Tiny garden

 お年始に来客を迎えて、父はすこぶる機嫌が良かった。
「やあやあ、あけましておめでとう」
 わざわざ玄関まで出向き、叔父様一家を迎え入れている。頑迷かつ気性の荒い父がここまで相好を崩すのも、まさにお正月ならではの風景。
 我が家にとってお正月は特別だった。家の中にはお雑煮の匂いが漂い、非日常的な賑々しさにも包まれている。長兄である父の元には、この時季毎日のように来客があった。
「良く来たね、元気そうで何よりだ」
「あけましておめでとうございます、兄さん」
 父の言葉を受けて、叔父様が頭を下げた。父と比べると人当たりの良さそうな叔父様は、居間へ入ってくるなり愛想を振り撒く。
「お久し振りです、義姉さん。それに小春ちゃんも」
 叔父様の後に叔母様と、それに従兄が続く。叔父様一家は揃いも揃って穏和そうな顔立ちをしていた。そして事実、うちの父と比べればずっと穏和だった。
「叔父様も叔母様もお久し振りです。あけましておめでとうございます」
 私もすかさず進み出て、行儀良く挨拶をした。きつく締められた晴れ着の帯も、微笑むのに支障は来たさなかった。
「手前味噌だが、美人になっただろう」
 ろくに謙遜もせず笑う父。その傍らで、叔父様が目を瞠っている。
「本当ですね。しばらく見ない間に随分大人になったようだ。小春ちゃん、いくつになった?」
「十六です、叔父様」
 毎年のように年齢を聞かれているなと思いつつ、素直に答える。それで叔父様と叔母様はまた口々に私を誉めそやした。
「きれいになったなあ。この間まであんなに小さかったのに」
「ええ、本当。これではお義兄さんも心配でしょうね」
 くすぐったい言葉に私は、はにかむことしか出来ない。
 その後で叔父様夫婦はほぼ同時に振り向いた。二人の陰に隠れるようにしている従兄に、たしなめの声を掛ける。
「それに引き換えうちの恭平は、いつまで経っても頼りなくてねえ。……ほら、恭平。恥ずかしがってないでご挨拶を」
 叔父様夫婦よりも頭一つ分背高の従兄が、ぎくしゃくとこちらを向いた。お正月から飾らない髪型、グリーンのベンチコートを着た姿。二つ年上の恭平さんは、確かにどことなく頼りなげな容貌をしていた。
 けれど、穏和ではあると思う。叔父さまたちと同様に。
 恭平さんは父と私に対し、面映そうに挨拶をする。
「あけまして、おめでとうございます」
 目が合ったのはほんの一瞬だけだった。
 従兄はすぐに父の方を向いてしまって、私の胸には短い感情の揺らぎが残る。細波立つように揺れている。もう少しこちらを見てくれてもいいのに、どうしてすぐに逸らされてしまうのだろう。
 それでも、晴れ着を着ていてよかった。
「おめでとう。恭平くんも春からは大学生だな」
 私の胸中にはまるで気付かず、父が口を開いた。
「男は覇気も必要だが、賢くなくてもいかん。その点恭平くんは頭がよいから有望だ。後は大学なり社会なりで揉まれて、甲斐性でも身につけてくるといい」
「はい、あの、そうします」
 恭平さんがおずおずと答えたので、父も叔父様も叔母様も、それぞれに笑い声を立てた。きっと意味もわからずに答えたと思われているのだろう。けれど俯く従兄の頬は赤く、私はそのことに不安を覚える。
 その時、台所から母が顔を出した。
「お酒の準備が出来ていますよ、どうなさいます、お父さん」
「おお、そうだな。まずは一杯やるか」
 父が応じ、そうして我が家の居間は酒宴の会場となった。

 お酒の飲めないうちは酒宴など退屈なだけだ。
 昼食代わりにお雑煮を食べ、叔父様たちからお年玉をいただくと、たちまち手持ち無沙汰になる。父も心得たもので、その頃になると私に声を掛けてくる。
「小春、恭平くんが退屈そうにしているじゃないか。部屋で本でも読ませてあげなさい。お父さんたちは大人同士の大事な話があるからな」
 父の言う『大人同士の大事な話』はいつも、年明け早々にすることもないような世間話に終始している。大人は酔えば酔うほど愚にもつかない話をしたがる。とは言えそこに、子どもの入り込む余地がないのも事実だ。
 そして私も、大人の話に興味はない。子ども同士でいる方がよかった。昔からずっと。
「はい、お父さん」
