忘れてしまえば良いのです(2)
鷲津の家までは誰にも会わずに辿り着けた。道もしっかり覚えていたから、所要時間は二十分というところだ。
私は真新しい家の前で立ち止まり、インターフォンに手を伸ばす。
するとチャイムを鳴らすより先に鍵が開き、玄関のドアが軋む音を立てた。
「入れよ」
ドアを薄く開いて、鷲津が目を覗かせる。
もしかして玄関で待ち伏せていたんだろうか。私が来るのを少しは楽しみにしてくれてたなら嬉しい。単にチャイムを鳴らされると迷惑だから、という可能性もあるだろうけど。
ともかく私はほっとして、笑顔で応じた。
「お邪魔します」
今日も家の中は静かで、鷲津のご両親は不在のようだった。
通された彼の部屋もこの間と何ら変化がなかった。くすんだ冬景色みたいなグレー一色なのも同じなら、電気ストーブが唸りを上げているのも同じだ。
鷲津がまだネクタイを結んだ制服姿でいるのも、同じだった。
私をカーペットの上に座らせると、鷲津はこの間と同じ問いを発した。
「何か飲むか?」
「お構いなく」
答えながらコートを脱ぎ、畳んで床に置く。
こっそり窺い見たら、グレーのカーペットに血の染みは残っていなかった。
「昼飯、まだなんだろ?」
そう尋ねた鷲津は、戸口のところに立ったままでいる。この間よりは幾分か落ち着いた様子だった。だけど学校にいる時ほど堂々とはしていない。
「まだだけど」
「じゃあ何か出してやるよ」
どこか面倒くさそうに彼が言うので、私は笑ってかぶりを振った。
「いいよ、悪いし」
「お前って図々しいのかそうじゃないのかわからないな」
鷲津は私のことを図々しい奴だと思っているんだろうか。そんなふうに思わせた覚えはないんだけどな、こうしてちゃんと遠慮もしているし。
遠慮ができないのは鷲津のことだけだ。
「今はあまり食欲ないから」
正直に答えて、その後で言い添える。
「食べるなら、鷲津の方がいいな」
もちろん嘘ではなかったし、冗談のつもりでもなかった。
だけど鷲津はたちまち真っ赤になり、ついでに不機嫌そうにもなった。たちまち睨まれる。
「ふざけるな。こっちは真面目に聞いてるのに」
「私も真面目なつもりだけど」
怒られる予想をした上での発言だから、言うほど真面目ではなかったかもしれない。でも、当たり前のように本気だった。
「鷲津はご飯食べた?」
「いや。いつも昼は抜いてる」
「だったらお互い、つまらないことで時間潰す必要ないよ」
睨んでくる視線に対し、ねだるように両手を伸ばしてみる。
「ねえ、早くこっちに来て」
心がうずうずしている。
学校にいる時から、リハーサルの時からずっと、鷲津が欲しかったんだから。
「鷲津だって、私と余計なお喋りがしたいわけじゃないんでしょう?」
私は期待を込めて畳みかけた。
「手っ取り早く本題に入る方がお互いの為にもいいと思わない?」
わかってる。
彼は私をもてなす為に招いてくれたわけじゃない。
今はそれでもよかった。じっくり時間を掛けてでも手に入れるつもりでいた。
彼の身体も、心も、全部。
鷲津は呆れたように口を開いた。
「……お前って」
その後にも何か続けようとしたみたいだけど、乾いた唇はそのまま動かなかった。
黙ったまま私の前までやってきて、すとんと腰を下ろす。それからすぐに手を伸ばして、私の両肩を引き寄せた。遠慮のない強い力だった。
そうして私の唇の端にに一瞬だけキスをして、そのまま私を押し倒した。
私は後頭部をぶつけないよう、慎重に彼の動作に従う。
身体中が既に喜びと期待に溢れかえっていた。
鷲津はこの間よりも積極的だった。
まず私のタイリボンを解いた。それからブレザーのボタンを外す。器用そうな手は今日ももたついていたけど、躊躇しているわけではないらしい。
「女の子を脱がすのが好きなの?」
床の上に倒された私は、彼を見上げて尋ねてみた。
途端に彼の手がぴたりと止まる。
「別にどっちでもいい」
声が震えているように聞こえた。
「お前に主導権やるのが嫌なだけだ」
「ふうん。それでさっき、キスしてくれたんだ?」
これで二回目だ。鷲津の方からキスしてくれたのは。
もっとも、最初のキスは私が仕掛けて誘ったようなものだ。キスして欲しい、と言わないうちからしてくれた、そんな変化がとても嬉しい。
「余裕の顔しやがって」
上に覆い被さった鷲津が、悔しそうに呻いた。
私の肩の下に両手を滑り込ませて、さっと素早くブレザーを脱がせてくれた。すぐにブラウスのボタンに取り掛かる。
その間に私も鷲津のブレザーに手を伸ばし、三つのボタンを全て外しておいた。
彼のボタンは潰れておらずぴかぴかで、制服自体もほつれもなくきれいだった。まるで鷲津自身みたいだ。
