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忘れてしまえば良いのです(3)

 私は目を閉じたまま、はだけた胸にひんやりとした空気を感じている。
 この間よりも室温が低いのかもしれない。のぼせてしまわないように調節したんだろうか、そう思うと鷲津が一層いとおしく感じる。
 私と一緒に記憶と経験を積み重ねていって、いろんなことを覚えて欲しい。
 私とのことは何もかも忘れずにいて欲しいと思う。
 だけど寒いのはちょっと嫌だから、早く暖めてくれたらと願ってしまう。

 鷲津はどうして何もしてこないんだろう。
 私の上になって荒い呼吸を繰り返す彼は、触れても来ないどころか身じろぎ一つしていないようだ。ただ私をつぶさに観察しているのか、それすらせずにぼんやりしているのかはわからない。何もしてくれようとしないのは確かだった。
 どのくらい待っていようか、私もしばらく考えていた。待ち切れなくなったらこちらから仕掛けてしまおう。寒いのは嫌だし、早く触れて欲しくてたまらない。

 じれったい思いでタイミングを計る私の頭上で、吐息交じりの声がした。
「――聖美」
 鷲津の声がぎこちなくそう呼んだ。
 私は思わず目を開く。
「え?」
 真っ先に、白い天井を背にした鷲津の顔が見えた。苦しそうに強張った顔だった。
 なのに私と目が合うと、つれない口ぶりで言う。
「呼んでみただけだ」
 それにしても唐突だと思った。
 驚いて聞き返す。
「私の名前を?」
「今日、卒業式の練習で聞いたから。くがはらきよみ。覚えた」
 素っ気なく鷲津は言い捨てる。
「似合わない名前だよな」
 そうも言われた。
 その発言はさておき、私は返事もできずに瞬きを繰り返していた。

 鷲津が、名前で呼んでくれるなんて。
 呼んでみて欲しいと密かに思っていたから、嬉しい。
 嬉しかったけど、今日の鷲津は何だか様子がおかしい。こんな体勢に持ち込んでおきながら何もしないで、私の名前を口にしたりして。
 初めてだからこそ、私を大切にしたいと思ってくれたとか――まさかね。

 でも前向きには捉えたくて、私は思い切って切り出した。
「ね、これからは名前で呼んで」
「何でだよ」
「恋人同士、みたいだから」
「絶対嫌だ。二度と呼ばない」
 女心をあえなく踏みにじった鷲津は、だけどその割に複雑な表情をしていた。私を見下ろす顔が不機嫌そうでも、不快そうでもない。今更罪の意識にでも囚われているみたいに顔色がよくない。
 やっぱり何かが変だ。
「なあ」
 そのうちに鷲津がぽつりと言った。
「何?」
 聞き返した私の背中へ、彼は不意に手を差し込んでくる。
 ブラウスの布地を通して彼の手の温かさが伝わった。彼の熱はそのまま私を抱き起こして、ぎゅっと両腕で――抱き締められた。
 鷲津の細い骨ばった腕の中、私は目を見開いた。
「ど……どうしたの?」
 今までの言動が言動なだけに、こういうふうに優しくされるとどきどきしてくる。
 期待し過ぎないようにと心では思っても、胸の高鳴りはどうしようもなかった。

 服を脱ぎかけた状態で抱き合っている私たちは、傍目にはきっと恋人同士に見えるはずだ。
 事実とは違っても。本当は、そうではなくても。
 私たちの間を隔てるものは鷲津が着ている薄いシャツだけだった。体温はより近くに感じられて、身体が融けてしまいそうなほど心地いい。
 それにこの温かさが、現実がどうであれすごく幸せだった。

 とろけていきそうな私の胸中なんて知らず、鷲津は私の耳元で言った。
「俺……」
 一度はためらってから、息継ぎをして続ける。
「俺、お前のこと好きな奴がいるの、知ってる」
「……何の話?」
 それは全く無粋な、この場にいない人間の話のようだった。
 こんな時にそんな話題を持ってきたことを訝しく思い、私は鷲津の顔を窺おうとした。だけど彼の腕の力は強く、見上げようとするどころか、くっつけあった身体を離すことすらできなかった。
 むしろ鷲津は、顔を見られたくなかったのかもしれない。
「お前を、久我原を、好きだって言ってる奴がいる。男子で」
 声を震わせて鷲津は言う。
「俺はそいつが嫌いなんだ。俺のことを馬鹿にして笑う連中の一人だから」
「鷲津」
 私は言葉を止めようと彼の名を呼んだ。
 でも彼はお構いなしに言う。
「だからお前のこと、そいつより先にめちゃくちゃにしてやったら、見返してやれると思った。笑い返してやれるって思った。馬鹿にされ続けた俺が、この手で汚してやったんだって、言ってやるつもりだった」
 苦しそうな吐息が耳元に触れる。
 熱くてくすぐったい。背筋が場違いにぞくぞくした。
「知ってたんだ、俺。お前がうちのクラスでどういう存在かって。男子でお前のこと好きな奴がいて、友達も割といて、クラスの連中に無難に好かれてて、教師どもにも真面目な子だって評価されてて」
 震える声が語るのは、彼が見ていた私のことだ。
 私が知らない、でもクラスメイトたちが抱いている久我原聖美のイメージだ。
「お前がそういう奴だから、俺は、お前の誘いに乗ってやったんだ」
 私を抱き締める鷲津の身体も震えていた。
「お前をめちゃくちゃにしてやるのも、復讐になるだろうって思って――」
 口をつく言葉は冷たく鋭いのに、彼は怯えたようにがたがた震え続けている。