 胸中はやはり押し隠し、私はゆっくり立ち上がる。晴れ着の裾を乱さないように階段まで歩み寄れば、従兄も後からのろのろついてきた。お互い無言のまま、階上の私の部屋へと向かう。
 部屋のドアを開ける時、私は今年初めて従兄に対し、言葉を発した。
「どうぞ、お入りください」
「……ありがとう」
 恭平さんは緊張した面持ちでいる。その様子をおかしくも、奇妙にも思う。
 従兄を私の部屋に招き入れるのはこれが初めてではない。むしろ叔父様一家がやって来るお年始にはいつも、私たちはこの部屋へと追いやられていた。私の部屋には大きな本棚があり、父の趣味で買い揃えた文学全集がずらりと並んでいる。恭平さんは私以上に、それらの本に興味を示していた。
 今も、立ち入るなり真っ先に本棚へと目を遣った。私が後ろ手でドアを閉じると、はっとしたように振り向いたものの。
 閉め切った室内の空気が張り詰める。
 少なくとも、私にはぴんと張ったように感じられた。
 目が合う。今度は先程よりも長く。気まずく思われる前にと私は、笑みを作って切り出す。
「お座りください。座布団はありませんけど」
 座布団の代わりにするには厚みのあるクッションを手渡した。恭平さんは苦笑いを浮かべ、会釈と共にそれを受け取る。
「ありがとう」
「どうぞ遠慮なく寛いでください」
「うん、ありがとう」
「恭平さん、さっきからお礼ばかりですね」
 私が小さく笑うと、年長の従兄も困ったような笑みを見せた。そういう顔をする時、彼はとても優しげに映る。
「そうだったな。……実はちょっと、緊張しているんだ」
「緊張?」
 恭平さんの視線がちらりと室内を一周した。私の部屋は去年とさして変化がない。大きな本棚と古めかしい机、それに小さなベッドがあるだけの部屋。けれど彼は、初めて訪れたかのように視線を巡らせている。いつになく落ち着きのない様子を見せている。
 そしてふと、呟いた。
「女の子の部屋に入ること、滅多にないからさ」
「え……」
 彼の言葉にどきりとする。しかしそれも束の間、彼の表情は直に和らいだ。いつもの穏和そうな口調で告げられる。
「でも、小春の部屋には何度も来たことあるのにな。今更緊張するのも妙な話だ」
「……そう、でしょうね」
 曖昧に頷く私は、内心で落胆していた。恭平さんからすると、私を異性として見ることは『妙な話』であるらしい。幼い頃から度々顔を合わせている事実がそうさせるのだろうか。歳が近いこともあってか、いつでも体のいい妹扱いだった。
 私は晴れ着を着ているのに。見てもらいたい相手は一人だけなのに。
「本を読ませてもらってもいいかな」
 恭平さんがいつものように言い、私はやはり頷かざるを得ない。
「ええ、どうぞ」
 それで彼は本棚へと向かい、適当な一冊を選び出した。そして床に置かれたクッションに腰を下ろすと、行儀良く読書を始める。部屋の中には紙の擦れる音が響く。
 私は彼の傍らに座り、彼が本を読むのをじっと見つめていた。私も読書は嫌いではない。でも、本よりも好きなものがある。お正月の賑々しさから切り離された、毎年恒例のこの時間だけは好きだった。階下から届く父たちの笑い声が、遠い世界のもののように聴こえるこの時間。
 一方で、恭平さんは本が好きだった。自室にも古本をどっさり溜め込んでいると聞いていた。父が恭平さんを買っているのも、読書好きという共通項があるからだそうだ。将来は自分のような男になるだろう、と父が言うので、私はそうならなければいいなと密かに思っていた。
 恭平さんは、ずっと恭平さんのままであって欲しい。

 けれど現実にはそうではなく――。
「……恭平さん」
 私は、吐息ほどの声で呼びかけた。
 それでも従兄の耳には届いたらしい。顔を上げた彼がこちらを向く。怪訝そうな表情をする。
「ん? 呼んだかな、小春」
「え、ええ」
 自分で呼んでおきながら、反応のあったことにどぎまぎした。気が付いてくれるとは思わなかった。きっと本に夢中で、こちらには見向きもしないだろうと。
「お茶でも、お持ちしましょうか」
 呼んだ以上は黙っている訳にもゆかず、私は控えめに申し出た。恭平さんがかぶりを振ったところまで予想の範疇だった。
「いや、いいよ。お構いなく」
「でも……この部屋、寒くありませんか」
「気にならないな。君は寒い?」
 逆に、気遣わしげに問われた。私も慌てて否定する。
