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人形の夢と目覚め(4)

「ひうっ」
 鷲津が声にならない声を上げた。
 身体を起こした私が、その喉元を唇で捕らえたからだ。舌先でちろっと舐めたら、彼は突っ張るように仰け反った。
 その勢いに引きずられそうになったから、私は彼の首にしがみついて、こちらへ抱き寄せる。
 彼が倒れ込んできた瞬間、もう一度唇で喉元に触れた。軽く吸ってみた。
「やめっ、止めろって!」
 裏返ったような呻き声がいいなと思う。鷲津の声なら全部いいと感じるんだろうけど。

 私は訴えをスルーして、抱いた首筋を次々と吸っていく。わざと音がするように。
 そのままゆっくりと下りていく。
 鎖骨まで辿り着くと、また鷲津が必死な声を立てる。
「い、いい加減に……っ!」
 初めてだから、キスしながらボタンを外すのは難しかった。今後の為にも片手で外せるようになりたいと思った。シャツを開くのは諦めて、私は彼を押さえ込むことに専念する。
 彼の方も私を押さえつけようと必死だ。両肩を強く掴まれ、痛いと思った瞬間、力ずくで腕を剥がされた。
「お前なんかっ!」
 鷲津は私の上に圧し掛かり、ボタンを外したままのブラウスを引き裂かんばかりに抉じ開ける。

 胸が露わになった瞬間は、さすがに恥ずかしいと思った。
 あまり大きくないという自覚があったので、彼が落胆しないかどうかも気懸かりだった。
 それと今日の下着に色気がないことも、今更思い出して気になった。アウターに響かないモールドカップ、しかもベージュだ。今日は体育の授業があったから。
 鷲津はどういう下着が好きなんだろう。鷲津は、胸の大きい女の子の方がいいと言うだろうか。そういう話も後々の為に聞いておきたい。
 私はちらと視線を上げて、彼の反応を窺った。

 先程の荒々しさが嘘のように、鷲津は黙って私の胸を見ていた。
 釘づけ、というとまるで自信があるかのような語調になるけど、彼の視線はまさにそんな雰囲気だった。初めて見るものみたいに、食い入るように注視していた。
 あまりにしげしげと眺められるので、視線すらくすぐったくなってくる。
「小さいでしょう?」
 居た堪れなくなった私が尋ねた。
 びくりとした彼が、うろたえたように視線を外す。
「いや、別に……知らないけど」
「仲のいい子は皆、もっと大きいの。だから鷲津に呆れられないか心配で」
「ふ、普通だろ。気にしたことないし、どうでもいいよ」
 鷲津がフォローらしき言葉を口にしたので、少し驚く。
 もしかすると大した意図はなかったかもしれないけど、それでも嬉しかった。ほっとした。大きい方が好きだと言われたらどうしようかと思っていた。
「ブラジャー、外せる?」
 もう一つ尋ねてみる。
 鷲津は先程よりも更に狼狽して、声を跳ね上がらせた。
「ど、どうやって?」
「後ろ、背中の方にホックがあるから」
 私も照れながら説明する。
 見られるのが恥ずかしくないわけじゃない。でも、私が脱がなくちゃ鷲津も脱いではくれないだろうから。
 最終的には全て脱ぐのだろうし、早いか遅いかの違いだ。
「見たいなら、外してもいいよ」
 促すように言った私と、曝け出された胸元とを、鷲津は黙って交互に見比べていた。

 こちらの反応を窺っていたのかもしれないし、何か思案に暮れていたのかもしれない。
 あるいは初めて間近で見るもののせいで、その思案もまとまらないのかもしれない。
 だったら何も考えずに、本能のままに動いてくれてもいいのに。しげしげ見るほど興味があるなら見ればいいし、触りたいならそうしてくれてもいい。鷲津になら何をされてもいいと私は思っている。
 だけど鷲津は動かない。

