恋愛感情はなかった
新宿のことを最初に『眠らない街』と評したのは誰なんだろう。浅学にして知らないけど、何にせよこれほどしっくり来る形容はないと思っている。
昼間はビルが建ち並び、人と車がひっきりなしに行き交う大都会。日が落ちるとそれら全てに光がともって、日中以上に眩しく輝く。ネオン看板が光る街並みは脂っこい食べ物の匂いと陽気な人たちの話し声、笑い声で溢れていて、バーを出た私たちをあっという間に飲み込んだ。
「どこ行こっか?」
喧騒にまぎれてしまわないよう、私は声を張り上げる。
とたんに福浦はこちらを向いて、困ったような顔をした。
「天野。しつこいようだけど、本当に――」
「本気だってば。どこのホテルにする?」
彼の問いかけを遮って尋ねる。
福浦はますます困惑した様子で眉をひそめた。整った顔に明滅するネオンの光が当たり、沈黙の間も心が揺れているように見える。
ひと呼吸分の間を置いてから、ようやく福浦は口を開いた。
「天野が俺を気づかってくれてるのはわかってる。それはうれしいけど」
「無理してるって思ってる?」
「……そうじゃないのか?」
全然そんなことない。自分好みのイケメンをおいしくいただけるなんて最高だしありがたいなと思ってる。
でも本音をありのまま口にするのは情緒がないだろうし、ここはぼかして答えた。
「無理なんてしてないよ。でも福浦も、なんにもしないって選択肢もありだからね」
「え?」
「ホテルには行こうよ。で、その気になんなかったら一晩ふつうに寝て帰るだけ。それだけでも気が紛れるでしょ?」
できたらだけど。
こういうふうに誘ってなんにもしてこなかった男にはついぞ会ったことないけど、建前としては言っておく。福浦が栄えあるその最初のひとりになったとしたら、それは誇ってもいいことだろう。ならなかったとしたら、それでも私はちっとも構わない。
「福浦だいぶ飲んでたし、ひとりで帰すのも心配だもん。そっちだって誰かといたほうが気が紛れるでしょ? なんなら部屋借りて一晩ゲームとカラオケでもいいよ」
私も建前は心得たものだ。ぺらぺらとそんな口実を告げた。
「そういう話なら」
福浦は納得したのかどうか、やがてぎくしゃくとうなづく。
「どっちにしても部屋には帰るつもりなかったんだ。付き合ってくれるならありがたいよ」
そう言ったのが単なる人恋しさ、心細さのせいなのか、あるいは福浦なりに下心あってのことなのかは読めなかった。
どちらでもいい。私は笑って仕切り直す。
「じゃあ改めて、どこ行こっか。おすすめとかある?」
「この辺り、あんまり詳しくなくて。天野は?」
「私が決めていいなら」
福浦が決定権をくれたので、私は行ったことのあるホテルの中から一番ラブホらしいラブホに当たりをつけた。案内するからおいでよと告げたら、福浦は何か言いたそうにしながらもついてきた。
新宿は都心とあってラブホの数はもちろん、質だって申し分ない。
例えば前に行ったところは有名なチェーン店で、だだっ広いロビーは仕切りなんて一切なかった。部屋の準備ができるまでの待ち時間を、ビリヤードに興じたり入浴剤を選んだりしながら過ごした。他のカップルも普通に同じロビーにいたし、さらには女子会と思しき若い女の子たちのグループもそこで待っていたりと、都会のラブホって先進的だなと感心したほどだ。
でも私が今夜選んだのは、もっと無難なラブホだった。隠されたような入り口に客同士がすれ違うことのないロビー、仕切りつきで中の人の顔が見えないフロント、部屋選びはパネル式だ。
「どこがいい?」
一応希望を尋ねれば、福浦は難しい顔つきになりながらも二番目に高い部屋を選んだ。二階が寝室、一階にバスルームがあるメゾネットタイプの部屋だ。目を見開いた私をよそに、福浦はフロントからキーを受け取り、先に立ってエレベーターへ向かう。
エレベーターの中で、福浦は無言だった。
私も特にちょっかいはかけなかったけど、内心どきどきしていた。
