熱情(7)
二人揃って、ペットボトルを空にした。お互いに、すっかり喉が渇いていた。二本だけじゃ足りなかったかもしれない。もっと買ってくるんだったと後から思った。
ホテルの部屋は空気が乾燥している。お蔭で買ってきたお菓子に手をつける気にもならなかった。かといって冷蔵庫の中にあるジュースを飲むのも何となく抵抗あったから、洗面台のお水で我慢した。
大体のことが済んでしまっても、まだ一時間くらい余裕があった。
午後四時、五分前。外した腕時計を確かめてから、私はベッドに潜り込む。
鷲津は隣でぼんやり天井を見上げている。寄り添って脚や腕を絡めても、彼は何も言わない。眠いのかもしれない。
彼の素肌の温もりと柔らかさを存分に堪能している。幸せな一時だった。
「お風呂、入りたかったなあ」
ふと思いついて呟いてみる。
あのバスルームは広かったし、入浴剤が三種類も揃っていた。泡のお風呂まであったから鷲津と試してみたかったけど、さすがに今からお湯を張る余裕はなかった。二人で洗いっこも楽しそうだったけど。
私のも、鷲津のも、身体はしっとり汗ばんでいた。
それでも私は鷲津にぴたりとくっついていたし、彼も黙っている。受け入れてくれてる、はずだ。
「でも、何もしないでいるのも悪くないね」
さらに呟く。
こうやって触れ合っているだけでもじわじわと幸せで、こういう時間も悪くない。気だるい疲労感と達成感が心地よく、そのせいか鷲津も私を邪険にしない。
隣に横たわる鷲津の目元が泣いた後みたいに赤くなっている。それでいてとても満足そうな顔をしてくれている。確かめる度にうれしくなる。
とはいえ彼は、私の言葉を聞いていない様子だった。
さっきから私が何を言っても、ぼんやりと上ばかり眺めている。
天蓋つきのベッドなんてラブホでも来ないと見られないだろうけど、そこまで面白いものだろうか。
「考え事?」
私は更に身を寄せて、彼の耳元で囁いた。
するとようやくこっちを見てもらえた。目の端で、ちらっとだけ。
「ちょっとな」
鷲津は嗄れた声で言う。
さっき散々声を上げたからだろう。
「ふうん」
何を考えていたのか、聞いてみてもいいんだろうか。聞いたとして教えてもらえるだろうか。
私が鈍る思考を組み立てている間に、彼は語を継いでいた。
「お前さ」
「私?」
「ああ。本当に、俺のこと好きなのか」
意外なほど真剣な顔で、ストレートに尋ねてきた。
私はぽかんとする。
その答えは決まっていたし私の中で揺るぎないものだ。
だけど今まで散々言ってきたことを、改めて尋ねられると驚いた。
鷲津はわかってて私を『利用』したんだと思っていたのに。
「もちろんだよ」
一秒後には我に返り、胸を張って答えていた。
なのに鷲津は鼻の頭に皺を寄せる。
「疑わしいんだよな」
「どうして? なんでそんなこと言うの?」
疑われる理由がない。
私は言葉でも態度でも事あるごとに伝えているし、そこで嘘をついた覚えはない。
鷲津だってもうとっくにわかっていると思っていたのに――嘘やいたずらのつもりでこんな場所へ来て、彼を可愛がったり、肌を重ねたりはできない。この間までは本当に初めてだったくらいだ。
信用されていないにしても、この気持ちだけは伝わっていると思っていたのに。
