Tiny garden

モモの花言葉

 ある休日、桃の枝を活けてみた。
 二人暮らしの部屋は手狭で、花を置けるような場所がなかなか見つからなかった。苦肉の策としてベランダの傍に使っていない椅子を引き、その上に飾ることにした。古びた木造の椅子と桃の活け花、和洋折衷の組み合わせを愉快だと思う。いかにも作法を知らない人間のしそうなふるまいで、例えば異国の人間が見よう見まねで自由奔放に活けたみたいだ。眉を顰める向きもあるだろうけど、そういう気ままさがこの時季には相応しいと、私は思う。
 季節は春を迎えていた。ベランダからは柔らかな陽光が射し込み、部屋の空気をぬくぬくと暖めている。暖房器具のスイッチを切って久しい。時折、吹き荒れる風がガラス戸を強く揺らしても、この部屋は暖かで過ごしやすかった。

「花のある生活はいいね」
 居間のソファーに腰掛けた恭平さんが、穏やかに口を開く。
「この桃は、君のご実家の庭にあるやつかな」
「はい。差し入れついでに母が届けてくれたので、活けてみました。我流ですけど」
 私はくすぐったい思いで、従兄に対して微笑を向けた。ベランダを背にして見やる彼の表情は、やはり春のように穏やかだ。
「母から手ほどきを受けたこともあったのですが、あまりきちんとしたのは、私の性には合わなくて。今では好きなように活けています」
 教えたとおりに活けてみなさい、と母は私に桃の枝を手渡した。受け取って、少し困った。教えられたことをちゃんと覚えていなかった。
 両親はそういった方面の教育には熱心で、とかく娘に習い事をさせたがった。なのに私は、母が直々に教えてくれた華道をどことなく苦手に感じていた。花をきれいに活けるのがよいと言うけれど、花は押し並べてきれいなものではないだろうか。わざわざ飾り立ててやる必要のあるものではない――そんな風に、生意気にも思っていた。
 今は、真面目に習わなかったことを少し悔やんでもいる。大人らしく、女らしくありたいと思うようになって、自分に足りないものが何かをようやく理解した。色気がないのだと思う、私には。
 ベランダの傍に置いた桃の枝は、ちょうど生意気盛りの小娘のようにぴんと真っ直ぐ伸びている。緩み始めた蕾をたくさんつけてはいるものの、完全に花開くにはもういくばくかの時間が必要だった。そのせいか今は剥き出しの肌を晒しているような、寒々しい姿にも見える。私は春の陽射しに期待を寄せて、ここへ椅子を引いたのだった。
「僕もまるで明るくないけど、シンプルでいいと思う」
 恭平さんは目を細めている。彼はとても聡明な人であるにもかかわらず、自分の興味のないことには恐ろしく無知でもあった。むしろこの世に彼の関心を引く事柄が少な過ぎるのだろう。そう思いたいのはいわゆる、惚れた女の欲目というやつか。
「男一人の暮らしでは、到底花を飾ろうなんて考えないからね」
「恭平さんは、お嫌いではありませんか」
「いや、好きだよ。部屋の中まで明るくなっていい」
 穏やかな眼差しが、桃の枝から私へと移る。後の言葉も実に優しく告げられた。
「君が来てからというもの、この部屋ごと華やいだようでありがたいよ。僕が一人で暮らしていた頃の惨憺たるありさまを覚えているだろう」
 その言葉に、私は思わず苦笑する。
 初めてこの部屋を訪ねたのは、私が恭平さんの通う大学への受験を決めた時だった。大学の下見ついでに立ち寄ったこの部屋は、彼の言う通りに『惨憺たるありさま』を呈して私を出迎えた。掃除が行き届いていないとか、不衛生であるという次元を超越していたのだ。
「恭平さんのお部屋を初めて拝見した時は、確かに驚きました」
 私も正直に答えた。
「本がお好きだとは聞いていましたけど、まさかあれほどとは思いませんでしたから。収集癖がおありなのかと」
「あの時はたまたま、レポートの資料を積んだままにしておいてたんだ」
 従兄は恥じ入る表情で言ったものの、私の感覚からすれば『たまたま』という表現は不適切だ。常に本に溢れているのが彼の部屋だった。
 彼が読書家なのか収集家なのかは未だ判断つきかねる。何しろ彼の部屋と来たら家具よりも書籍の方が幅を利かせていた。本棚に入り切らなくなった本は床を占拠し、うず高く積み上げられ、天井を支えんばかりの柱を何本も何本も形成している。私が最初に足を踏み入れた時は――実のところ、足を踏み入れる隙間もなかったのだけど――、部屋の床に人型と思しき隙間が存在していたのみで、ベッドの上さえ本の居場所となっている惨状だった。聞くところによれば、当時はベッドでの睡眠を諦め、床の上で就寝していたらしい。夜、崩れてきた本に埋もれて目を覚ますということもあったとか。今はさすがにそれほど酷くはない。
 本以外の持ち物については、恭平さんは至って淡白だった。部屋を飾り立てる趣味もなく、調度に関しても特別なこだわりはないらしい。使えればいいというスタンスで最低限の家具だけを揃えている。そういう人だから、部屋を飾り立てるのはもっぱら私の役目となっていた。
「君の感性は偉大だ」
 桃の枝に視線を戻し、恭平さんがそう言った。
「お蔭でこの部屋も人間の生活するに相応しい空間となりつつある。僕も君の感性のおこぼれに与り、華やいだ生活のよさを味わうことが出来ているよ」
 およそ色気には乏しい誉め言葉、それでも彼にとっては最大限の賛辞のはずだった。だから私ははにかみたくなる。
「ありがとうございます。私のすることを恭平さんが許してくださるから、好き放題にしているだけです」
「それでもありがたいさ」
 恭平さんは興味深げに桃の枝を見つめている。膨らんだ蕾を目に留めてか、不意に尋ねられた。
「いつ頃花が咲くんだろうね、小春」
「もうじきです、きっと。日当たりのいいところに置きましたから」
 花が咲かないということだけは、なければいいと思う。期待と願いを込めて思う。

