慰めてあげようか
福浦が彼女に振られた。ぽっと出の男に寝取られたらしい。
「こんな日がやってくるなんて想像もしてなかった……」
ハシゴしてすでに三軒目のバーカウンター。福浦は何杯めになるかわからないお酒をあおる。
そして力なくうなだれた。
「こんなにつらい思いをするなんて……」
私は彼の隣に座り、酔っ払わないよう気をつけながらヤケ酒に付き合っていた。でも三軒目ともなれば、さすがに酔いが回ってきたのかもしれない。
さっきから、福浦の顔ばかり見ている。
福浦は職場の同僚で、同期だ。
職場はいわゆるセレクトショップというやつで、福浦はそんなうちの店でも売り上げナンバーワンを誇る男だ。アパレルよりもっと向いてる業界あったんじゃないのと思うくらい真面目な勤務ぶりで、当然ながらお客様からの評判も大変よろしい。
おまけに顔もいい。ゆるくパーマがかったミディアムマッシュに切れ長の瞳、鼻は高くて口元は男らしく引き締まっている。飲み会の次の日でも肌がきれいだし、身長は百八十センチはあるみたいだし、腰とかうらやましくなるくらい細い。初めて見た時はモデルさんかと思ったほどだ。
これだけきれいな男でも彼女に振られたりするんだなあ。
ま、人は見た目だけじゃないか。
しげしげと眺める私をよそに、福浦の愚痴は続く。
「早く仕事上がれたからって、そのまま帰るんじゃなかった」
長い前髪の向こう、グラスを見つめる目は愁いを帯びて揺れている。時々ゆっくりとまばたきをすると、睫毛が意外と長いことに気づかされる。
「先週のヘルプの時、意外と人が足りててさ。朝から入ってた奴は早目に上げてもらえることになったんだ」
髪に隠された耳の、赤くなった耳たぶだけが覗くのにどきっとする。
「ちょうどその日、彼女も休みだって聞いてたから急いで帰った。それが間違いだった」
首筋は羨ましくなるほどきめ細かくなめらかで、でも福浦がグラスの酒を飲むたび、思ったより尖った喉仏が別の生き物みたいに上下する。その動きを、なまめかしいと感じる私がいる。
いい男はヤケ酒しててもいい男だ。
つくづくもったいない。私だったら浮気なんてしないで生涯尽くしちゃうけどな。
そもそも事の発端は先週のことだった。
都内にあるショッピングモールで新規店舗のオープン日があった。
客層の厚いモールでの新旗艦店とあって、本社の気合の入れようも半端なかった。各店舗から何人かヘルプが集められることになっていて、うちの店からは福浦が行った。
福浦は午前中は忙しなく働いたそうだけど、その後本社からのヘルプが大勢やってきてくれた。それで午前中からいた組はそのまま上がっていいことになり、福浦はちょっと浮かれて家路に着いた、そうだ。
その日のことを福浦は打ちひしがれた様子で語る。
「玄関入ったら靴が二足あったんだ」
ありがちな展開だけど、実際遭遇したら堪ったものじゃないだろう。
「一足は彼女のだけど、もう一足は男物のスニーカーだった。俺のじゃなかった」
彼女とは同棲していたそうだけど、ここ最近はお互い忙しくて休みも合わなかったらしい。久々に一緒に過ごせると思った福浦は、帰宅途中におみやげまで買っていた。彼女の好きなチョコレートは、もう見たくもないと言っていた。
「相手の男は知らない顔だった。俺がいつも寝てるベッドにいた。彼女は俺を見るなり悲鳴を上げて――」
そこで福浦は、嗚咽のような呻き声を漏らす。
「思わず怒鳴りつけたら、言われたよ。『あんたなんかよりこの人のほうがよっぽど優しい』って」
ゆっくりとかぶりを振るその口元には、どこか自虐めいた苦笑が浮かんでいた。
唇はお酒に濡れて、てらてらと光って見える。
「俺が何も言えなくなった隙を突いて、彼女は男と一緒に逃げてった。『怖いからもう会いたくない』って言われてさ、荷物は俺が仕事の間に運び出されて、合鍵は玄関に放り出してあった」
