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もう一回誘ってよ

 休みが明けた日の朝、私は元気よく出勤した。
 あの後、福浦からは特に連絡もなかった。『帰りたくない』と言っていた部屋にはちゃんと帰ったんだろうか。少し気になっていたけど、そのうち会うからいいかと、こちらからも連絡はしなかった。

 店では、店長が会うなり手を合わせてきた。
「羽菜ちゃん! 一昨日はほんとごめんね、福浦くん押しつけちゃって!」
 どうやら私たちを残して先に帰ったことを気にしていたらしい。私を見たらまず一番に謝ろうと思っていたのか、タイムカードを押した瞬間に事務所からすっ飛んできた。
「ああ、大丈夫ですよ。ちゃんと帰しましたから」
 私は笑顔で答える。
 嘘じゃないし。ちゃんと帰した、次の日の朝にだけど。
「福浦、なんか言ってました?」
「昨日連絡あったよ。『酔っ払って大変ご迷惑をおかけしました』って」
 店長はそこで苦笑して、肩をすくめた。
「もう平謝りって感じ。でも声から一昨日の死にそうな感じはなくなってて、ちゃんと立ち直ったんだなって思ったよ」
「へえ、よかったです」
 福浦、立ち直ったのか。それはよかった。
 私と同じように、店長も心底ほっとしたらしい。そこで満面の笑みになる。
「ね、よかったよね! もう私、福浦くんこのまま立ち直れないんじゃないのって思ってたくらいだもん。今日はちゃんと出てくるって言ってたし、一安心だね」
「ほんとですよね。仕事も出てこられるなら問題なさそう」
 元気になっててほしかったから、私はいい気分でその報告を聞いていた。

 ってことは、福浦も今日は出勤か。
 会ったらどんな顔されるかな。立ち直ったっていうなら、案外何事もなかったように平然としてるかもな。

「でも羽菜ちゃんには迷惑かけちゃってごめんね」
 荷物を置きにロッカールームへ向かうと、店長もついてきた。きれいに描いた眉を下げて、とても申し訳なさそうに続ける。
「ひとりで置いてって悪かったなって、後から気にしてたんだよね」
「いや、大丈夫でしたよ」
「え! あの後、天野だけ置いてったんですか?」
 私と店長の会話に、やかましい男の声が割り込んできた。
 ロッカールームに先にいた北道さんが、店長に向かって顔をしかめる。
「店長、天野だって一応女の子なんですよ。福浦も真面目な子とはいえ、間違いとかあったら困るでしょ」
「北道くん、私より先に帰ったのにそれ言う?」
 すかさず店長が突っ込むと、北道さんは何がおかしいのかげらげら笑った。
「そうでした!」
「羽菜ちゃん、真っ先に帰った奴が言うなって思うよね?」
 店長に同意を求められ、私は思いっきりうなづいた。
 北道さんなんて二軒目のカラオケ終わった時点で『俺明日あるんで』って帰ってった。別にそれが悪いって話じゃないけど、後から店長に文句言うのはどうかと思う。
「でも天野がひとりで残るって知ってたら、俺が志願しましたよ」
 旗色が悪いと見てか、北道さんはもっともらしく言い返した。
「ほら、こんなんでも天野だって一応女子だし――」
「一応は余計です」
 そういう言い草は慣れたものなので笑って流して、ついでにふたりの心配を払拭しておく。
「酔ってたって、福浦みたいな人がそういうことするはずないですよ。あの後もふつうに飲んで、ふつうに帰りました」
 これは嘘だけど。
 だからって『店長からいただいた万札はホテル代に消えました!』などと馬鹿正直に言うわけにもいくまい。
 福浦は自分で全額出すと言い張ったけど、せっかくもらったものだし使ってしまうことにした。黙って懐に入れなかった私を褒めてほしい。
「帰り際は笑ってましたし、ほんとに大丈夫だと思いますよ」
 そう言い添えると、店長も北道さんもすっかり安心したようだ。
「そうだよね。福浦くんは真面目ないい子だもん」
「あいつなら自力で立ち直れるって感じでしたもんね。心配して損したな」
 ふたりとも、そう信じて疑わない口調だった。
 私も、そういうことにしておこうと思う。