 居間をぐるりと見回せば、私の感性はあちらこちらで顔を覗かせていた。
 玄関に通じる戸の脇に置いた姿見は、いつ何時でもぴかぴかであるように日々磨き立てている。壁掛け時計は内装を問わないシンプルなデザインを選んだ。壁にあった染みを隠そうと、きれいな絵柄のカレンダーを掛けた。テーブルクロスとカーテンを同じ色調で揃えた。食器棚の中には揃いのカップや皿が増えつつある。外から見えるそこに、ガラスで出来た小さな動物を並べておくのも私が勝手に始めたことだった。ひっそりと飾っておいたのに、恭平さんはすぐに気付いて、可愛らしいねと笑ってくれた。
 彼はそういう人だった。私がこの部屋を変えていくのを許容してくれる。何もかも飲み込むように許してくれる。それでいて、私が施した変化を、たとえどんなに些細なものでも気付いて、短い誉め言葉をくれる。
 私は彼の領域に踏み込んでいた。元はと言えばそれが目的で、彼と同じ大学に通おうと考えたのだった。そうすれば傍にいられると思った。私を妹分としか見てこなかった彼を、私のものに出来るかもしれないと思った。事実、そうなった。今の私たちは単なる従兄妹同士という関係ではない。彼はこの部屋だけではなく、彼自身の領域に私を易々と招き入れ、居座ることを許容してくれている。私の感性が侵食していくこの部屋を、黙って、泰然と見守っている。
 だから、恐らくは気づいているのだろうと思う。彼との同居を望んだ私の、本当の理由。今となってはもう、全て見抜いているのではないかと思う。私が聡明かつ晩熟な従兄へ、かねてから想いを寄せていたのだということも。

