金属の声(1)
高校時代の記憶は、また五感に焼きついている。昼休みの教室。
一人きりの机。
距離を置いて固まるクラスメイトたちが時々、気まぐれに向けてくる嘲りの視線。
笑い声。
不気味だ、変な奴だと囁き合う笑い声。
菓子パンをテトラパックの牛乳で押し込んだ後は、机に突っ伏して過ごした。
そうしなければとてもじゃないがやり過ごせなかった。
――ねえ、また鷲津が寝たふりしてるよ。気持ち悪くない?
――やめなよ、かわいそうだよ。友達いない子なんだから。
――じゃああんたが友達になってあげれば?
――やだぁ、そんなのありえないよ!
きんきんと甲高い女子の声のせいで、会話内容まで克明に拾えてしまう。
クラスで誰と誰と誰が俺の悪口を言っているのか、知っていた。知ったところでどうにもなりはしなかった。
クラスの連中から嫌われていた。
ろくに口さえ利いたことのない相手にさえ毛嫌いされていた。
連中からすれば俺は気持ち悪くて、不気味で、何を考えているのかわからない奴なんだそうだ。何を考えているかなんて単純な話だっていうのに。
どうして俺のことを放っておいてくれないんだろう。
好きになってくれなくてもいいから、知らないふりをしていて欲しかった。いないことにでもしておいて欲しかった。
無関心でいてくれればいいのに、どうしてあいつらは、俺を中傷するんだろう。
金属を爪で引っかくような声が教室中に満ちている。
それは毎日のように俺をずたずたにしておきながら、決してとどめは刺してくれない。
俺は死に掛けたまま息絶えることはなく、明日も、明後日もこの教室に拘束される。
それでも、ようやく三年目が折り返し地点を迎えていて、次の期末テストが済めばしばらくは自宅学習期間となる。待ち遠しくてしょうがなかった。この教室に来なくて済むなら、大学入試だろうと何だろうと気分よくこなせると思った。
早く卒業したかった。
この教室から、この高校から、さっさと出て行きたかった。
ただ、不安がないわけでもなかった。ずっと昔から他人に嫌われる質で、親からさえ好かれたことはない。
そんな俺が大学へ行っても同じことの繰り返しじゃないか、そんな気もしていて――。
「――え? ごめん、聞いてなかった。何の話?」
不意に、金属的ではない声がした。
机に突っ伏したままの俺はその声を拾い、声の主が誰かを知る。
そいつはいつも、他人の話をよく聞かない奴だった。もし俺が同じことをしたら袋叩きに遭うだろうに、そいつは不思議と嫌われなかった。
「ちょっと聖美! またぼんやりしてたの?」
「いつもだよね。本当にしょうがないんだから!」
女子たちが笑う。
好意的な笑い声はそいつにだけ向けられて、こちらを向く時にはいつも刺々しくなる。
「鷲津の話だよ。いつもあそこで寝たふりしてるでしょ?」
「気持ち悪いよねって言ってたの。ね、聖美もそう思わない?」
俺はぎゅっと目をつむる。
堪え難い痛みに眩暈がした。連中のきんきんした声を聞いているのが辛かった。
だから、金属的ではないあの声が聞こえると、ほんの少し安堵した。
「別にどうとも思ってないよ。興味ないし」
無関心そうな、淡々とした冷たい声だ。
だけど耳障りではなく、むしろよく冷えた水のような柔らかさをしている。眩暈を覚える頭がふと鮮明になる。
「それより期末の話しようよ。私、テストと受験勉強のことで頭がいっぱいなんだ」
冷たい声が平然と続ければ、たちまち女子たちの話題がそちらに移り変わる。
ぼうっとしてたくせにと突っ込まれて、冷たい声の主が笑う。あっさりと、愛想程度に。興味のないことには徹底的に無関心でいられるそいつが、羨ましいと俺は思う。
無関心でいて欲しかった。嫌われるくらいなら。
「あの大学、どうしても受かりたいんだよね。家から近いし」
久我原聖美は、柔らかく冷たい声でそう言った。
女子たちの中で唯一、そいつの声だけが耳障りではなかった。
講義室に笑い声が上がり、俺の意識は現実に引き戻される。
四限の講義が終わった直後だ。室内には何とも言えない気だるさが漂っている。その中で、ひとかたまりになって笑い合う集団があった。
「やだぁ、あんなの気持ち悪いよー」
「だよねえ、ありえないよね!」
きんきんと甲高い女の声のせいで、会話内容まで克明に拾えてしまう。
俺は思わずびくりとしてから、連中の会話に聞き耳を立て、その後で密かにほっとした。
――よかった。俺の話じゃない。
どうやら話題は芸能人についてらしい。最近よく名前を聞くお笑い芸人に、もしも交際を申し込まれたらどうするか。付き合えるか付き合えないかを冗談交じりに論じているらしかった。
気持ち悪い、生理的に受け付けない、だから交際なんて絶対無理だと言い張る女が二、三人いて、俺は奇妙な感情に囚われる。
俺も、連中からそう思われているのかもしれない。
今は話題になっていないだけで、実際のところは笑われている芸人風情と大差ないのかもしれない。
今でも誰もが、気持ち悪い、不気味だと思っているのかもしれない。
――なんて、思考が馬鹿げた飛躍を果たす。
自意識過剰なんだろう。
誰かが笑い始めると、俺が笑われているんじゃないかと思ってしまう。
もちろん過去にそういう経験があったからこその過剰反応だ。この先いつ、現実に舞い戻ってくるとも知れなかった。