 朝のうちにシフトを確認したら、福浦は遅番だった。
 出てきたらなるべくふつうに接しておこう。店長にああ言ったってことはやっぱり立ち直れたんだろうし、私のせいで気まずくなったら仕事に差し障りもあろう。
 なかったことにする、これが最良の選択だ。

 ちょうど当店は夏物セール真っ最中で、午前中は出勤してきた福浦と挨拶をしただけだった。
「おはようございまーす」
「おはようございます」
 お互い会釈をしたから目も合わなかった。だから福浦がどんな顔をしたかはわからないし、確かめないほうがいいと思った。
 ちなみに店長や北道さんたちとはふつうに話をしていたようだ。出勤直後は謝りどおしだったみたいだけど、そのまますんなり勤務に入ったのは見かけた。
 ちゃんと復帰してきたんだからえらいな。本当に、もう心配なんて要らないのかもしれない。

 休憩を挟んで午後の勤務では、店長からストック整理を頼まれた。
「羽菜ちゃん、在庫チェックと発注しといてくれる?」
 それで私はひとりストックルームにこもり、在庫の確認と欠品チェックに追われた。特に今はセール期間中だから早めの発注が必要で、頻繁に整理を頼まれる。
 人によっては店に出るほうがいいらしいけど、私はストックルームの仕事もけっこう好きだ。もともと服が好きでアパレル選んだのもあって、整理しながらこんな服が欲しい、次のお給料でこれ買おうって考えたりするのが楽しい。
 とは言えそこは社会人三年目の悲哀。好きに着道楽できるほどお給料はもらってないし、むしろセールのたびに『これ買い逃したな』って思うことのほうが多い。

 今年も狙ってたワンピがあった。
 襟ぐり広めでティアードスカートできれいなミントグリーンで、それはもうすっごくかわいかった。でもいざ買うとなると自分に似合うかどうかで躊躇してしまって、結局買ったのはオーバーサイズのブラウスやらTシャツやらだ。自然と胸が目立たない服を選んでしまう。
 職場の先輩に『一応女』扱いされる立ち位置だから、かわいい服はなかなか手が出ない。
 本当は着たい服を着たらいいんだろうけどね。メインの購入先は職場だし、見られて一度でも貶されたら二度と着たくなくなる。服選びもなんだかんだ難しい。

「しょうがないか……」
 件のワンピを名残惜しく横目に見つつ、私は在庫のチェックを続けていた。
 すると不意にストックルームのドアがノックされて、
「はーい」
 返事をしながら振り向くと、ドアを開けてきた相手とばっちり目が合った。
 福浦だった。
「――あ」
 今日一日は没交渉、目も合わさず行こうと思ってたけど、合っちゃったならしょうがない。
 私はなるべく自然に、彼に笑いかけた。
「福浦」
 自分で言うのもなんだけどめちゃくちゃ完璧に自然を装ってたと思う。
 にもかかわらず、福浦はびくりとして私から視線を逸らした。しっかりとストックルームに入ってドアは閉めつつ、だけど目を泳がせている。顔が赤い。
「あ……天野……!」
 少し唇を震わせながら、片手で自分のシャツの胸元をぎゅっと握り締めながら、ゆっくりと、懸命に、視線を合わせようとしてくる。
「えっと、俺……」
 たっぷり十秒かけてようやく目が合った瞬間、思わず突っ込んだ。
「童貞か!」
「違うけど!」
 即座に反論してみせた後、福浦は拗ねたような顔になる。
「仕方ないだろ……昨日だってずっと天野のこと考えてたし、連絡しようか迷ったけど昨日の今日じゃしつこい気もしたし、でも店では絶対会うし、どう接しようか悩んでて……!」
 案外何事もなかった顔するかと思ってたのに。
 めっちゃ『何かあった』反応するじゃん。
「気にしないっていうのは無理?」
 私は苦笑しつつ聞いてみる。
「立ち直れたんでしょ? だったら心機一転復活ってことで、一昨日のことも忘れて、なかったことにしちゃえばよくない?」
 すると福浦は眉をひそめて、ずかずかと私の傍を横切った。
 棚に積まれた段ボールのひとつから梱包された商品を取り出し、ビニールを破きながらつぶやく。
「簡単に言わないでくれ。忘れるなんて、絶対無理だ」
 そんなにか。
 今さらちょっと罪悪感を覚えた。私、とてつもない純情青年に手を出してしまったのでは。
「そっか……」
 どうしようもない。とりあえず私は福浦に背を向け、仕事に戻る。

