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人形の夢と目覚め(3)

 私は床の上で仰向けになっている。
 そして覆い被さってきた鷲津の顔を見上げた。
 鷲津は私を見下ろして、だけどそれだけだ。まだ何もしてこない。
 私の肩を挟むように、床についた腕が震えていた。表情にも逡巡が窺える。ためらうそぶりが目の落ち着かない動きだけでありありとわかる。
 譲歩のつもりで、私はしばらく黙って何もせずにいてあげた。そうして鷲津の顔つきと、制服から覗く白い首筋とを堪能していた。だけど制服のシャツの一番上まで閉じられたボタンが邪魔だ。もう少し中を見たいのに。
 部屋にはストーブの稼働する音だけが響いている。
 こんなに傍にいるのに、鷲津の呼吸さえ聞こえてこない。彼は息を殺しているみたいだった。それでいて、ずっとためらい続けていた。
 何を考えているのかはわからない。
 家に連れ込んでおいて、今更迷うことがあるとも思えない。

 私は待ち切れなくなって、先に口を開いた。
「どうしたの?」
 私の声を聞いて、彼ははっとしたようだ。
 たちまち作ったようなしかめっつらになる。
「別に。考え事してただけ」
「考え事って何?」
「何でもいいだろ。お前には関係ない」
 噛みつくような物言いが、かえって幼く聞こえてきた。
 私は一つ溜息をついて、尋ねてみる。
「ねえ、鷲津。今ならまだ後戻りできる、なんて考えてない?」
 我ながら挑発的な台詞だと思った。
 でも下手な気遣いの言葉よりよっぽど効くだろう。
 予想通りに鷲津は眉を吊り上げる。
「馬鹿にするな」

 彼の手が私のブラウスの襟元の、赤いタイリボンに手を掛けた。するりと外した。
 ブレザーのボタンも難なく外してくれたので、私も協力しようと袖から腕を抜く。鷲津は不機嫌そうにしながらも、私のブレザーをベッドの上に投げ出した。タイリボンも同じように放った。
 上は白いブラウス一枚になったので、床の冷たさがより顕著に感じられた。

 鷲津がまたためらい出したのをいいことに、私はそっと申し出た。
「私も、脱がせていい?」
 それで鷲津は驚いたように目を瞠る。すぐにうろたえた返事があった。
「だ、駄目に決まってるだろ! 何考えてんだ」
「どうして? だって最終的には脱ぐでしょう?」
「だからって……女の方がそういうことするなんて、聞いたこともない」
 そうなんだろうか。私は異論があったけど、唱えるのまでは面倒だった。
 それよりもさっさと鷲津のブレザーに手を伸ばして、ボタンを外してしまうことにした。
「勝手なことするなよ」
 鷲津が文句を言ったけど、聞く耳持つ理由がない。
 手早くブレザーの前を開くと、赤いネクタイがだらりと垂れ下がってきた。私はそれを軽く引く。鷲津がバランスを崩して、私の上に落ちてくる。
「うわっ」
 圧し掛かられた。
 待っていたくらいだった。思っていたよりも、彼の身体は重かった。
 顔は私の耳元を掠めて、硬質の髪が頬に触れてくる。
 薄い布地越しの体温を感じて、私は堪らなくどきどきしてくる。すかさず彼の背中に両腕を回した。だけど彼はもがくように身動ぎをして、無理矢理私の腕を振り解いた。
「黙ってられないのか、お前」
 再び距離を取った鷲津が、真っ赤な顔で私を睨む。
 私がまたネクタイに手を伸ばすと、鋭い言葉で制された。
「止めろよ」
「引っ張られたくないなら、解けばいいのに」
 私は思う。
「ネクタイは拘束の象徴なんでしょう?」
 昨日のことを思い出して告げれば、鷲津はうんざりした顔になった。
 目を逸らし、手早くネクタイを解いた。ついでにブレザーも脱いでしまって、私のと同じように、ベッドの上に放り投げる。
「シャツも脱いで」
 催促する私に、鷲津が反論してきた。
「待てよ、お前のが先だ」
 言うが早いか彼の手が、ブラウスのボタンを外しに掛かる。
 白くてごつごつした手は器用そうに見えるのに、ボタン一つまともに扱えないようだった。指先が滑って、留まったボタンが布地ごと逃げていく。
「手伝おうか?」
 私は再度申し出た。
 鷲津は心底嫌そうな顔をしたけど、口ではこう言った。
「脱いでみろよ」

 許可が出たので、私は寝そべったままで自分のブラウスのボタンを外し始める。
 自分の服は慣れているからさして時間も掛からずに外せた。
 ただ裾はスカートの中にしまっていたから、自分で引っ張り出すのも色気がないなとそのままにしておいた。

「これでいい?」
 服を脱ぐたびに一歩一歩、彼に近づいているような気がする。
 彼の肌に、彼の身体に触れられる時間が待ち遠しく、自然と笑みが浮かんでしまう。
 だけど見上げる鷲津が笑い返してくれることはなかった。
「お前、やっぱり嘘だろ」
「何が?」
「初めてだって言ってたけど……緊張も何もしてないじゃないか」
「鷲津、さっきからそればっかり」
 きっと彼は相当緊張しているんだろう。
 私は首を竦めた。
「そんなに疑うなら、確かめてみたらいいのに」
「どうやって?」
「……それこそ、女の子に言わせる内容じゃないと思うけど?」
 また私は笑い、鷲津は笑わなかった。
 彼の視線は私から外れている。せっかくブラウスのボタンを外したのに、中身には興味がないんだろうか。それは少し悲しい。
「さっきも聞いたけど」
 と、彼が言った。
「本当に初めてだって言うなら、何でそんなに落ち着き払ってるんだ?」