男子生徒は制服をだらしなく着ている子も多く、卒業式を控えたこの時期は生活指導が特にうるさく吠えている。でも鷲津なら怒られる心配もないだろう。
明日の卒業式も、このきれいな制服のままで出ていくんだろう。
「ブレザーにも第二ボタンってあるのかな」
「は? 何だって?」
ふと呟いた独り言を、鷲津は律儀に聞きとがめてきた。
「ううん、何でもない」
私が欲しいのはボタンじゃない、鷲津だ。だからどうでもいい。
そう思い、外したボタンからは手を離した。
代わりに赤いネクタイをぎゅっと握ってみた。
「ネクタイ、解いていい?」
「嫌だ」
尋ねれば、返ってくるのはつれない答えだ。私はそれでも食い下がる。
「大丈夫だよ、間違えて首絞めたりしないから」
「どうだか。お前の言うことは信用できない」
鷲津は私の手を払って、ブラウスのボタンを外し続けた。既に上から三番目まで外れていた。この間よりずっと手際がいい。
「ネクタイの解き方、ちゃんと調べたんだけどな」
「調べたって?」
「そう、ネットでね。今は何でも検索で出てくるから便利だよね」
ネクタイの結び方、解き方を丁寧に載せているサイトも検索したらすぐに見つかった。結び方はともかく、解き方は必要になるだろうから――大人になってからも、鷲津はネクタイを結ぶかもしれないから。
「だから、解き方は大丈夫。試していい?」
私は上目遣いで尋ねてみた。
でも鷲津にはきつく睨み返された。
「訳がわからないな、お前。そんなこと調べてどうすんだか」
「役立てようとしてるじゃない」
「わかったよ、勝手にしろ」
吐き捨てるような了承だった。
それで私は彼の襟元に指を伸ばし、結び目をゆっくりと緩めていく。
ネットで見た通りの、覚えたてのやり方で解いた。
襟元からネクタイを外す時、しゃっと衣擦れの音がした。その音は前に聞いた通り、紅茶に砂糖をひとさじ入れたような音だった。甘くて、どこか艶っぽい。
「ほら、役に立ったでしょう?」
言いながら私は、ついでに彼のシャツのボタンに手を掛けた。
けれど鷲津は身を引いて、私に外させまいとする。
「主導権はやらない」
彼は頑なに主張するけど、私は別にどちらでもいいと思っていた。
最後までしてくれたらそれだけでいい。
「鷲津がリードしてくれるの? なら、好きにしてもいいよ」
私が言い返すと、鷲津は何か言いたげに溜息をついた。
無言のまま私のブラウスのボタンを全て外し、胸元をはだけるように広げた。
今日の下着はちゃんとレースのついた可愛いのにした。
色だってこの間とは違い真っ白だ。友達曰く、男受けを狙うならこういう下着が一番いいのだそうだ。
だったら鷲津の好みにも合うんじゃないか、そう思って選んだ。
鷲津は私の胸をしげしげと見て、低い声で言った。
「こういうの、持ってないのかと思ってた」
「……どういう意味?」
聞き返したけど彼は答えず、色白の手を伸ばしてぎこちない動作で私の胸に触れた。
下着越しに、ほとんど置いただけの触れ方だった。それでも指先がかすめるように素肌に触れ、ひとりでに身体が震えた。ぞくぞくした。
鷲津の視線がはっと動いて私を見る。
私も彼を見上げていたから、胸に手を置かれたままで数秒間、見つめ合った。
薄い布地越しに鷲津の手のひらの熱を感じる。
それから彼の目つきも、さっきまでとは全然違う。見下すような印象が鳴りを潜め、代わりに食い入るほどに見つめられている。私に興味を持ってくれているのがわかる、焼け焦げるような眼差しだった。
やがて鷲津の喉仏がゆっくり上下し、直後に彼の手が私の胸をぎゅっと掴んだ。
反射的に、肺から息が押し出されたような声が出た。
「い、痛かったか?」
すると鷲津はうろたえたようだ。自分で力を込めたくせに慌てふためいている。おかしい。
「ううん」
笑うまいとしたけど無理だった。
「痛かったわけじゃないよ」
吹き出した私を見て、鷲津はみるみる不快そうになる。
「笑うな、こっちは心配してやったのに」
「だって」
「感じたんだったら、もう少し可愛げのある声出せよ」
そういう台詞を口にする時、声を震わせるのが彼らしい。まさに可愛げのある声だった。
私にはなかなか彼みたいな声が出せない。
さっきの吐息だって震えもしなかったし艶っぽくもなかった。
アダルトビデオの声を真似た方がよかったんだろうか。でもわざとらしくすると余計に怒られそうな気もする。
笑いを堪えようと、私は話題を変えてみた。
「今日は積極的なんだね、鷲津」
「お前、少し黙ってろ」
鷲津は私が普通に話すのが癪に障るみたいだった。
それならと私は素直に口を噤む。彼にしたいと思うことがあるなら任せてみるのも悪くない。目をつむり、少し待ってみる。
目を閉じていると彼の呼吸が聞こえてきた。電気ストーブのモーター音に紛れてひゅうひゅうと、もう既に乱れて荒くなっていた。