初めての人とホテルに行って、するか、しないかの探り合いをする。
こういう駆け引きがけっこう好きだ。二度、三度と回を重ねればそういうのもまどろっこしくなってしまうけど、いつだって初めては楽しいしおいしいものだった。
しかも今夜はとびきり好みの男が相手だ。テンションだって上がる。
部屋は三階の廊下の突き当たりにあった。
カードキーでドアを開けると、福浦は私を先に入れてくれた。お礼とばかりにスリッパを福浦のぶんも並べてあげたら、少し複雑そうに笑った。
「ありがとう、天野」
室内はお値段相応に広く、寝室に続く短い廊下とバスルームへ降りるための階段がまず見えた。バスルームは後で確認するとして、まずは寝室に向かってみる。
白と黒のモノトーンで統一された寝室は、落ち着いた色合いのライトで温かく照らされていた。調度はだいたいどこも似たようなもので、壁際に据えつけられた大画面のテレビと、電気ポットやお茶の類が用意されたボード、金庫みたいなサイズの冷蔵庫、大きめのソファーと大理石を模した天板のテーブルがある。ベッドはテレビと向かい合う位置にあり、当然ながらダブルサイズだ。
安い部屋だとベッドまで直行するような距離感だったりするけど、ここはビジホなんかよりもずっと広い。
「わあ、いいお部屋」
私が声を上げると、福浦はまた苦笑いを浮かべる。
それからソファーを目で示して、言った。
「座ってもいいか?」
「どうぞ」
別に断らなくてもいいのに、私が応じると福浦はソファーに歩み寄り、腰を下ろした。
バーを出てからいくらか歩いてきたけど、あれだけ飲んだ後では酔いが醒めた様子もなかった。少し頬が赤い。
「何か飲む?」
確かここのはチェックアウト時に精算するタイプだったはずだ。記憶を頼りに冷蔵庫を開ければ、ペットボトルがキャップをこちらに向けて数本並んでいた。
「水か、スポドリがあればそれで」
「わかった」
ちょうどミネラルウォーターが冷えている。私は二本取り、ソファーまで持って行った。
ペットボトルを差し出すと、福浦はそれを受け取る。
「ありがとう」
今度もちゃんとお礼を言ってから蓋を開け、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。
その音が聞こえるくらい、部屋の中は静まり返っている。
私は、彼の隣に黙って座った。
ソファーが軽く軋み、福浦が一瞬こちらを見たけど、気づかないそぶりで水を一口だけ飲んでおく。
それから隣に目を向ければ、福浦は逆に目を逸らした。文句のつけようのないきれいな横顔が、どこか思案するようにペットボトルを見つめている。
「どうかした?」
駆け引きめいた気分で私は尋ねた。
すると福浦はまたこちらを見て、切れ長の目をすがめた。探るような目つきだった。
「思ったよりふつうのラブホだったから、びっくりした」
そういう言い方をされて、私は笑う。
「あ、ふつうじゃないほうがよかった? 教室とか病院とか電車とか――」
「そうじゃなくて」
福浦は手を振って私の言葉を制した。口元にはなんとも言えない笑みが浮かんでいた。
「俺、天野のこと全然知らなかったんだな」
実感を込めて続ける彼に、私は肩をすくめる。
「そりゃそうじゃない? 一緒の店でまだ二年……かな?」
「二年、と三ヶ月」
「そのくらい働いただけだよ。知らないことのほうが多くて当然でしょ」
「かもしれないけど」
それでも彼は納得がいかないようだ。私のことをどんな同僚だと思っていたんだろう。
私だって福浦のことはそれほど知らない。
知ってるのは顔が好みなこととスタイルがいいこと、三ヶ月に一度くらいのペースでヘアスタイルを変えること、美人の彼女が『いた』こと、あと勤務態度が真面目でお客様の評判もよくて彼のおかげでうちの店のノルマは安泰だって店長が言ってたこと――要は、同僚として知りえる程度のことしか知らない。
