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明日晴れたら、君を呼ぼう(4)

「俺、流されてる気がする……」
 枕に顔を埋めた鷲津が、低くうめいた。
 私は身体を傾けて、むき出しの彼の背中を見やる。
 カーテンを引いた陽の射さない部屋の中でも、彼の肌は透けるように白い。そしてすべすべしている。そこに爪を立てないよう、私はいつも細心の注意を払っていた。
「何か不満でもあった?」
 そう尋ねた唇が自然と緩んでしまう。
 幸せだった。セックスの後、こうしてベッドの上に二人で寄り添っている時間はやっぱり特別だ。初めて入れてもらった鷲津のベッドはラブホより、あるいは前に泊まったツインルームのよりも小さかったけど、どこよりも楽園みたいに思えた。

 とは言えこの状況だと、まるで鷲津は騙されたヒロイン、私は二時間ドラマによく出てくる悪漢のようにも見える。
 ベッドに横たわったままタバコでもふかしていたら完璧だろう。

「結局今回も、お前のいいようにされた」
 ぼやくヒロインは枕から顔を上げない。
 さめざめと泣いているわけではないらしい。ぐったりはしていたけど。
「練習してるってなんだよ……うますぎたし、俺めちゃくちゃ声出してたし……」
「うん、かわいかったよ」
「うるさい馬鹿。そういうこと言うな」
「でも、悪くなかったでしょう?」
 あ、これはまさに悪役の台詞だ。もっとかわいく言わないとだめかもしれない。
 私はあわてて彼の脚に自分の脚を絡めた。
 ついでに擦り寄るようにして彼の腕を抱く。裸の皮膚が触れ合うと。温かい。
「お前、本当にかわいくないよな」
 鷲津にも言われた。
 どうしたものかと迷う。
「ね。一応確かめておきたいんだけど」
「何だよ」
「今回は鷲津をむりやり連れ込んだわけじゃないよね?」

 たしかにそうだ。
 ケーキバイキングを出た後、家に行こうと提案してきたのは鷲津の方だった。
 私はその提案に乗っただけだ。

「あの言い方だと、鷲津の方から誘ってきたと思うじゃない?」
 私は彼の顔を覗き込もうと、枕の横に頬を寄せた。
 鷲津もこちらを見る。潤んだ瞳と視線が合うと、また突っ伏してしまう。
「違うの?」
 彼の頬をつついてみる。
 女の子の頬ほど柔らかくはなく、見た目よりも硬かった。
 近い将来、この頬にも髭が生えたりするんだろうか。あまり想像できない。
「そりゃあ……お前に無駄な金を使わせたら悪いと思ったから」
 鷲津はまるで言い訳みたいな口調だった。私に頬をつつかれてもそのままにしている。顎を撫でられても何も言わない。
 だけど耳たぶを摘んだら、きっとこちらを睨んできた。
「耳は止めろ」
「どうして?」
「わかってるくせに!」
 摘まれた直後の耳がほんのり赤らむ。
 彼の弱いところはもう知っていた。面白いくらいに反応してくれるので、ついついいたずらしたくなってしまう。
「同意の上だったって言ってもらわないと、悪いことした気になるんだけど」
 私が唇を尖らせると、鷲津も困ったような顔をした。
「悪いことだとはさすがに言わないけどな。お前、本当に好きなんだなと思って」
 好きだよ。鷲津がね。
 身体目当てだと思われるのは実に心外だった。他の人とは絶対にこんなことしない。
 鷲津とだから触れ合っていたい、何でもしてあげたいって思うのに。
「なんか、まだ罪悪感があるんだよな」
 もごもごと、言いにくそうに彼が呟く。
「こういうことしなくても一緒にいられるのにって……つまり、その、理由なんてなくてもさ。俺はお前と一緒にいたいって思ってるのに、これだとまた身体目当てみたいに思われないかってさ」
 どう答えていいものかわからず、私は黙った。
 目を伏せていると、彼の方が更に続けた。
「お前はちっとも変わってないんだろうけどな。どっちも目当てって言うんだから」

 そうだろうと思う。
 私はあの日からずっと鷲津に惹かれて、追い駆けて、想い続けているだけだ。
 その感情には何の変化もない。鷲津が変わってくれたとしても、私は変わる必要がない。そう思っている。

 でも――あの日、私は変わったはずだ。
 劇的な変化を遂げたはずだ。
 あの日のような出来事は、もう起きないと言い切れるだろうか。
 私の心を根底から揺り動かすような衝動は、もう二度と生まれることはないんだろうか。