薄く開いた唇から息をつき、福浦はそっと睫毛を伏せる。
なんてことだ。
失恋した男というのはこんなにも色っぽいものなのか。
私はどぎまぎしているのを押し隠しながら口を開いた。
「災難だったね」
「……あれ、天野」
そこで福浦がこちらを向いた。とろんとした目で辺りを見回した後、店の中に自分と私しかいないことに気づいたようだ。
「お前ひとりか? みんなは?」
「帰ったよ。朝早い人が多いから」
「店長も?」
「うん」
店長はつい三十分前まではいた。
もともと振られて死にそうな福浦の慰め会を企画したのもあの人で、居酒屋、カラオケ、このバーと店を移動しつつどうにかして場を盛り立てようと奮闘していた。
ところが福浦は出だしからずっとこんな調子で、居酒屋でもハイペースで飲むだけ、カラオケでは一度もマイクを握らずやっぱり飲むだけ、バーに入っても飲みながらひたすら鬱々としてるだけで慰めようもなかった。
そのうちにひとり帰り、ふたり帰り、しまいには私と店長だけになってじゃんけんで勝った店長が万札残して先に帰った。
『ごめんね羽菜ちゃん! いざとなったらタクシーに押し込んで帰っていいから!』
そう言って手を合わせてくる店長に、私はサムズアップで応じてひとり残った。
もちろん残ったことにじゃんけんで負けた以上の理由なんてない。福浦の足腰が立たなくなったら本気でタクシーに押し込むつもりでいる。
でもそれまでは、失恋でやられてる福浦を観察していようと思う。
こんな間近でいつもと違う福浦を眺めていられるなんて機会、もうないだろうから――二度もあったらかわいそうだから今夜だけでいい。
「そうか……」
福浦はまるで夢からさめたような顔をして、私に苦笑を向けてきた。
「悪かったな、こんな時間まで付き合わせて」
その無理やり作った笑みがまた健気に見えて、弱った子犬のようなかわいさに不覚にもきゅんとした。
「別にいいよ、私も明日休みだし」
胸のときめきを抑え込みつつ、こちらも笑って答える。
すると福浦は申し訳なさそうに目を逸らした。
「ありがとう。どうしても愚痴を零さずにはいられなくてさ」
「わかるよ、それ」
失恋の一度や二度、私にだって経験はある。浮気されたことだって何度もある。
それでも福浦のほど強烈な別れは経験したことなくて、『わかるよ』なんて安易に言ってしまってからちょっと後悔した。あわてて言い添える。
「今夜はとことん付き合うからどんどん愚痴ってよ」
「大丈夫か? 言いたい愚痴はまだまだ山ほどあるのに」
福浦が笑う。今度は少しおかしそうに。
だけどとびきりの笑顔は一瞬だけで、すぐに溜息をついた。
「こういう形で終わるなんて思ってなかったよ。あいつが浮気するなんて」
「そうだよね……」
私はうなづく。
ぶっちゃけ福浦の彼女のことは全然知らない。一度だけ店に来たのを見たことがあったけど、尻軽そうな感じは全然なくて、落ち着いた雰囲気のきれいなお姉さんだった。
ところが福浦の話では浮気した上に逆切れするタイプのようだから、本当に人は見た目によらない。
「でも、あいつの言うことも一理あるんだ」
「そこで納得させられちゃう?」
「ああ。俺は確かに優しくないよ、もうあいつに一切の未練はないから」
そこで福浦は語気を強めて吐き捨てる。
「ただ裏切られたことが悲しくて、空しい。あいつも他に好きな男ができたなら、先に俺と別れてくれればよかったのに。俺が優しくなくて愛想が尽きたって言うなら、最初にそう言えばよかったのに」
真面目な福浦は考えもしないだろうけど、世の中には今カレ今カノと別れる前に次の相手を確保しておくという人種が一定数いる。たぶん短期間でもぼっちになるのが嫌なタイプなんだろう。
でもそういう身勝手な振る舞いのせいで傷つく人がいる。
「福浦は悪くないよ」
だから私は、確実にわかっていることだけを告げた。