同期だからといって特別仲良くもなく、でも競争意識を持てるような相手でもなかったから険悪にもならなかった。顔を合わせれば挨拶をするし、飲み会で隣に座れば当たり障りない会話で盛り上がることもできる。でも仕事以外で個人的に連絡を取り合うことはなかった間柄。
こうやって一緒にホテルに来る機会があるなんて、今日までは想像すらしてなかった。
でも、せっかくの機会だ。逃したくはない。
「私のこと、どんなふうに思ってたの?」
試しに踏み込んで聞いてみる。
福浦は真面目な口調で答えた。
「いい奴――いや、いい人だと思ってたよ。いつも明るいし、ちゃんと挨拶してくれるし。同僚として仲良くやってきたと思うし。でも、こんな――」
そこで彼は言葉を区切り、短く息をつく。
「こんなふうに、ホテルに男と気軽に来るタイプだとは思ってなかった」
そう言ってしまってから、失言だとでも思ったんだろうか。あわてたように付け足してきた。
「ああ、ごめん。『気軽に』っていうのは失礼だよな」
「別に気にしてないよ」
私はかぶりを振っておく。
こういう時のフットワークが軽いのは事実だった。さすがに相手は選ぶけど。
「自惚れみたいなこと聞くけど……」
妙に真剣な声で前置きした後、福浦は真っ直ぐに私を見た。
ホテルの照明の下でも彼の瞳にはうるうると光が躍っている。きれいだった。
「天野は……俺のこと、好きなのか?」
しっかり私を見つめた上で確かめてくる誠実さには惚れ惚れする。
同時に、『そうでなければ男とホテルには来ないだろう』という彼らしい考え方もうかがえて、かわいいなあなんて思う。
できれば笑わずに答えたかったのに、つい吹き出してしまった。
「その、ごめん。本当に自惚れてたな……」
とたんに福浦は恥ずかしそうに顔を背けた。
ミディアムマッシュの髪から覗く耳が赤いのも、今は酔いのせいじゃないだろう。
「私こそごめん。えっと、なんて答えたらいいかな」
笑いを噛み殺しながらどうにか続ける。
「福浦のこと、素敵だと思ってたよ。顔が好みだし、スタイルもいいし、私服のセンスもいいよね」
「……ありがとう」
照れながらも、少し釈然としないそぶりで福浦がつぶやく。
私は、静かに続けた。
「でも恋愛感情はなかったな」
なかった。
手の届かないレベルの人だからとか、彼女がいるからとか、そういう理由で気持ちをセーブしていたわけでもなく、本当になかった。今もない。
こちらを向いた福浦がきょとんとする。その顔がまたかわいくて、次第にうずうずしてくる。
早く欲しい。
「ただ今夜はね、酔っ払ってる福浦がすごく色っぽく見えた」
私はソファーの上で、ほんの少しだけ彼に身を寄せた。
互いの肩がかすかに触れ合い、福浦がびくりとする。
「落ち込んでるところ本当に申し訳ないけど、でも私、めちゃくちゃ惹かれたんだ」
逃げられないのをいいことに、素直に告げてみた。
「福浦と、寝てみたいって思ったの」
その瞬間、福浦が息を呑むのがわかった。
静まり返ったホテルの部屋ではかすかな吐息の音すら聞き取れた。それからごくりと喉が鳴り、尖った喉仏が上下するのも見えた。
彼がどうしてここへ来たのか、はっきりとはわからない。
でも私に好意があるかどうかを尋ねてくるような人だ。『ふつうのラブホ』に彼女でもない女とふたりで入ることを、普段なら受け入れはしないだろう。ここへ来た時点でいくらかの期待があったはずだった。
それが純粋な性欲によるものか、あるいはただヤケになっているだけか、もしくは彼女への、今となってはぶつけようもない復讐心からか――私にとってはなんだっていい。
福浦の、色っぽい顔がもっと見たい。
彼は私の顔をじっと見つめていた。
酔いを帯びた眼差しは熱に浮かされたようで、舐めるように執拗に見つめてくるのがわかる。
その視線をくすぐったく感じた私が笑うと、福浦は、低い声で言った。
「――俺も」
少しかすれた、喘ぐような声だった。
「俺も、寝てみたい。天野と」
それから彼は私の頬へ手を伸ばし、親指の腹で下唇をなぞる。
私が拒まず目を細めれば、そのまま唇を重ねてきた。