だが幸いにして、大学は高校のクラスよりもずっと居心地がよかった。講義の際の座席は好きに選べるし、一人きりでいる奴も俺以外に大勢いる。事あるごとに協調性やら団結やらを求められる心配もなく、せいぜいサークル勧誘をすり抜けるだけのスキルがあればよかった。他人に関心を持たれずにいるのが、こんなにも心地良いとは思わなかった。
それでも傷跡は深く、今でも金属的な笑い声を聞けば自然と身体が震える。
俺は慌てて立ち上がり、講義を書き留めたルーズリーフをバインダーに閉じた。筆記用具をペンケースに押し込み、全てを鞄に詰めた後、大急ぎで講義室を抜け出す。
今日の講義は全て終了。後は家に逃げ帰るだけだ。
その前に、電話を掛けようと考えた。
女の笑い声は今でも苦手だった。
どうしてあんな風に、金属を爪で引っかくような笑い方をするんだろう。
苦手じゃないのは唯一、あいつの声だけだった。今も昔もそうだ。だから俺は、久我原聖美のことが嫌いではなかったのだと思う。
携帯電話を使いこなすようになって少し経つ。
親の監視の下で久我原と連絡を取り合うのは至難の業だった。履歴はこまめに消す必要があったし、通話料金が膨らみすぎないように抑えなくてはならない。電話が鳴ったところを見咎められればどういう相手なのか、素性まで問い詰められて面倒なことになる――両親は俺の交友関係を怖いほど気にしていた。そのくせ俺が困っている時、弱っている時は放任と来ているからどうしていいかわからなくなる。
ずっと、携帯電話は枷だった。親が俺を見張るための、そして気分次第でネタにして叱り飛ばすための道具でしかなかった。久我原と出会うまでは。
今はなくてはならない存在だ。いくつかの障害があったとしても、それでも久我原といつでも繋がれるメリットには代えがたかった。
大学の構内から電話を掛けると、三コール以内で繋がった。
『――鷲津!』
久我原の跳ね上がった声が響いて、俺は今更のように面食らう。
耳元で響いても、やはり金属的ではなく、耳障りでもない声だ。
『電話くれてうれしいな。ねえ私、今日はすごく暇なんだけど、鷲津はどう? これから暇?』
「あ……そ、そっか。俺も暇ではあるけど」
声が聞きたかっただけで、久我原と会おうと考えていたわけではなかった。しかし俺が怯むと、その隙を突くように彼女が意見を捻じ込んでくる。
『本当? じゃあ会いたいから、一緒にどこかに行こうよ。駅前ででも待ち合わせして。鷲津、まだ大学にいるんでしょう?』
「ああ。まだ帰ってない」
『私はちょうど今帰ろうとしてたところ。駅までなら十五分で行けるよ。いくらでも待てるから、ゆっくりおいでよ』
久我原との会話はいつでもこんな調子で、俺の方から切り出す余裕はあまりない。
あいつは思いのほか喋る。それも喧しい感じではなく、淡々と畳み掛けるように口を開いて自分のペースへ持っていく。そういうやり方がとても上手かった。
高校時代のあのクラスで、こんな自分本位な女が嫌われなかった理由は、彼女の話し方にあったのかもしれない。
二人で会うようになってからというもの、俺は久我原に主導権を握られっぱなしだった。
とは言えそういう関係もなかなか楽なのだと、最近になってようやくわかりはじめていた。
久我原と一緒にいるのは楽だった。近くで聞いても、ちっとも耳障りではない声だから。
『そうだ。あのね、鷲津』
冷静で淡々とした声が問いかけてきた。
『ちょっと買い物に付き合ってもらいたいんだけど、いい?』
「いいけど。あまり長くない買い物ならな」
久我原の買い物に付き合わされたのは今日が初めてでもない。
一緒にあちこち出歩くようになってから少し経つ。並んで街中を歩くのには慣れていないものの、以前ほど怯えることもなくなってきたような気がする。久我原がいてくれると、不思議と気にならなかった。
たぶん、久我原がこういう勢いのある奴で、気を抜いているとどこまでも引きずられていってしまうから。だからだろうと思う。
そのくせ一緒にいると楽だと感じているんだから、全くもって不可解だった。
『よかった。鷲津に見立ててもらいたいものがあるんだよね』
少し笑うようにして、久我原が言った。
それで俺は首を傾げ、携帯電話を持ち直す。
「言っとくけど俺、センスないぞ。服を選べって言われても無理だ」
『服じゃないよ。そんな難しいことじゃないから心配しないで。単に色とか、デザインとか、そういう好みを聞きたいだけ』
服じゃないのに、色やデザインの好みを聞きたいって、じゃあ何を買うつもりなんだろう。
すぐには思い当たらず、俺は再び首を傾げた。
とりあえず答えはした。
「役に立てるかわからないけど、それでもよければ」
『ありがとう。鷲津の意見、きっとすごく参考になると思う。よろしくね』
久我原がまた笑う。
柔らかいトーンがその時、妙にくすぐったかった。
彼女とは夕方、駅前で落ち合った。
そのまま浮かれた様子の彼女に引きずられるようにして駅ビルへ向かう。
駅ビル内のきらびやかなショッピングモールは、学校帰りの冴えない格好では気が引けた。だが、久我原が俺の腕を掴んでいたから逃げようもなかった。
そして辿り着いた先は、モールの一角にある、たとえ服装がどうだろうと足を踏み入れるには非常に気の引ける店だった。
――下着屋だった。