普通の女の子(1)
ラブホテルに来たのはこれで二回目だった。薄暗い路地裏に、人目を忍ぶように建つ犯罪と不貞の温床。入っていくのは表立って会えないような後ろ暗い連中ばかりで、駐車場の出口にはスキャンダルを餌にする下品なマスコミ共が巣食ってる。有名人でもなければそもそも相手もいない俺には生涯縁のない場所だ。
――というイメージは俺の偏見、あるいは誤解でしかなかった。
実際のラブホテルは思っていたよりも明るく、清潔で、利用客は人目も気にせず堂々と入ってくる。フロントで他のカップルとすれ違うことも普通にあった。出待ちのマスコミはまだ見たことないが、それこそ有名人でも来ない限りは見かけることもないだろう。
そして俺にも縁はあった。
合縁奇縁というなら『奇縁』の方だと思うが、俺を繋ぎとめる確かなものには違いなかった。
「わあ、泡のお風呂初めて!」
久我原が、バスタブを埋め尽くす泡を手のひらですくってはしゃぐ。
「一度試してみたかったんだ、家だと雰囲気出ないじゃない?」
向かい合わせに座る彼女の笑顔は意外と遠く、バスタブの広さを実感する。家のものの倍はあるだろうか。
「そんなにいいか? 泡風呂」
俺も片手で泡をすくってみた。この手の入浴剤を試したのはやはり初めてだったが、泡は思っていたよりも脆くて、放っておくと手のひらの上でぐずぐず溶けていく。
バスタブに湯を張って入浴剤を入れた後、ふたりで先に身体を洗ったり――他にもいろいろしていたら、いつの間にか泡が消えていたほどだ。入浴剤のパッケージには『泡が消えた場合はシャワーをかけて泡立たせてください』とあった。興ざめだったが、本当に復活したので久我原は喜んでいた。
「泡の下は結局、普通にお湯だろ。思ってたのと違った」
「全部泡だったら温かくないよ」
文句を言う俺とは対照的に、久我原は屈託がない。
「お湯で温まりつつ泡を楽しめるんだよ。いいとこ取りじゃない」
無邪気だ、というと彼女の実態とはあまりにもかけ離れてしまうが、こういう時には子供みたいにはしゃげるのも久我原らしいといえばらしい。俺とはまるで正反対だ。
久我原聖美は、たぶん『普通の』女子大生だ。
その執着的な性格や、性的嗜好はさておいて――むしろそちらが普通じゃないのが不思議なくらい、ちゃんとまともな家庭に育っているし、友達もいるまともな大学生活を送っているらしい。
見た目も本当に普通だ。後ろでまとめた長い髪は進学して初めて色を入れたそうだが、光が当たらないとわからないくらいの上品なダークブラウンだ。近頃よく『すっぴんだと恥ずかしい』などと言うが、落ちてもさほど変わらないくらいの控えめなメイクもしている。服のセンスもいかにも女子大生が着てそうなワンピースとか、ブラウスとスカートとかで、歩くとこつこつ音がするようなヒールの硬い靴も好きらしい。
こいつの姿を見て、ベッドではどんな感じかを言い当てられる奴なんていないに違いない。
知っているのは俺だけだ。
そのことに、別に優越感も何もないものの。
優越感なんてなかった。
童貞を捨てても。
吐き気がするほど嫌いな奴の、好きだった女を寝取っても。
動機にそれらがなかったとは言えない。だが全て通り過ぎてしまった今、残っているのはもっと違う感情でしかなかった。
泡風呂、というより泡を浮かべた湯につかりながら、俺はただただぼんやりしている。いろいろあった後特有のけだるさと眠気が、どうでもいいことばかり考えさせる。昔なんて振り返っても意味ないのに。
目の前では久我原が、水面の泡をかき集めている。何をする気かと思えば、泡に隠れた胸の前に寄せて、大きなふくらみを形成していた。
「見て見て、超巨乳」
久我原がそう言って笑う。
彼女が集めた泡を足せば、確かにそれは巨乳と呼んで差し支えないくらいの大きさだった。だが俺の心が動かされるということはなく、むしろ呆れた。
「小学生かよ」
「なんで? このくらい大きかったらよくない?」
俺の冷めた答えをものともせず、久我原は苦笑いで反論してくる。
「もうちょっと大きくなりたいんだよね。私、控えめだから」
「普通だろ、気にするほどか?」
適当にあしらえば、今度は一転目を輝かせた。
「鷲津はこのくらいが好き? それなら気にしないけど」
「いや、別に……好き以前に、お前のしか知らないし」
厳密には、他の女のも見たことくらいはある。ネットに転がっている画像で。
でも大きさにしろ形にしろどんなに素晴らしくたって、画像だけではただの平面にすぎない。結局は目の前にあり、手を伸ばせば触れられる実体のあるものには敵わないわけで――という本音は久我原に失礼だろうから言わないでおく。
少なくとも俺は、久我原に不満なんてない。
訂正。久我原の身体には不満なんてない。
中身には多少、ある。そもそもなんでラブホの風呂につかっているかといえば久我原が『買ったばかりの下着をつけてみたい』と言ったからで、それなら黙って風呂だけ入ればいいのにシャワーを浴びながらいろいろ仕掛けてきて、まあ俺も乗ってしまったから文句は言えないが、上がるまで我慢しろよとは思う。久我原も俺もだ。