「いいえ。恭平さんが気にならないのでしたら、それでいいのです」
「そうか、ありがとう」
 はにかみ笑いを浮かべた恭平さんが、再び本へと視線を戻す。私よりもずっと見つめられているその本が、いささか憎らしい。
 私は深く息を吸い込んだ。着物の帯のきつさに顔を顰めたくなったものの、もう一度呼びかけてみる。
「恭平さん」
 今度は素早い反応があった。
「どうしたんだ、小春。用があるなら言ってくれよ」
 眉根を寄せた従兄に対し、私は僅かにためらってから、こう水を向けてみた。
「恭平さんは四月から、大学生だそうですね」
「……ああ。お蔭様で」
「おめでとうございます」
 私が述べると、彼は訝しそうにしながらも顎を引く。
「ありがとう」
「父が申しておりました。恭平さんはとても優秀な成績で大学へ行かれるのだと」
「そうでもないよ」
 彼の表情が苦笑へと変わった。本を閉じ、肩を竦めてみせる。
「きっと伯父さんは、僕が推薦で大学へ進むからそうおっしゃったんだろう。だけどあいにく、運が良かっただけなんだ。試験を受ける連中よりも楽をしているだけなんだよ」
 私も既に高校生の身、推薦を受けられるということがどれほどのものかは知っているつもりだ。つまり恭平さんの言葉は謙遜以外の何物でもない。私がものを知らないと思っているのだろう。
 けれど異を唱えようとする前に、恭平さんの方が語を継いできた。
「君の方こそ、高校では成績優秀だと聞いているよ。うちの両親にしょっちゅう比較されては、君を見習えと焚き付けられて困っているくらいだ」
 穏やかな笑いを含んだ声が、耳に心地良い。
「おまけに少し見ない間に、まるで大人っぽくなったようだし。僕より年下とは思えないよ」
「そんな……」
 他の誰に誉められるよりも、従兄の言葉が最も心に響く。たとえ言われたことはほぼ叔父様と同じでも。私は頬に手を当てて、ほんのりとした熱さを自覚する。
 直後、
「その分だと高校では、さぞかし大勢から熱を上げられているだろうね」
 からかいの言葉が続いて、途端に頬の温度が下がった。まるで他人事のような口調だ。他人事、なのだろうけど。
「そんなことはありません」
 むっとするあまり、つい声が尖る。
「私、そういう人たちには興味ありませんから」
 私の物言いのきつさに、恭平さんは目を瞬かせていた。
「ああ……そうなのか。失礼なこと言ったかな。君くらいの歳の子は皆、そういう話題が好きなのかと思ってた」
「失礼では、ありませんけど」
「君にはまだ早いのかもな。恋愛とか、そういうものは。伯父さんもさぞ安心だろう」
 恭平さんはごく何気ない口調で言った。大人ぶった様子はちっともなかったけれど、逆に私が子どもだと無意識のうちに認められているような気がして、やけに引っ掛かった。
 確かに私は子どもだ。まだ十六だから。だけど恋愛に興味がない訳じゃない。私のことを好きだという男の子たちには興味ないけど、でも。
 それに、大体、恭平さんだってまだ子どものくせに。十八のくせに。
「恭平さんはどうなんですか」
 引っ込みがつかずに切り返す。
「恋愛に、興味がおありなんですか」
 私の問いに、彼が難しげな顔をする。
「いや、別に興味はないけど。あいにく縁もないし」
「ご縁があったら、興味をお持ちになるんですか」
「この先もないだろうから、考えたこともないなあ」
 まるで暢気な回答だった。ある意味とても恭平さんらしい。きっとそういう事態が本当に降りかかるまでは、何の備えもしておかないのだろう。恭平さんは穏和で人がよく、思慮深い。けれど思慮深さの裏返しのように、常に優柔不断だった。
「大学にはそういう人がいるかもしれませんよ」
 どうしてこんなことを口走ってしまったんだろうと、言ってすぐに思った。
「えっ?」
 従兄のぎょっとした面差しが滲む。気まずくなり、私は俯きながら続けた。
「父が……申しておりました。大学にはいろんな方がいるから、社会の縮図みたいなところなのだと。ですから恭平さんもそういう方々に揉まれて、直に男らしく、大人らしくなっていくだろうと。でも……」
 悲しくなった。鼻の奥がつんとした。
「……でも、恭平さんがそういうところで、酷い目に遭うかもしれないって」