「だって、何か――」
鷲津はそこで言いにくそうに口ごもる。
そして溜息をついた。
「身体目当てって感じがするから」
告げられた台詞に、私は危うく吹き出すところだった。
「笑うなよ」
むくれたような声が追ってくる。
「俺だっておかしな話だと思ってるんだ。普通逆だろ、男の言う台詞じゃないよな」
「そうだね、聞いたことないかも」
ドラマでよくある台詞だけど、言うのは大抵女の人の方だ。男の人が言ってるのは観たことがなかった。
「それに俺の身体、酷いだろ。ガリガリだし生白いし、鍛えてもないし」
「そこがいいんだよ」
私の答えに、鷲津は目を剥く。
「本気かよ。つくづく変な趣味だな」
「もちろん、鷲津が日焼けしてても太っても、ムキムキになっても好きだけどね」
本音を言えば、彼の痩せ方はぎりぎり不健康な印象もあった。ご飯を食べているかどうか不安になるほどだ。だからもうちょっと肉づきよくてもいいんだけど――鷲津本人が気にしているようなので、今は胸にしまっておく。
代わりに、もっと大事な本音を告げた。
「でも、身体だけじゃないよ。鷲津の心も好き、ちゃんと好きだよ」
切なる告白にもかかわらず、彼はそれほど動じなかった。
「へえ……」
表情を変えずに唸り、何かを考え始めていたようだ。
天蓋を見上げる横顔が、少し穏やかに見えるのは気のせいだろうか。
いつもみたいに虚勢を張ったり、強がったりしていない鷲津は、その繊細そうな面差しが美しく映った。
本当にきれいで見惚れてしまう。こんなに素敵な人なのに、今まで誰のものにもならなかったなんて不思議なくらいだ。きっと神様が与えてくれた奇跡なんだろう。
乾いた唇が語を継いだのは、しばらく経ってからだった。
「前から思ってたんだけどな」
何気ない調子の声だった。
いつもよりも棘がなく、柔らかく聞こえた。
「久我原って、あまり他人に興味ないタイプだろ?」
だけど尋ねられたのは唐突過ぎる質問だった。
私は再びぽかんとする。
「どういうこと?」
「無関心そうに見えてた。クラスでも、誰に対しても」
「そんなこと……ないと思うけどな」
クラスには仲のいい子もいたし、皆と当たり障りなく、うまく付き合ってたと思う。
男子とはあまり話をしなかったけど、別に嫌っていた相手がいたわけじゃない。鷲津のことだって、私は皆が言うほど嫌な奴だとは思わなかった。陰口や動画を回す行為が煩わしいと思っていたくらいだ。
でも、それだって昔の話だった。
今は鷲津に誰より関心があるし、興味もある。好きな人なんだから当たり前だ。
比較して他の人に興味がなくなったのも、あくまで恋心のごく一般的な作用だろう。私はそう思っている。
「俺、お前のことは、そんなに嫌いじゃなかったんだ」
鷲津はぽつぽつと、意外な言葉を続けた。
こちらを見ず、天井だけを見上げていた。
「何でも興味がなさそうで、他人の目も気にしないで、真面目そうに生きてる。ただの馬鹿なのか、それとも要領がいいのかはわからなかったけど、お前が俺にも関心を持たずにいてくれたから、それだけはありがたかった」
私には鷲津の言うことがよくわからない。
関心を持たなかったからありがたかった?
