで福浦来るまで待ってるの? 空腹が限界突破しちゃうよ!」
「大丈夫、なるべく急いで飛んでくるから」
実現可能だと言わんばかりに福浦は微笑む。
でも、どう考えても非現実的だと思う。
「まあ、そういう気持ちはうれしいけどね」
できるかどうかはともかく、『いつでも付き合うよ』って言ってくれる人がいるのは久しぶりのことだ。
それがたとえ社交辞令でも、うれしくなるし、ほっとする。
「飛んでくるって言ってもらえたの、何年ぶりかなあ……」
私はしみじみつぶやいた。
「なんか、いいね。そういうことさらっと言えちゃうの」
福浦はもてるだろうな、と思う。
ずっと彼女がいた人だし、お店のお客さんから連絡先を渡されたこともあったらしいけど、そういう時の福浦は困った様子で店長に相談していた。これからは激しい争奪戦が巻き起こることも想像できるし、私と遊んでいられるのも今のうちだけだろう。
今のうちに福浦を堪能しとこう。
密かに決意する私の前で、福浦は心外そうに首をすくめた。
「さらっとなんて言えるほうじゃないよ、俺だって……」
そうして軽くため息をつく。
「天野にだから言ったんだ」
それは聞きようによっては口説き文句になりうる言葉だ。一回寝ただけの私にそこまで言わなくても。
当惑する私をよそに、彼は一度大きく深呼吸をした。
そして居住まいを正したかと思うと、惚れ惚れするほど凛々しく引き締まった顔で言った。
「話があるって言ったよな」
「う……うん。そうだったね」
「天野、俺と付き合ってほしい」
何を言われたか、すぐには理解できなかった。