何より、俺を下着屋に連れていったその神経が理解しがたい。
きっとそれが久我原には楽しかったんだろうが――。
「私の胸が好きだって言ってほしいな」
久我原が身を乗り出し、思索にふける俺の視界を遮る。
せっかく集めた泡は水面に流れて巨乳の面影はどこにもないが、代わりに濡れた睫毛と潤んだ瞳、ほんのり赤い頬と乾いた唇が見えた。首筋はなめらかで傷ひとつなく、肩はつるりと丸く、本人曰く控えめな胸でも水面の上にはちゃんと谷間が覗いている。
不満なんてないのにな。
「鷲津が一言、『好き』って言ってくれたらもう悩まないのに」
そう言って、久我原がお湯の中にある俺の手を取る。そのまま自分の左胸に導いて、柔らかい肌にゆっくりと触れさせた。片手にちょうどいいくらいの大きさだ。
「ね、どう?」
黙って手も動かさずにいる俺に、彼女は重ねて尋ねてくる。
「このくらいの大きさ、好き?」
大きさなんてどうでもいい。
例えば目の前に理想的な大きさと形の胸があったとして、それが画像、ただの平面だったらつまらないと思うだろうし、実物でも胸だけなら何の反応もなくてやっぱり物足りないと思うだろう。
そこに久我原がいるから、いい。
でもそれをどう言葉にしていいのか。
彼女が望むように言ってやればいいのかもしれないが、そうすると途端に安っぽい単語になってしまいそうで怖かった。好きなんじゃない――いや、好きだけじゃない。俺にとっては唯一の、実態と体温と現実味を伴う存在だと告げたら、久我原は喜ぶだろうか。
喜ばないか。色気ないもんな。
俺は『普通』ではない家庭に育って、『普通』ではない子供時代を過ごしてきた。手を伸ばしたところに誰かがいるなんて初めてのことで、直に触れられる体温が本当に心地よくてうれしいんだってずっと思っている。それはたぶん、俺のことを好きだという久我原にさえ理解できない感情だろう。
「……そんなに迷うようなこと?」
考えかけた俺の耳元に、久我原が吐息と共に囁く。
温い空気のくすぐったさに思わず首をすくめれば、久我原はバスタブを泳ぐように移動して俺の膝の上に腰を下ろす。脆い泡が砕けてはねて、久我原のきれいな背中を汚した。俺の目の前にはゆるくまとめた髪の結び目と、その下に覗くうなじと後れ毛がある。しっとり濡れてつややかだった。
「なんで乗ってきた?」
「だって答えてくれないから」
「考えてたんだよ、なんて言うのが適切か」
「そんな真面目に考えないでよ、一言でいいんだから」
久我原は上に座ったまま、今度は俺の両手を取った。
その手を後ろから回すように、自らの両胸にあてがう。俺がされるがままになっていれば、わざと手に力を込めてくる。柔らかい胸に指が食い込むのがわかった。
「不満があるなら、鷲津が揉んで大きくしてよ」
むしろ久我原の方が不満げに、そんなことを言う。
「そんなんで大きくなるのかよ」
「なるってよく聞くけど」
「根拠は? ちゃんと証明されてるなら信じてやる」
「根拠がなかったら揉まないの? もう二度と?」
そうは言ってない。
久我原はちらりと俺を振り返る。眼差しがどことなく挑発的で、でも口元はにやにやしている。実のところ俺の気持ちなんて、暗くよどんだ部分も含めて全部見透かされてるような気もするし、何も知らないでただ俺の性欲を好意に変換しているだけだという気もする。
今となっては、その変換式も間違いじゃない。
俺にとっては本当に、久我原だけが――。
「……あ、硬くなってる」
考え込む俺の上で、久我原が腰を揺らした。
同時に俺は彼女の尻の感触を味わい、危うく声が出るところだった。
「お前……そういうの口に出して言うなよ」
せっかく人が真面目に考えた末、結論に辿り着こうとしていたのに。
「どうして? 事実じゃない」
楽しげな彼女が俺の上で、さらに腰を動かす。
柔らかい肉に挟まれるのは快感でしかなく、かといって腰を掴んでどけようとすると身じろぎでかわされる。
「やだ、くすぐったいってば」
「俺はくすぐったいどころじゃない……っ」
「気持ちいい?」
泡の下の湯は熱く、その中で感じる久我原の身体も不思議と熱っぽさを増していた。腰が動くたびに擦れる辺りは、お湯よりもぬめっているように思えた。
「あっ、あ……もうこんなになって、すっかり準備できてるね」
自分でぬるぬると動きながら、久我原はうれしそうな声を上げる。
「お前がやったんだろ」
「私が座った時にはもう硬くなってたよ」
「……お前が座らなきゃ、どうにか鎮められてた」
俺の反論は根拠のない負け惜しみにしかならなかった。久我原は勝ち誇った笑みで振り向く。
「ここで、もう一回しちゃう?」
「買ってきた下着は? つけてみないのかよ」
彼女の誘いに乗ったら、風呂上がりにはぐったりするだけでそれどころじゃなくなるだろう。
それに――正直、見てみたかったし。
「見たい?」
久我原が微笑んで尋ねてくるから、こればかりは正直に答えた。
「見たい」
「じゃあ上がろ、泡流してからね」
ざばっと水音を立て、彼女はバスタブから立ち上がる。
何ひとつ不満のない、女らしい後ろ姿が白い泡にまみれている。俺はそれを許される時間の限り目で追った。