 私は、始まりの日のことを覚えている。
 あの日、鷲津は私を『真面目そう』だと評した。私はその評価を正しいとは思わなかったし、笑い飛ばしていたけど、その評価が示していた本当の意味を知ることはなかった。
 理解して、初めてわかった。
 だから彼はあの日、私の誘いに乗って私にキスしてくれたんだ。
 それから私を家へ招いてくれた。
 私をこの部屋に通して、その後で――。

 記憶を辿る私の思考に割り込むように、鷲津がまた声を発する。
「久我原、聞かないのか」
「……何を?」
「誰なのかって。お前のこと好きだっていう奴が。それとも知ってるのか?」
 鷲津はそれを私に知らせたいんだろうか。
 その理由がわからない。私が聞いても、心変わりしないと信じてくれているから?
「ううん、知らないけど」
 抱き締められたまま、私は首を竦めた。
「聞かないよ、興味もないし」
「明日、卒業式だろ」
 鷲津は尚も続ける。
 耳をかすめる彼の吐息が熱くて、眩暈がしそうだった。
「お前のところにそいつ、来るかもしれない。お決まりのパターンだろ? 卒業式の日にそういうの。お前、そうなったらどうする?」
「振る。決まってるじゃない」
 即答した。

 他にどんな答えがあるっていうんだろう。
 鷲津の言う男子が誰かは知らないし、別に知りたいとも思わない。
 まして、それが誰であろうと鷲津でない限りはどうでもいいし、心変わりなんてあるはずがない。

「私が興味あるのは鷲津だけ」
 首を少し動かして、私は彼の耳元を探す。
 髪に隠れていない耳は見つけるのもたやすかった。唇で触れた耳たぶは柔らかく、そっとなぞるだけで鷲津の身体がびくりと反応した。
「そのくらいならいっそ、見返してあげようよ」
 その耳に、吐息と共に囁き返す。
 彼の耳朶は赤く、ほんのり上気している。そこから繋がる頬も、首筋までも、一面うっすらとした赤に染め上げられていた。
「簡単な話じゃない。何もかも忘れて、私のことめちゃくちゃにして、それで誰かのことを見返してやれるんでしょう? だったら迷わずそうして」
「けど、君――お前は、嫌じゃないのか」
 呼び方が以前のものに戻りかけて、鷲津は慌てて言い直す。
 そのたどたどしさに私は笑った。
「ちっとも。私は鷲津が好き、だから鷲津のしたいことをして欲しい」
「お前のことを好きな奴が、他にいるっていうのに?」
「私にとって大事なのは、鷲津が私を好きになってくれるかどうかだけ。他の人なんてどうでもいいの」

 だから、彼にも忘れて欲しい。
 鷲津のことを笑う人たち、馬鹿にする人たちの存在を、きれいに忘れてしまえばいい。取るに足らない連中だったって思ってくれればいい。
 その為に私が必要だっていうなら、好きなようにしてくれて構わない。

「ね。見返してあげようよ」
 囁くついでに、鷲津の耳に歯を立てた。
 柔らかい輪郭を甘く噛む。
「んっ」
 漏れた声と共に彼の身体がまた震えた。
 だけど次の瞬間、頭を掴まれ、引き剥がされる。直後のキスはごつんと音がした。
 歯がぶつかったからだ。
 ぐいぐい押しつけるように口づけられ、私は仕返しとばかりに舌を出す。彼のかさつく唇を舐め、舌で割り入って、彼の舌に絡める。彼の舌は溶け出しているみたいにぬるりと生温かく、なのに私に怯んでもがこうとしていた。
 逃がさない。逃がすはずがない。
 私は彼の首にしがみつき、執拗にその舌を追い駆けた。何度も何度も息継ぎをしては、角度を変えて、初めての激しいキスを繰り返した。知識だけで試してみても意外と上手くいくものだと思う。
 そしてこういうキスのやり方は、とても、私好みだった。

「……こういうキスは、嫌い?」
 唇が離れてから、私は息を弾ませ問いかけた。
 鷲津も喘ぐように息をしていた。
「お、お前、やっぱり」
 彼の私を見る目がとろりと潤んでいる。
「やっぱり、変だ。頭おかしい」
「そうなんじゃない? 鷲津が言うなら」
 私は彼のシャツのボタンを外し始めていた。
 高揚する頭のせいか、指先がもつれた。早く、早く外したい。彼の肌を晒してしまいたい。
「止めろよ、おい」
 鷲津の手が気だるそうに私を引き剥がす。
 私はすかさずその手を捕まえ、指先を咥えた。
 人差し指から丁寧に、舌を這わせて舐め始める。
「久我原、何して……っ!」
 彼が声を上げた。とびきり可愛い声だった。

 音を立てて舐める指先の爪はつるりとしていて、指の腹は少しざらざらしていた。
 だけど鷲津の反応は指の腹の方が顕著だった。そこを私の舌が擦る度、溜息のような声が、濡れた音に混ざって聞こえてきた。人差し指の次は中指、それに薬指、小指――どれも丁寧に、味わうようにしゃぶり尽くす。
「や、やめろって――う……あ」
 鷲津はどの指にも敏感に反応し、だんだん力が抜けていくようだ。
 どうしよう、好きだ、鷲津の声。こういう反応。
 やっぱり私はめちゃくちゃにされるよりも、めちゃくちゃにしてやる方が好きなのかもしれない。
 拘束されるよりは拘束する方が好み、かもしれない。
 どうしよう。どうしてやろう。次はどんなことをして鷲津に声を上げさせてやろうか、そんな考えで頭がいっぱいになる。

 私の中には元から他の人間が入る余地なんてなかった。
 鷲津の指を舐め終えた私が、彼を床に押し倒す頃には、『誰かを見返してやる』なんて口実もどうでもよくなっていた。
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