「――桃の花の、花言葉をご存知ですか」
 私はベランダを離れ、ソファーに座る恭平さんのすぐ隣へ腰を下ろした。沈み込んだソファーが軋む音を立て、彼はこちらを見る。怪訝な顔をしている。
「花言葉? いいや、あいにくとそちらは浅学なんだ」
 そうだろうと予想していた。私は彼を真っ直ぐに見つめ、急き込んで語を継ぐ。
「では、内緒ということにしておきます」
 声が震えたのは、気付かれなかったはずだ。
 途端、従兄は目を瞠った。口元を緩めて微かに笑む。
「どうして内緒にする? 教えてくれたっていいじゃないか」
「恥ずかしいからです」
「余計に気になるな、聞かせてくれないか、小春」
「恭平さんの前では言えません。そのくらい、気障で情熱的な言葉です」
 私がそこまでを語れば、恭平さんも少しばかり面映そうにしてみせた。私の髪を指先でかき上げ、耳元へ唇を寄せてくる。吐息に近い声がした。
「一層興味深い。僕に教えてくれ」
「どうしましょう……」
 呟きも、吐息交じりになった。
「そもそも花言葉なんて、私のような小娘が声にするには気障なものですから」
「僕は、君に不似合いだとは思わない。花言葉なんて教養がなければ言えないからね」
 恭平さんは優しく言ってくれたものの、それがただの気遣いでしかないことはわかっている。彼にとっての私は長らく従妹という立ち位置に過ぎず、私に対して保護者のように振る舞ってみせることもあった。今でも、二つの歳の差は歴然としていて、時折私を翻弄する。覆すのは容易なことではなかった。
 十九になるまで掛かってしまった。
「私は、そういうのが似合う女になりたいです」
 そっと語を継いでみる。
 控えめな声で、けれどはっきりと彼に聞こえるように。
「花言葉を口にしても不似合いではないような女に、なりたいです」
 彼の双眸に、ちらと何かの色が走った。それがどういう心情かを悟らせることなく、彼は私の髪を撫でる。大きな手で慈しんでくれる。それだけで、目を伏せたくなるほどの心地良さを覚える。
「今でも十分、似合うよ」
 従兄の声は優しい。
「君が小娘なんかじゃないこと、僕はよく知っている」
 ならば、今の私は一体何だと言うのか。
 その答えを、恐らく、彼は口にしてくれない。
 けれどそれでいいのだと思う。私は我流で花を活けるような無作法な女だから、まだたったの十九だから、女らしく彼にあれこれ誉めそやされるのは早い。いつか、本当に大人の女になった時、その時こそ彼に誉め言葉を貰おう。桃の花言葉のような、心蕩かす誉め言葉を。
「花が咲く日が待ち遠しいです」
 ぽつりと零した私の唇を、恭平さんは柔らかく塞いだ。髪と指先にも口づけてきて、それから私を両腕で抱き上げる。
 決して屈強ではない彼が私を抱きかかえていくのは、気障な振る舞いを好んでいるからではなかった。彼の部屋は未だにたくさんの本が積み上げられていて、不用意にぶつかったりすると崩れ落ちてしまうからだ。彼は重そうにしながらも、慣れたそぶりで私をベッドへ運んでいく。無事に寝かせた後、大きく息をつく。
 私は彼のベッドが好きだった。私の部屋のものよりも大きいし、今はきちんと清潔にしてある。二人で寝るにはちょうどいい。
「君がいる生活は偉大だ。お蔭で僕も、人間らしい日々を送れているよ」
 恭平さんが囁く愛の言葉は理屈っぽい。色気もなければ甘くもない。それでもうれしいのだけれど、いつか、言わせてみたいと思う。
 君のとりこだ、と言わせたい。
「こうして肌を重ねるのも、人間らしい生き方でしょうか」
 服を剥がされながら尋ねると、以前よりも慣れた手つきの従兄が、ふと苦笑いを浮かべてみせた。
「さあ、どうだろう。狼なのか、人間なのか、自分でも時々わからなくなる」
「わからなくなるくらい、愛してくださっているということですか」
「……前向きに捉えるならね」
 恭平さんの笑い声。吐息は私の胸に掛かる。
「率直に言うなら、君の前ではろくな分別も働かないってことだ」
 その言葉で、私の心はあっさりと蕩けた。
 花言葉の必要もなかった。

 それから数日が過ぎ、桃の枝の蕾は見事に綻んだ。
 部屋中に桃のよい香りが漂い、そのことを恭平さんはいたく喜んでくれた。私を抱き締め、事あるごとに囁いてくる。
「花のある生活はいい」
 私は彼の肩に頭を預け、桃の花言葉を思い浮かべる。
 ――あなたのとりこ。
 まだ不似合いなその言葉は、けれど私たちを形容するには相応しいようだ。


お題:Capriccio様 「交響曲第一番」
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