普通の女の子(2)
「見て、鷲津」ベッドの上に寝転ぶ久我原が、細いリボンをつまんでみせる。
「どう? この下着。かわいいでしょう?」
リボンの結び目はちょうど久我原の脚の付け根あたりにあり、それを引っ張ればほどける仕組みなのは下着屋で聞かされたとおりだ。リボンにつながるすべすべのサテン地は面積が値段の割にごく小さく、ぎりぎりのところで久我原を全裸にはしていなかった。
とはいえ、さっきまでバスルームで裸を見ていた相手だ。その向こうに何があるのかは知っているし、知っていても隠されると妙に気になってしまう。服を脱がしてこの下着が出てきたら、興奮する男とドン引く男とではどちらが多いんだろう。
俺は久我原聖美という女を理解しているから、今さら引きはしない。
明らかに実用向きじゃない、見たこともないような煽情的な下着姿は、裸でいられるよりいかがわしい感じがする。それを無視することができずちらちら見ていても、久我原は文句を言わないどころかうれしそうにさえしてみせる。恥じらいなんて一切ない。
「上も買ったのか」
彼女の質問には答えず、逆に尋ねた。
久我原の胸もまた、リボンを結んだキャミソールで隠されている。本人が控えめだと気にしている胸は、それでも存在がわかるくらいにサテンの生地を丸く押し上げていた。
こちらはほどける仕様ではないらしいが、裾のゆるいキャミソールはブラジャーよりも脱がしやすい。無防備さでは下と大差なかった。
「そう。せっかくだからセットで着たいじゃない」
「セットだとより高そうだよな」
俺は面白みのない感想をつぶやいてから、久我原が寝転ぶベッドに上がる。
彼女が両腕を差し伸べてくる。素直に覆いかぶさって一度キスをしてから、そっと腰のあたりを撫でてみた。湯上がりの肌は普段よりもしっとりしていて、火照ってもいる。
探り当てたリボンを指でほどこうとすると、彼女の手がそれを止めた。
「待って」
焦らすような真似は久我原らしくない。いつもは早くと急かすくせに。
「なんだよ」
聞き返すと、彼女は囁き声のトーンで言った。
「手じゃなくて、口でほどいて」
「はあ?」
また妙に変態めいたことを言いだした。俺が眉をひそめれば、久我原はねだるような目で続ける。
「せっかく買ったんだもの、簡単に脱がしたらつまらないでしょう?」
「……お前、そういうのどこで学ぶんだ?」
「ネットとか? 鷲津がこういうことしてくれたらいいな、って思いながら検索してるよ」
久我原はそうやって日々人には言えない知識をせっせと貯め込んでいるんだろう。感心するやらあきれるやらだ。
見た目は普通の女の子なのに、中身は変態でしかない。
いや、今の姿だけ見たら『普通』と言っていいのかどうか――あられもないという表現がぴったりの下着に身を包んだ久我原は、その雰囲気に高揚しているのか瞳をきらきら潤ませている。こんなにも期待に満ちた顔で待っている普通の女の子なんてそうそういるかと思う。他の女なんて知らないから断言はできないが。
ただ、その目が真っすぐに俺を見るたび、言い表しようのない感情が込み上げてくる。
俺はこいつに生かされている。そう実感する。
言われたとおり、俺は久我原の腰に顔を近づけた。
そして垂れ下がった細いリボンを口で咥えようとした。手をつかわないでするのはそれほど簡単でもなく、空振りの唇が久我原の肌だけなぶる。とたんにその身体がぴくんと跳ねた。
「やっ、だめだよ鷲津……」
ちっとも『だめ』じゃない口調で久我原がつぶやく。
顔を上げればうっとりした顔でこちらを見つめている。
「いたずらしないで、ちゃんとリボンほどいて」
「わざとじゃない」
言い訳にしかならない言い訳をしつつ、今度はちゃんとリボンを咥えた。
ちらりと見えた久我原の期待に満ちた視線を感じ取りながら、ゆっくりとリボンを唇で引く。もともとゆるかった結び目はあっけなくほどけ、そこから繋がる布地がはらりと落ちる。
「脱がされちゃった」
久我原の声は楽しげだ。
「まだ全部じゃないだろ」
そう言い返して、俺はキャミソールの下から手を差し入れた。
柔らかい腹の上により柔らかい胸がある。片手で胸を揉みながらもう片方の手でキャミソールを脱がしにかかる。久我原が長い睫毛を伏せた。
「あっ……積極的。どうしたの?」
「聞くなよ」
このタイミングでどうしたのって聞かれるのも気まずい。単に興奮してきたんだと正直に答えるのがいいんだろうか。でもいちいちそんなことを言うのも格好悪い気がして、俺は答えの代わりに彼女を裸にした。
コンドームをつけるのがすっかりうまくなった。
こんなものうまくても自慢にもならない。どうせ自慢する相手もいない。つい半年前まで童貞だった俺がひと箱使い切るくらいには場数を踏んでる、その事実はむしろ恥かもしれない。
だとしても、俺はその恥を拒めない。自ら望んで掻きにきている。
「ふふ……」
久我原は準備をする俺をベッドの上で待っている。相変わらず、うれしそうに。
そして俺がベッドに戻っていくと、わざと不慣れな女みたいに仰向けになって見上げてくる。
