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忘れちゃってもいいよ

 次第に呼吸が落ち着いてくると、部屋の中はいっそう静かになる。
 高揚と余韻が徐々に引いていき、代わりに心地よい気だるさが押し寄せてくる。
 ベッドボードの時計によると午前一時を過ぎていた。

 ほんの少し、寂しさを覚えるのはこういう時だ。
 愛のないセックスだって楽しいしいつも後悔しないけど、でもこれが付き合ってる間柄だったらもっといいんだろうなって思う。終わってから抱き締めてもらったり、気が済むまで腕枕してもらえたりするんだろうから。
 とはいえ、私の歴代彼氏はそういうことをしてくれるような連中ではなかった。男運が悪いのかどうか、恋愛絡みではいい思い出がなかった。付き合ってるのにないがしろにされるのと端から愛がないと割り切るのなら、後者のほうが気楽でいい。
 だから、寂しいなんて思うのもお門違いだ。楽しかったねで終わるのがいいに決まっている。

 とりあえず、今夜は本当に楽しかった。
「バスルーム、先使ってもいい?」
 私は隣で寝そべっている福浦に聞いてみる。
 事後にこう尋ねるのは私なりの予防線だった。終わったとたん『身体が汚れた』とばかりにバスルームへ駆け込まれるのはいくら私でもショックだし、こう切り出すことで後腐れない関係をアピールする狙いもある。ずっとべたべたしてたら勘違いされて、そんなつもりないからって釘を差されることもあるからだ。
 先に起き上がった私を、福浦がじっと見上げてくる。何か言いたげに眉をひそめた後、彼は私の手頸を掴んだ。
「もう少し、傍にいてくれ」
「え……うん」
 戸惑いつつも再びベッドに横たわると、福浦は両腕でぎゅっと私を抱き締めてきた。こんなふうにねだられるのは珍しいケースだけど、別に嫌ではなかった。
 触れ合う肌はお互いに、まだしっとりと汗ばんでいる。ホテルの空調は涼しすぎるくらいだったけど、火照った身体を冷やすにはもう少し時間がかかりそうだった。
 福浦は私を抱き締めたまま、深い溜息をつく。
「ごめん、わがまま言って」
 耳たぶをかすめたその言葉が心底寂しそうで、ああそうか、と私は思う。
 福浦、本当に堪えてるんだな。
「気にしないで」
 私は背中に手を回し、なだめるようにとんとん叩く。
「つらかったね、福浦」
 ついでに頭も撫でてあげたら、福浦は弱々しく笑った。
「そんなに優しくしなくていい。泣きそうになるから」
「泣いてもいいよ、慰めてあげる」
「人前では泣きたくないよ」
 福浦はさらに笑って言ったけど、ひとりの時は泣いたりしたんだろうか。
 さすがに聞けなかったし、聞いたところで答えてもらえる気もしない。ただ彼の傷の深さがうかがえるようで、本当にかわいそうになった。