 そのうちに、
「あっ」
 彼が声を漏らしたかと思うと、急に鼻の辺りを押さえ出した。
 と同時に、ぱたりと、生温かいものが私のお腹に落ちる。
 私も異変を察知した。
「どうしたの?」
「ま、待て、動くな」
 鷲津はそう言うと、私の身体の上から飛び退いた。
 床の上にうずくまる彼の手が、いつしか赤く染まっていた。その雫は彼のシャツの袖口を染め、床にも落ちた。赤い染みを作った。
 こちらは動くなと言われた手前、どうしていいのか一瞬、迷ってしまった。
 お腹に落ちてきた何かに、指で触れて確かめてみる。
 赤かった。血液だった。
「鼻血?」
 私の問いに、彼は答えなかった。
 そういえば室温が随分上がっていたようだ。このひとときに夢中になっていて気づかなかったけど、電気ストーブが過剰なほど部屋を暖め始めていた。
 それでなくともお互い興奮していたんだから、こうなるのも仕方ない。

 とっさに私は起き上がり、机の上に置かれた自分の鞄に手を伸ばす。
 ポケットティッシュが入ってるから――だけど鞄は空っぽだった。そういえば鞄はさっき、鷲津の前で空けてしまったんだ。その中身はどこへ行ったか。
 教科書やノートは全て鷲津が拾い集めて、部屋の隅に重ねていてくれた。探し求めていたポケットティッシュも、愛用のハンドタオルと一緒にその上にあった。急いで飛びついた。
「鷲津、大丈夫?」
 這うようにして彼に近づき、開けたばかりのポケットティッシュを数枚差し出す。
 彼はそれを受け取って、鼻の辺りに押し当てた。その間に私も、彼の手を流れ落ちる血液を拭き取る。そうするうちに、ポケットティッシュはすぐ空になってしまった。
「この部屋、ティッシュってないの?」
 うずくまったままの彼は、私の質問にくぐもった声で答える。
「ベッドの枕元に……」
 すぐさま私はベッドに駆け寄り、放られたブレザーたちを尻目に、枕元の箱ティッシュを掻っ攫う。
 数枚取って鷲津に渡した。
 彼がぼそりと言う。
「悪い」
「気にしないで」
 私も自分のお腹と、いつの間にやら赤く染まっていた指先を拭き取る。
 一段落してから気がつけば、彼のシャツやグレーのカーペットもあちこち赤くなっていた。早くしないと落ちなくなる。
「鷲津、洗面所ってどこ?」
 ハンドタオルを手に、私は立ち上がった。
 鷲津がこちらを怪訝そうに見る。私は早口で言い添える。
「血液って乾くと落ちなくなっちゃうから。お水が欲しいの」
「洗面所は下、居間の奥」
「ありがとう」
 聞くや否や飛び出そうとすると、彼の声が追い駆けてきた。
「洗面所の棚に、タオル入ってる」
「え?」
 振り返る。
 彼は、こちらを見ていない。丸められた背中が辛そうにも見えた。
「使っていいから」
 でも、そう言ってくれた。
 だから私も、うん、と応じる。
 そして階段を駆け下りた。ブラウスのボタンを留め忘れたせいで、胸の辺りが肌寒かった。

 鷲津の家の洗面所は、外観同様にきれいだった。
 洗面台の横、戸棚を開けると確かにタオルが入っていた。どれも丁寧に畳んであるのを見て、鷲津の几帳面さはお母さん譲りなのかなと思う。
 使っていいとのお言葉に甘えて、タオルを二枚お借りした。
 一枚は水に濡らして軽く絞り、そうして二階の部屋へ取って返す。