 彼の目には私が、落ち着いているように見えるらしい。
 とんでもない思い違いだった。私はこの上なく興奮していたし、多少なりとも緊張していた。
 何せ初めてだ。初めてのことで失敗すると、後々引きずる羽目になる。それは何につけても同様だと思うので、鷲津とのことに関しては何の失敗もしたくなかった。その為に注意を払っているつもりではいた。
 どきどきしている。
 待ち遠しい。
 早く、彼と触れ合いたい。
 私は落ち着いているわけじゃなくて、期待ばかりを抱いているだけなのだと思う。恐怖はほとんどなかった。
 初めての痛みにだけは、どうやって堪えようかと考えあぐねていたものの――それでも鷲津のあの白い肌に触れられる喜びの方が、何倍も大きいだろうから、多分平気だ。

「確かに初めてだけど」
 私は素直に答える。
「こういうの、見たことはあるよ」
「え? 見たってお前……」
「アダルトビデオ。鷲津は見たことある?」
 そう問うと、なぜか彼は目に見えて慌てふためいた。
「し、知らないのか、お前。そういうのは、高校生が借りちゃいけないんだぞ」
「借りたんじゃないよ。友達のお兄ちゃんの部屋にあったの。それを皆で見ただけ」

 興味本位だった。
 友達の家に、いつもの仲良しグループで泊まりに行ったその日、友達がげらげら笑いながらそれを差し出してきた。
 ――お兄ちゃんが本棚の裏に隠してたの、見つけちゃった。
 その子は屈託なく言った。
 内容は制服ものだった。皆で散々大騒ぎしてから、見てみようということになった。私も興味はあったし、見てみるまでは嫌だとも思わなかった。
 幸いというべきか、その日は友達の親も、件のお兄ちゃんも不在で、私たちはこっそりとそれを観賞した。

「でも、ちっとも面白くなかった」
 観賞中、友達はきゃあきゃあ声を上げ、笑っていた。
 にもかかわらず、私の気持ちは急速に醒めてしまった。面白いとも思えなかったし、興奮もしなかった。言ってしまえば醜い肉の塊がうごめいているだけの映像に、うんざりしてしまった。
「男の人はあんなのの、何が楽しいんだろう。何で興奮出来るんだろうって疑問に思ったの。私がそう言ったら、友達は皆、私が子供なだけだって笑ってた。私もその時は、同じように思ってた」
 私はまだ子供なんだ。皆よりも。
 だからアダルトビデオを見ても何も感じないし、つまらない、醜いとしか思えないんだ。無理矢理そう思い込んで、納得したつもりでいた。
 だけど昨日、違うとわかった。
「本当はもっと単純な話だったの。どういうことか、鷲津にはわかる?」
 押し倒された姿勢のままで、私は彼に問いかける。
 彼は仏頂面で答えた。
「わかるわけないだろ、頭のおかしい奴の考えなんて」
「そうかもね」
 私はちょっと笑って、続けた。
「簡単なことだよ。私、女の人の裸が好きじゃなかったの」

 よくよく考えたら当たり前のことなのかもしれない。男の人だって、同性の裸よりも女の人の方がいいだろうから。
 私がビデオの中の女の人に興味を持てなかったのも、単純にそういうことだと思う。異性愛者なんだから、女の人の身体なんて興味がなくても別段おかしくはないはずだ。画面いっぱいに映る同性の身体がただの肉の塊にしか見えなかったとしても変じゃないはずだ。
 好きなのは鷲津の身体だった。
 もちろん身体だけじゃないけど、まだ全てを見せてもらったわけじゃないけど、ネクタイを解いてボタンを外し、覗かせた首筋の白さに惹きつけられてしまった。
 昨日のあの瞬間にわかった。
 私にとっては男の人向けのアダルトビデオよりも、鷲津の方がずっと、興奮する対象だった。

「私が好きなのは鷲津だから」
 声に出してもそう告げる。
「鷲津以外でこんな気持ちになったことはないし、きっとこれからもないよ。だから何をされても構わない。できることは何でも、全部してみたいと思う」
 おかしいことだとは思わなかった。
 普通だとも思ってはいなかったけど、このくらいの衝動は恋心の範疇に十分収まる。
 大体、女の方が男の人の服を脱がしちゃいけないとか、黙っていなきゃいけないとか、誰が決めたっていうんだろう。
 映像の中の女優さんだって、鷲津が見たら文句を言いそうなことをしていたくらいなのに。

 鷲津は、ぽかんとしていた。
 険のない表情で私を見ていたから、私はここぞとばかりに手を伸ばし、彼の着ているカッターシャツのボタンを二つ三つ外した。
 途端に白くてとても美味しそうな首筋が開かれて、喉がごくりと音を立てた。
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