 しばらく私を抱き締めていた福浦は、やがて腕の力をふっとゆるめた。
 そして顔を覗き込んできたから、私は少し笑いかけておく。たちまち福浦が困ったように目を伏せた。
「ええと……」
 一度言いよどんでから、彼は言った。
「ありがとう、天野」
 でもその言葉は彼にとってしっくりくるものではなかったようだ。
 すぐにまた、困り果てた様子でもごもご言い始めた。
「いや、ありがとうっていうのもなんか……こう、即物的な感じがするよな。もちろん感謝はしてるけど、なんていうか、本当は俺、天野に謝るべきなんじゃないかって――」
 真面目だ。
 私は思わず吹き出してしまった。
「そんなんいいよ。ちょっとは気が晴れた?」
「ああ。それは、かなり」
 福浦が神妙に答えるのがさらにおかしかった。
「じゃあいいじゃん。福浦は気分転換になったし、私は楽しかったし、お互い感謝も謝罪もいらないでしょ」
 少なくともこっちに謝ってもらう理由はない。かなりおいしい思いができたしね。
 やっぱり顔のいい男は態度もイケメンだなってつくづく思う。あんなに優しくされたのも、褒められまくったのも久々だった。こんないい男、捨てちゃう人もいるんだなあ。もったいない。
「心配しなくても責任取れなんて言わないから」
 私は福浦に念を押す。
「今夜のこと、忘れちゃってもいいよ」
 でもそう告げたら、彼は黙って唇を結んだ。
 どことなく複雑そうな心中がうかがえる顔つきだった。
「俺は……」
 そうして何か言いかけて、また生真面目に言い直そうとする。
「――天野は、それでいいのか?」
 で、言い直した割にはそれが失言だったと思ったみたいで、あわてて付け足してくる。
「その、否定的に聞こえたなら謝るよ。こうして付き合ってもらって、迷惑かけた俺が言えた義理じゃないのもわかってる。でも……」
 私が黙って見つめる先で、福浦はようやく考えをまとめたようだ。
 一呼吸置いてから、さっきとは違うふうに尋ねてきた。
「天野はそれで、つらくならないのか?」
 やっぱり福浦は優しい人だ。
 自分がつらい時に私のことまで、こんなに頭悩ませなくてもいいのに。
「ならないよ」
 だから私は彼を安心させるべく、きっぱりと首を横に振る。
 それから、まだ納得いかない様子の彼に打ち明けた。
「好きでやってることだよ。彼氏とか作らないって決めてるから、こういう関係が楽でいいんだ」
 ベッドの上に半身を起こして、膝を抱える。
 見下ろす先の福浦は、いぶかしそうに首をかしげていた。
「実を言うとさ、私も何度か浮気されたことあるの。昔付き合ってた人たちに」
 複数形なところが本当に悲しいけど、でも事実だ。
 福浦が一瞬、身体をこわばらせたのがベッドの揺れでわかった。
「二股されたり『好きな人ができたから』って振られたりってことが続いてさ。友達に相談したら、私にも悪いとこあるんじゃないかって言われたりして。本当かどうかわかんないけど」
 好きな人ができたら尽くしたいほうだ。
 でもそういう態度が男をつけ上がらせるんだよ、などと友達には言われた。
 確かめてはいない。その前にあきらめてしまった。
「だから私、ふつうの恋愛はしないって決めた。もう裏切られるのも嫌だしね」

 そう決めてから、気持ちはすごく楽になった。
 時々人肌恋しくなることはあるし、そういう時に今夜みたいなチャンスがあればしっかり食いつく。でも深追いはしない。引き際はわきまえてるつもりだ。
 結婚はできないだろうなと思ってる。したいとも思わないけど。

 福浦は黙って私を見つめていた。
 その目が少し悲しそうだったのは、自分の境遇と重なるところがあったせいかもしれない。
 彼はこの先、恋をするだろうか。それとも私みたいにあきらめてしまうだろうか。わからないけど個人的には幸せになってほしいなと思う。福浦ならきっと引く手あまただろうし、いい奴だし。
 やがて彼は目をつむり、ぽつりとこぼした。
「……なんで、浮気なんてするんだろうな」
「なんでだろうねえ……」
「それで傷つく人だっているのにな」
「私には一生理解できないかな」
 ほんの一時の気の迷いで誰にでも起こりうることなのか。
 する人としない人がはっきりと分かれる、嗜好、あるいは性根の問題なのか。
 その答えを、たぶん私は知らないまま生きていくんだろう。だって二十五年生きててもわからないままだ。
「誰も傷つかない世界になったらいいのに……」
 福浦は尊い祈りみたいな言葉をつぶやいて、それから静かに眠りに就いた。
 私を抱き締める腕の力はとっくにゆるんでいたけど、それでも片腕を枕に、もう片方の腕は私の身体の上に投げ出されていて、抜け出そうとしたら起こしてしまう心配があった。
 だから私も彼の隣で、そのまま寝てしまうことにした。
 念願の腕枕だ。これも役得と思って、堪能してしまおう。

 翌朝、カーテンの隙間明かりで目が覚めた。
 時計を見れば午前五時半。福浦はまだ隣で寝ている。腕枕は継続中だけど、こっそり抜け出してシャワーを浴びてくることにした。
 メゾネットの一階にある、ひとりではあまりに広すぎるバスルームでシャワーを浴びる。せっかくだからバスタブも試したかったけどやめておいて、全身洗って髪を乾かし、軽くメイクをしてからベッドへ戻る。