 戻ってきた私を、鷲津はどこか恨めしそうに見ていた。
 私は彼に断ってから、カーペットとシャツについた汚れを落とし始めた。濡れタオルで濡らしながら拭き取って、乾いたタオルで仕上げ拭き。それでカーペットの方は上手く落ちたけど、シャツの方は染みが残ってしまった。
「あとは石鹸で落とすしかないかな」
 私はそう言って、彼の手も濡れタオルで拭いてあげた。彼はされるがままだった。
 口ではどこか気まずそうに言ってきた。
「詳しいな」
「何が?」
「こういう時の対処の仕方。慣れてるって感じがした」
「男の子よりは慣れてる自信があるよ」
 実感として私は答えた。
 だけど鷲津はどう受け取ったか、やがて深い溜息をつく。鼻にティッシュを詰めた顔で続ける。
「格好悪いよな」
「何が?」
「俺が。こんな時に鼻血出すなんて、ガキみたいだ」
 気のせいか、落ち込んでいるみたいだ。
 私は励ますつもりで語を継ぐ。
「そんなことないよ。誰でもあるんじゃない、こういうことは」
「ないだろ。と言うか、お前なんかに慰めてもらいたくない」
「きっと部屋が暖かかったからのぼせちゃったんだよ。ストーブ停めて、換気しようか?」
 鷲津が何も答えなかったので、私は電気ストーブの電源を切った。
 それから窓際に歩み寄ると、すぐさま背中に声を掛けられた。
「窓開けるなら、ボタン留めてからにしろ」
「……あ、忘れてた」
 私は笑って、ブラウスのボタンを留める。
 その後で改めて窓を開けた。冷たい外気が音を立てて吹き込んでくると、室内の空気も様変わりしたようだった。
「悪かった」
 鷲津が、もう一度呟く。
 私は冬の風を背に、彼に向かってかぶりを振った。
「気にしなくていいったら」

 結局その日は、何もせずに別れた。
 何もせずに、という言葉が正しいのかはわからないけど――確かにその後は何もなかった。お互いに制服を着直して、私はタイリボンを結んだ。ブラジャーの中身は見せる機会がなかった。
 別れ際まで、鷲津は口数が少なかった。あんな状況で鼻血を出したのがショックだったのか、それとも機嫌を損ねていたのかは判別つかなかった。

 ただ、別れ際にはこう言われた。
「お前、やっぱり変だよ」
 俯き加減の鷲津に、私は聞き返す。
「そう? どうして?」
「他人の鼻血なんて汚くて、触りたくないだろ」
 ぼそぼそと彼が続けた。
 どうやらかなり気にしているみたいだ。
 私はあえて軽く応じる。
「鷲津の身体から出るものなら、ちっとも汚くないよ」
 そしたら鷲津は目を見開き、それから低く唸った。
「嘘だろ、そんなの」
「本当だよ。さっき証明してみせたでしょう」
「……正気の人間なら、汚いから寄るなって言うよ」
 まるで言われたことがあるみたいに、確信的に鷲津が言った。
 恋をしている以上、私が正気であるとは断言できない。今だって、鼻にティッシュを詰めたままの鷲津に、キスしたいなと思ったくらいだ。
 私はどんな彼でも、堪らなくいとおしい。そういうふうになってしまったみたいだ。
 想いの向くまま唇を寄せたら、彼にはぐいと押しのけられてしまったものの。
「キスするのは駄目?」
「駄目。というか、こんな格好じゃ俺が嫌だ」
 最後まで、鷲津らしい拒絶の仕方だった。

 翌日、私は早めに登校して、鷲津の上靴に手紙を仕込んでおいた。
 彼と同じように丁寧に丁寧に折り畳んで、小さく潜めておいた手紙だ。
『いつでも連絡してね』
 そんな言葉に添えて、携帯電話の番号も記した。
 名前は書かなかった。わかるはずだと確信していた。

 朝の教室で待っていれば、やがて登校してきた彼は一瞬だけ私の方を見た。
 目が合ったような気がした。それもほんのわずかな間だけで、すぐに逸らされてしまったけど。
 その後も教室では、目が合うことなんてなかったけど――。

 私と彼の密かな関係は確かに始まっていた。
 まだ目覚めたての、始まりにしか過ぎなかった。
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