どういう意味なんだろう。
「無関心でいてくれる方がいいんだ、何かにつけて馬鹿にされたり笑われたりするよりは」
そこまで言うと鷲津は深く息をつく。
それで私は彼の横顔に初めて疲労の色を見た。今日は卒業式だったっけ、と今更みたいに思う。
「今は?」
尋ねてみた。
「今は、私のことどう思ってる? 嫌いじゃない? それとも、好き?」
興味があるのは今のことだけだ。
今の、鷲津だけだ。そう思っていた。
同時に、鷲津にもそうあって欲しかった。
彼にとっての高校生活三年間は辛かったのかもしれない。窮屈で、息苦しくて、耐えられないほどだったのかもしれない。
だけど今はもう違うって。
私にだけ拘束されていれば、幸せで、気持ちよくてたまらないって。
そう思っていて欲しかった。
鷲津は私の方を見なかった。
手の甲で額の汗を拭ってから、言った。
「よく、わからない」
「わからない?」
告白した女の子に対して、それはあまりにも残念な返事だ。
がっかりする私をよそに、鷲津は半身を起こした。
「……そんなことより」
まだ横になっている私を見おろし、急に冷たい口調を取り戻したようだ。
「後で金、払うから」
「お金って、ホテル代のこと? それなら私が――」
誘ったのは私の方だ。当然、自分で払うつもりでいた。
高校生に四千円は手痛い出費だけど、お金では買えない時間を貰えた。だから鷲津に出させるつもりはなかったのに。
「お前に借りを作るのは嫌だ。俺が払う」
きっぱりと鷲津が言うので思わず心配になった。
「別にいいよ、気を遣わなくたって。四千円は大金でしょう」
「お互い様だろ。つべこべ言うなよ、払ってやるって言ってるのに」
「でも」
「その代わり、次からは割り勘にしてくれ」
彼のその言葉に、私はもう一度ぽかんとしてしまった。
意外な素直さと、彼の方から『次』に言及してきてくれたということが驚きだった。
それはもう、声が出てこなくなるくらいだった。
「嘘っ」
私もベッドの上に身を起こす。
露わになった胸から、鷲津が慌てて目を逸らした。今日だってたくさん見たり、触ったりしたくせに――私は彼の裸の肩に口づけ、確かめる。
「また、会ってくれるの?」
鷲津はびくりとしつつ、口ではこう言った。
「いいけど、当分は無理だ。三月中は忙しいし、四月からも忙しいかもしれない」
「大学の準備とか?」
「お前だってそうだろ? 入学式が済んだら一度連絡する」
そういえばそうだ。鷲津に夢中になるあまりどうでもよくなっていたけど、春からはお互いに大学生になるんだ。進学先も違ってしまうらしいから、会えない日が続くのも無理はない。
でも、高校時代よりはずっと楽になるかもしれない。
鷲津の気持ちは、特に。
もうネクタイや制服や教室や、クラスメイトの目に拘束されることもなくなるんだから。
「うん、待ってる」
素直に答えた私を、鷲津はどこか不安げに見た。
「言っとくけど、今日みたいなことはするなよ。待ち伏せとか」
「しないよ。連絡くれるんでしょう?」
「ストーキングされちゃたまらないからな」
ぼやくように言った後、彼は少しだけ笑ったようだった。
「だから連絡する。おとなしく待ってろよ」
ホテルを出てから、鷲津とは駅前で別れた。
午後五時を過ぎ、一人で歩く帰り道は寒かった。さっきまで彼の体温を堪能していた身体には一層堪えた。
家に着く直前、ふと思い出して携帯電話の電源を入れた。
すると未読の連絡が山ほどあった。全てが今日までクラスメイトだった子たちからのものだった。
『聖美、パーティ来れないの?』
『読んだら連絡してよ。みんな来てるし、楽しいよ!』
『おーい? 聖美生きてる?』
画面に次々と流れていくメッセージを読み、私は首を竦める。
そういえば今日は卒業パーティをするんだったっけ。忘れていた。私はもう鷲津と二人で済ませてきたけど。
仕方なく、グループ宛てに返事をする。
『ごめんね、今日は約束があったの』
するとクラスメイトからは即座に返事が流れてきた。
『嘘、もしかしてデートとか?』
『佐山くん、聖美が来ないからって残念がってたのに』
不意に佐山の人懐っこい笑顔が脳裏に浮かんで、あっという間に消えていった。
放っておけば直に忘れてしまうような気がした。佐山のことも、仲のよかった子たちのことも、今は何の興味もない。
携帯電話のキーを押す指がかじかんでいた。温めて欲しい相手がここにはいない、そのことだけが辛かった。
『そう、デートなの。佐山にもそう言っておいて』
そう打ってから送信する。
即座に携帯電話の電源を落とした。コートのポケットに放り込んで、後はそ知らぬふりをする。
今となっては、鷲津以外は何も要らない。
たとえ他に何も残らなくても構わなかった。