 戻ったら、ベッドの上で福浦が正座していた。
 さっきまで丸出しだった下半身を布団で隠しつつ、背筋をぴんと伸ばして座っている。そして湯上がりの私を見るなり、究極に気まずげな顔をした。
「昨夜は、すみませんでした……」
 全裸のイケメンに深々と頭を垂れて謝られる姿は、シュールだった。
「なになに、どしたの?」
 私は笑いたいのをこらえながら聞き返す。
「っていうか謝罪とか要らないって昨夜言ったじゃん。なんで謝ってんの?」
「いや……それはわかってるんだけど……」
 福浦は心なしか声を震わせている。
 恥ずかしそうにうつむきながら言うには、
「昨夜の俺、けっこう盛り上がってたっていうか……実際夢中になってたんだけど、あんなことしといて天野とどんな顔合わせたらいいのか、今さら恥ずかしくなってて……」
 ということらしい。
「まあノリノリだったよね、福浦も」
 あえてフォローせず率直に応じたら、福浦はさながら乙女のように両手で顔を覆った。
「天野とはこれからも店で会うのに……見る度思い出すだろこれ……!」
 本当に童貞みたいなリアクションするなこの人。ピュアなのかな。
 ちょっと面白くなってきたので、私は福浦の隣に座った。彼がびくっとしたところにしなだれかかって、ささやいてみる。
「もしかして、意識してくれちゃってる?」
 福浦は音がしそうなほどぎくしゃくとこちらを見た。
 耳が赤い。そして、何も答えない。ただ私をじっと見つめる表情がやけに切羽詰まって映る。
 しょうがないな、福浦は。
「忘れていいよって昨夜言ったでしょ」
 私は指先で福浦の肩をつつく。
 福浦ごと、ベッドがきしんで揺れる。彼はいたたまれない顔になる。
「そんな、簡単に……」
「ほら、シャワー浴びといでよ。きれいさっぱり汗流したら、ちょっとは気分も変わると思うよ」
 有無を言わさぬ調子で急かすと、福浦はまだ何か言いたそうにしながらものろのろとバスルームへ向かった。
 そして十五分ほどで戻ってきたから、彼がまた余計なことを考えだす前に助け舟を出してみる。
「お腹空かない?」
 福浦は目をしばたたかせて、ゆっくりうなづいた。
「そういえば、少し」
「五反田においしいうどん屋さんがあるんだ。時間あるなら寄ってこうよ、朝からやってるから」
 昨夜はだいぶ飲んでたし、さっぱりとうどんとかいいと思う。
「ああ、いいかもな」
 福浦が賛成の意を示したから、私はベッドから立ち上がった。
「じゃ、行こ! 立ち食いだけど大丈夫だよね?」
「俺は気にしないよ」
「よかった。本当においしいから期待していいよ!」
 そうして彼を急がせつつ、ホテルの部屋を後にする。
 昨夜のことは思い出さなくていい。全部本当にきれいさっぱり忘れて、それで福浦には元気に立ち直ってほしい。

 私たちは朝早くに街へ出た。
 昨夜の賑わいの名残がある歌舞伎町を抜け、まだ通勤ラッシュも始まっていない電車に乗って、五反田まで足を延ばす。朝七時過ぎのうどん屋さんはちらほらとお客さんがいて、私と福浦も食券を買ってその中に交ざった。
 もうもうといい匂いの湯気が上がる店内で、私たちは肩を並べてうどんをすすった。夏だからふたり揃って冷たいうどんだ。
「あ、ほんとにおいしい」
「でしょ? ここのうどん好きなんだよね」
 飲んだ次の日に食べるうどんのおいしさは格別だった。喉越しよくてするっと入る。福浦も昨夜は相当飲んでたから心配だったけど、けっこうするする食べてて安心した。
「言い忘れてたけど、店長とかも心配してたからさ」
 うどんを食べながら、私は福浦の記憶が飛んでそうなあたりを保管しておく。
「明日出勤したら元気な顔見せてあげなよ。みんなほっとするよ」
「……ああ」
 私の言葉に福浦は、どこか上の空みたいな返事をした。
 まだ本調子とまではいかないのかな。こればっかりはやむを得ないことだけど。
「元気出せよう」
 混ぜっ返そうと私が肘でつつくと、彼は急にくすぐったそうに笑った。
「出てるよ、おかげさまで」
「ほんとに? じゃあ心配要らないか」
「いや、心配はして。寂しいから」
「かまってちゃんかよ」
 甘えたことを言うもんだから私も笑う。福浦も、何やら楽しそうに笑いをこらえている。
 その顔を見ながら思う。
 本調子ではなくても、福浦はきっと大丈夫だろう。ちゃんと立ち直ってくれる。心配はして欲しいらしいから今後も気にはするけど、それも近いうちに本当に要らなくなるんだろうな。よかった。

 うどんを食べ終えた後、福浦とは電車の中で別れた。
 新宿で降りる私と池袋へ向かう彼だから、挨拶も手短だった。
「じゃあ、また店でね」
「ああ」
 私が手を振ると福浦も軽く振り返してきて、それから目を細める。
「本当にありがとう、天野」
 お礼とかいいって言ったのに。真面目なんだなあ、本当に。
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