 お正月早々、私はどうして泣いているのだろう。子どもだからと言って、泣けば何でも許される訳ではないのに。
「恭平さんが、悪い女の人に捕まったりしたら、私……」
 父は言った。大学とはそういうところなのだと。
 恐らくそれは父の実体験に基づくのだろうけど、大学にはいろんな方がいるものだと。高校までは子どもの通う学校だけど、大学には大人がいるのだと。大人は時に狡猾で、時に信用ならない生き物だ。害意を巧妙に押し隠すことも、笑顔の裏でしかめっつらをすることも、詭弁や口実を弄することも出来る。そういう方々の只中へと飛び込み、揉まれていくうちに、恭平さんも大人になるのだと――そう聞かされていた。
 私は恭平さんに、大人になって欲しくはなかった。ずっと子どものままでいて欲しかった。この部屋に入ることをためらわず、恋愛の話題なんて口にもせず、ただただ穏和で優しくあるような、そんな従兄でいて欲しかった。
 でも――。
「君は優しい子だよ、小春」
 晴れ着に合わせて結った髪、その上を温かな手がそっと撫でた。私が顔を上げると、すかさずびくりと引っ込められた。ぼやけた視界の向こうに光が揺らぐ。
「心配してくれてありがとう」
 恭平さんは、やはり穏やかな口調で言った。
「でも大丈夫だよ。大学なんて、君が思うほど怖いところじゃない。むしろ伯父さんのおっしゃるように、少し揉まれてこようかと思ってるくらいだ」
「そんな……」
「心配要らないさ」
 私の不安を遮るように、尚も続ける。
「僕は君ほど優秀ではないけど、それでも馬鹿ではないつもりだ。悪い人間とそうではない人間の区別くらいつくよ」
 本当だろうか。こんなにも人のいい恭平さんが? 思慮深さはあってもどこか頼りなげで、優柔不断でもあるような恭平さんが?
 もしかすると彼は、知らないのだろうか。私よりもずっと大人の狡さを知らないのだろうか。人は皆、自分と同じように穏和で、人がよく、思慮深いのだと思っているのだろうか。
「とりあえず、ほら。泣き止んでくれよ。僕が泣かしたんじゃないかって伯父さんに思われてしまう」
 彼がぎこちなく軽口を叩く。それで私は目元を拭い、溜息をついた。釘を刺すように言った。
「気を付けてくださいね、恭平さん」
「わかってるよ」
 明瞭になる視界の中、ほっとしたような笑顔が戻ってきた。

 恭平さんは、恭平さんだからいいのだ。覇気だの甲斐性だのは必要ない。穏和で、人がよく、思慮深い。それでいてどこか頼りなげで、思慮深さの裏返しのように優柔不断なところもある、そんな従兄だからこそいいのだ。変わらないでいて欲しい。ずっと二人で、この部屋でお正月を過ごしていたい。そう思っていた。
 けれど、私は違う。私の方が既に変わり始めている。二人きりでいることに緊張を覚えるようになった。大人の狡さに気付き始めた。恋愛がどんなものかを知っていた。子どもが単純に憧れているような、きれいなものでは決してない。
 まだ見ぬ存在にさえ嫉妬を募らせ、想いを伝えられない相手には独占欲を滾らせる。着るもの一つにさえ誰かのことを想い、そのくせそ知らぬふりで誉め言葉を待っている。恋愛とはそういう歪んだ、醜いものだ。
 恭平さんはそのことを、多分知らないままでいる。私は、だから伝えられない。どんなに醜い感情も、それを知らない人にわざわざ告げたいとは思えない。そのくらいならいっそのこと。

「大学に入ったら、一人暮らしをするつもりなんだ」
 話題を変えるように恭平さんが言った。
「そうしたら誰にも気兼ねなく、本を溜め込めるようになるしさ。あ、もちろん掃除もしなくちゃいけないけどね」
 おどけた言葉に笑いつつ、心の中で私は誓う。
 ――それなら私は、恭平さんを追い駆けよう。大学へ飛び込んでいって、うんと大人になってやろう。誰よりも狡猾な大人になって、他の誰にも取られないように恭平さんを独占してやろう。
「心配性の従妹がいるから、しっかりしなきゃと思ってるよ」
 我が従兄は未だ暢気だ。私のことを可愛い妹分だとでも思っているのだろう。
 こちらはいつまでも、従妹という立場に甘んじているつもりはない。


お題:Capriccio様 「交響曲第一番」
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