 それでも、在庫チェックをしながら考えてみる。
 責任取ったほうがいいんだろうか。
 いや、それはちょっと。福浦だってそういうのを望んでるわけじゃないだろう。
 だけどこのままだと福浦の仕事に差し障りがあるだろうし、困ったな。
 配置転換を申し出るのは最終手段にしても、せめてもうちょっと福浦には気にしないでもらいたいんだけどな。だいたいせっかくフリーになったっていうのに、女の子と寝るたびにこんなんなってたら福浦の身が持たないでしょ。もう少し慣れていかないと次の恋もままならないだろうに。

 そんなことを考えていたら、気づくと背後でビニールを破く音が止まっていた。
 何気なく振り返れば、福浦がこっちを見ている。
 また目が合って、彼が息を呑むのが聞こえた。
「どしたの?」
「い、いや、別に」
 福浦はあわてた様子でビニールを破く作業に戻る。ミディアムマッシュの裾から覗く耳も、そこから続くなめらかな首筋もほんのり赤くなっていて、彼が何を考えていたか、だいたいわかった。
 思い出してたな。
 これは重症のようだ。
 でもここまでされると正直こっちもうれしい気持ちがあって、やっぱりきれいさっぱり忘れられるより『忘れられない』って思われるほうが気分はいい。そんなに気に入ってくれたのかなって得意にもなる。私も一昨日は楽しかったしね。
 忘れるなんて絶対無理、か。福浦にそこまで思ってもらえるなんて光栄だ。
 だから福浦がそうしてほしいって言うなら、私としては喜んでもう一晩付き合うけど。
「福浦」
 私は彼の背後に近づき、そっと声をかけてみる。
 福浦は梱包のビニールをまとめて、ごみ箱に突っ込んでいるところだった。振り返った彼が、距離を詰めてきた私に気づいて目を見開く。
「ど、どうした?」
 それには答えず、私は福浦の腕を取った。
 そしてその腕に自分の胸を押しつけてみる。
 目立たない服を着ていたって、胸はいつでもそこにある。隠したって増えたり減ったりするわけでもないし、柔らかさだって変わらない。
 ぴりっと硬直した福浦に、私は胸を押し当てたまま囁いた。
「よかったら、もう一回誘ってよ」

 福浦は無言で私を見下ろした。
 腕を振りほどこうとはしなかったし、だけどそれ以上身じろぎもしなかった。
 たださっきまで明らかにうろたえていた切れ長の目は、真っ直ぐに私を捉えていた。急に何かを決意したように、真剣に、そして熱っぽく見つめてきた。唇が薄く開いているのが物欲しそうに映って、こっちがどぎまぎしてくる。
 こうして見るとやっぱり好きな顔だ。
 抱きついた腕は夏らしく半袖で、だからか福浦の体温がより身近に伝わってくる。温かい。剥き出しの、引き締まった腕を見ていると、私まで思い出してくる。
 この腕に、腕枕してもらったんだって。

 福浦が一向に振りほどこうとしないのと、これでも勤務中なので、私のほうから身体を離す。
 最後に念は押しておいた。
「人肌恋しいっていうなら、いつでも声かけて」
「……ああ」
 福浦はずいぶん素直にうなづいた。
 それから、ビニールから出した商品を抱えてストックルームを出ていこうとして、立ち止まって私を見る。
 真っ直ぐな目だった。
「天野」
「なに?」
 名前を呼ばれて聞き返せば、彼は深く息を吸い込んでから言った。
「よかったら今度、ご飯食べに行かないか? なるべく近いうちに」

 まさかこの場で誘われるとは。
 福浦、そんなに人肌恋しかったのか。

 あまりのスピード感にびっくりはしたけど、もちろん返事は決まっている。
「いいよ」
 即答すると、福浦はほっとしたようだ。
 うれしそうに口元をゆるめてみせた。
「仕事終わったら連絡する」
 そう言い残して、今度こそ本当にストックルームを出ていく。
 私も仕事に戻りつつ、ひとりでこっそりにやにやしておく。

 次に彼に会うのが、すごくすごく楽しみだった。
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