「今日は鷲津の好きにしていいよ」
好きにと言われても、いろんな体位を試せるほど詳しくも、挑戦的でもない。ただ今日は久我原の顔が見たかったから仰向けのままで挿れることにした。
ゴムをかぶせた性器を久我原の脚の間にあてがう、その瞬間に恥も気まずさも吹っ飛んでしまう。とにかく早く突っ込みたい、突っ込んでがくがく揺さぶってめちゃくちゃに喘がせたいって衝動的に思う。冷静でも理性的でもないただの馬鹿になる瞬間だ。
「あ……入ってくる……」
ゆっくりとめり込んでいくのを、久我原は目をつむって、幸せそうな顔で味わっている。
彼女はいつでも幸せそうにしているし、楽しそうだし、うれしそうだ。恥じらいなんてやっぱりみじんもなく、ただただこの快感を享受することに夢中に見える。
その顔を見て、俺もそちら側に引きずり込まれていく。
腰を押しつけて、彼女の脚を掴んで、まるでけだものみたいに腰を振る。肌と肌のぶつかる音がラブホの部屋に響き、そして久我原の鼻にかかったような喘ぎ声も響く。
「あっ、あっ、そこ好き、当たってるの好きっ」
その言葉も声も唇を薄く開けたやらしい表情も、俺しか知らない久我原の素顔だ。
彼女を喜ばせようと腰を振る俺も気づけば声が漏れ始めていて、無様だ、格好悪いと思いながらも必死に堪える。
格好悪いと言っても、セックスの時なんてどんな男も馬鹿で格好悪くなるに違いない。こんな腰の振り方をして、はあはあ息を乱して、汗もだらだら掻きながら何もかも忘れて快楽にふける。しまいにはみっともなく射精する姿は、どんなイケメンだろうがみじめで間抜けだ。
でも、それが普通なのかもしれない。
どんな奴もセックスの時は馬鹿になるんだって思うと、俺も馬鹿になるあきらめがつく。誰だって避けようがないんだ、しょうがない。
そしてそれは男に限った話でもない。女だってそうだ。
「鷲津、好きっ、あっ、大好きなのっ」
夢中になる久我原はいつもそんなことを言う。もう訳がわからなくなってるんじゃないかってくらい、狂ったように繰り返す。胸をぶるんぶるん揺らしながら、俺にめちゃくちゃに突かれるがまま喘ぐ。
俺たちは馬鹿になる時間を共有している。
他の誰でもなく、俺は久我原と、彼女は俺とだけこの時間を味わっている。
みんながやっていることを同じように馬鹿みたいに貪って、楽しんで、日常の憂鬱や面倒事やもやもやと消えてなくならない古傷なんかを忘れさせてくれる。代わりにぶっ飛ぶような快感と満足感をくれる。
それを、幸せだと思っている。
「く……がはらっ」
俺も名前を呼び返すけど振り絞るような声になって、聞こえたかどうかもわからないうちに柔らかくうねる久我原の中にきつく締めあげられて、あっさりと果てた。
外したコンドームをティッシュにくるんで部屋のごみ箱に捨てる。
それからベッドに戻ると、久我原は俺の隣に嬉々として寝そべってきた。
「今日の鷲津、格好良かったよ」
お世辞でもない調子で言ってくるから、馬鹿になった後の冷静な気分では後ろめたくもなる。
「どこがだよ……」
「なんかすごく激しかったもん。そういう鷲津もいいなって思っちゃった」
久我原の目も大概節穴だ。恋は盲目ってやつなんだろうか。
だとすると俺はまだ盲目じゃない――ちゃんとありのままの久我原を見ている。はずだ。
長い髪もすっかり乱れ、せっかくつけてきたグロスも落ちて、汗ばんだ身体を隠しもせずに俺に寄り添う彼女は、目が合うとにっこり微笑む。
「やっぱりあの下着、興奮した?」
思っても聞くか、そういうこと。
俺は答えずに久我原を見つめ返す。今の彼女に普通の女の子らしさはどこにもない。でもこの姿が不快なわけじゃない。俺しか知らないだらしない格好を、優越感もなくただただ眺めていられる。
きっと俺だってずいぶんとだらしない格好に違いない。丸出しだし、風呂に入った後なのに汗もかいてるし。でもそれが、彼女と同じ側にいるんだって実感につながっている。
「でもなあ……やっぱりもうちょっと大きくなりたいな」
不意に彼女が溜息をつき、自らの裸の胸に両手を当てた。
「あのキャミソール、胸ないと着こなせない気がして。寝そべるとほぼ平面じゃない?」
「そこまでひどくなかった」
その物言いに思わず吹き出す。
久我原にとっては深刻な悩みかもしれないが、ずいぶんと気にしているみたいだ。それも彼女の『普通』の女の子らしさ、なのかもしれない。あの久我原に悩みがあるんだって事実だけで驚きだ。
「気にするなよ。俺は気にしない」
大きくはないが形はいいと思う。触り心地も問題ないし。
それに胸だけあればいいって話でもない。顔も、声も、身体の他の部分も、そしてその時に変態的で、時に普通の女の子らしい中身だってないとだめだ。なかなか、本人には言えないが。
「本当っ? 鷲津大好き!」
久我原がうれしそうに腕に飛びついてくる。
柔らかい胸が俺の二の腕に触れた時、さんざんやった後なのにそんなことくらいでどきっとして――なんとなく、思った。
俺も大概、『普通』の男、なのかもしれない。