福浦は黙って私を見る。
バーの照明にうるうる揺れる瞳が、今は少し赤らんでいる。
「どんな理由があったって先に裏切ったほうが悪い。それは信じてていいと思うな」
「……そう言ってもらえると、救われるよ」
どこかほっとしたように、だけど心ここにあらずといった調子で福浦は言った。
たぶん、本当は、他人の言葉くらいじゃ救われることはないんだろう。
傷が癒えるには何より時間が必要で、他に取るべき方法なんてない。
でもこういう時の時間は思うほど素早く進んでくれなくて、その分苦しむことになる。
「部屋、引っ越そうと思ってて」
福浦のグラスが、もうすぐ空になりそうだった。
次のお替わりはさせないほうがいいだろうか。迷う私をよそに、彼は頬杖をつく。
「でも今ちょっと忙しいだろ。ちょうど夏物セール入ったとこだし、展示会後のサンプルチェックもあるし、秋物入荷に備えないとだし――だからあの部屋に帰ってる」
あの部屋とは、福浦の彼女が別の男を連れ込んだ部屋だろう。
しかも福浦のベッドでらしいから、トラウマのフラッシュバック度も半端なさそう。
「帰る度に思い出すんだ。あの日、見慣れない靴を見た時の胃がぎゅっと掴まれるような感じ。寝室に入っていく直前の背筋の震え。ふたりを見た瞬間に込み上げてきた怒りと、でもそれを叩きつけた後に残った空しさ。全部忘れられない」
案の定、福浦はあの日の記憶に苛まれているようだ。
何度目になるかわからない溜息をついた。
「だから……帰りたくなくて」
帰りたくない。
濡れた唇から漏れたその言葉が、やけに甘く響いて聞こえ、私の背筋はぞくぞくと震えた。
帰りたくない、だって。
正直こんないい男にそんなこと言われたら『じゃあ帰さない』って言いたくもなる。
恋愛感情は一切ないけど、それでも福浦の顔は好きだ。同僚だしワンチャンあるなんて考えたこともなかった。でも、今ならいただいちゃえる気がする。
食べちゃおうかな。
「ね、福浦」
私が呼びかけた時、福浦は私の、空になりかけたグラスを見ていた。
その目がすうっと私の顔に留まり、長い睫毛がゆっくりとまばたきをする。潤んだ瞳がきれいだった。
「私が慰めてあげようか」
囁くような声で告げたのは、聞き返してほしかったからだ。
福浦はそのきれいな瞳を見開き、それからすぐに私の顔を覗き込んできた。
「え?」
「慰めてあげようかって言ったんだよ」
もう一度、今度は聞き落すことのないように告げれば、福浦は一瞬目を泳がせる。
それから取り繕うような笑い声を立てた。
「あ、天野、そういう冗談言うキャラだっけ……?」
「笑うとかどうよ。すみませんねそういうキャラじゃなくて」
たしかに職場での私は三枚目、オチ要員みたいなポジションだ。間違っても男を誘惑するような悪女タイプではないし、そういう冗談が許されるような美女扱いもされたことない。
でもこう見えたって処女ではないし、それに――。
まあ。過去の話はいいとして。
「ごめん。別に、天野がどうこうって話じゃなくて!」
弁解しようと慌てる福浦の手に、私は自分の手を重ねてみる。
血管の浮き出たしなやかな手が一瞬びくりと震えた。だけど振り払われはしなかった。体温は福浦のほうが高い。
「部屋帰るの嫌なんでしょ? 私でいいなら一晩だけ付き合うよ」
福浦は答えない。
ただ呆然と私を見つめ返してくる。
「もちろん無理強いなんてしないけど。ただ、これ以上お酒飲むよりは健康的じゃない?」
そう言って視線で空のグラスを示すと、福浦もつられたようにそちらを見た。
少しだけ間があって、
「天野、本気で……?」
「冗談でこんなこと言わないよ」
「でも」
「ほら、お店出よ。もうお酒はおしまい」
私はわざと笑って彼を急かす。
それでも福浦はずいぶんと長く逡巡していたようだけど――やがて意を決したように、空のグラスから手を離した。