 思索に漂い始めた私を、ふと、鷲津が抱き寄せた。
 両腕でしっかりと抱かれると、肌越しの体温が伝わってきてとても温かい。
 次第に瞼が重くなるのがわかる。
「お前、瞼落ちてるぞ」
 うとうとし始めた私を、鷲津が笑ったようだ。どうにか目を抉じ開けたら、楽しそうな笑顔が見えた。
 その後で彼は私に囁く。
「眠くなったんだろ?」
「うん」
 私は正直に答え、彼の胸に頭を預ける。
 心臓の音を聴きたくなったからだ。
 規則正しく響く鼓動が、彼が確かにここにいることを教えてくれる。幸せだった。

 鷲津は変わった。
 あの日から比べたらずっと穏やかになったし、優しくなった。皮肉や嘲りとは違う、純粋な笑顔を見せてくれるようになった。むしろそれが彼の本質なのだと思う。
 こうしてふたりで過ごす時間も、変わったような気がする。ただ肌を重ねるだけじゃない。お互いに気遣い合ったり、冗談を言ったり、笑ったりすることも増えてきた。
 なのに、私だけが変わらないでいるなんてこと、あるだろうか。

 いつの間にか、鷲津の手が私の髪を撫でている。
 壊れ物を扱うような優しい手つきだった。指先はなめらかで、引っ掛かることは一度もない。
「寝てもいい。起こしてやるから」
 彼は、そんなふうにも言ってくれた。
「うん……でも私が寝たら、鷲津がつまらなくない?」
 尋ねると、小さな笑い声が降ってきた。
「別に。一人でぼんやりしてるからいい」
 鷲津は眠くはないんだろうか。私ひとりで寝入ってしまうのも申し訳ない気がしたけど、本当に眠くなってきた。
 彼の肌の感触と、彼の体温が心地良くて、気づけば意識がふわふわ漂い始めている。

 眠いせい、なんだろうか。
 いつもと違うことを考えている。
 今までにないことを、考え始めている。
 思う。彼を独り占めしていたい、閉じ込めていたい、その気持ちは本当。
 だけど、彼を他の誰かにも、もっと好きになってもらいたい。そうも思う。

「久我原?」
 彼の声が私を呼ぶ。
 私は、返事をしたと思う。だけど上手く声にならなくて、代わりに彼が呟いた。
「もう寝たのか……」
 いつもの呆れたような、だけど柔らかな独り言が聞こえる。
 思う。彼は穏やかで、優しい人だ。
 それだけが彼の本質ではないのだとしても、そういう側面があることも誰かに知っていてもらいたい。
 私が彼といて本当に幸せなんだということも、理解していてもらいたい。彼を好きになってくれるような誰かが欲しい。そう思う。
 いざそういう人が現れたら、私は妬いてしまうかもしれない。
 彼を独り占めできなくなったら寂しいかもしれない。
 でも――。
「いろいろ、ありがとう」
 まどろむ私の耳元で、鷲津の声がそう言った。
「いつも通りにしてくれて、助かった」
 私は目を開けられなかった。
 ふわふわとおぼろげになっていく意識の中、こんな言葉を拾ったような気がした。
「不思議だよな」
 彼の手は引き続き、私の髪を撫でている。
「お前、ちっとも可愛くないのにな。寝てる時だけは、どうしてか――」
 もしかするとその言葉は、私の夢だったのかもしれない。
 すぐ傍にある温もりは確かで、実在するものだったけど――。

 鷲津の腕の中に閉じ込められて、私はとても幸せだった。
 だけど、思う。
 眠気のせいか、いつもと違うことを思う。
 彼のことを好きになってくれる人が、他にもいてくれたらいい。
 彼に恋をするのは私だけでいい。彼が傍にと望む相手も、私だけでいい。でも、彼の穏やかさや優しさを知ってくれる人が他にもいたらいいのに。そうして私たちのことを祝福してくれる人が、たくさんいてくれたらいいのに。
 鷲津には、幸せになってもらいたかった。
 私が幸せにしてあげたかった。彼がまだ味わったことのないような幸せをあげたかった。誰にも疎まれず、笑われず、馬鹿にされることもない、そんなごく当たり前のはずの日々をあげたかった。どこへ行くにも顔を隠したり、俯いたりする必要のない生き方を、私と一緒にして欲しかった。

 まだずっと先の話だけど、私は思う。
 もし私が子供を生んだら、お父さんのことを大好きになってくれるような、そんな子に育てよう。
 その子のお父さんがどんなに素敵な人か、ちゃんと教えてあげたい。
 優しさも、穏やかさも、陰りのない笑い方も見せてあげたい。
 お父さんはこんなに、温かい人なんだよって。
 ――なんて、まるで夢みたいな話だけど。

 私は今も恋をしている。
 短い眠りから覚めた時、まだ温かい腕の中にいて、幸せだった。

2019/11/14 完結

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