Tiny garden

愛と青春のスマイルクッキー

 先代の部長、あのおさげが似合っていたしっかり者の先輩は、卒業式では泣かなかったそうだ。
 ぶっちゃけそうだろうなと思っていたら、本人も笑って認めていた。
「泣くどころじゃなかったからね。大学も通ってたし、新生活に向けてとにかくわくわくしてた」

 先輩は辛く厳しい受験生時代も、大学に入ったらやりたいことをあれこれ妄想して乗り切ったらしい。
 その甲斐もあって今は素敵な女子大生だ。高校時代はおさげだった髪をばっさり切ってパーマをかけて、その隙間から覗く小さな耳には可愛いピアスが光ってる。ティーカップを持つきれいな指先は、ラインストーンで輝くフレンチネイル。何から何まですっかり大学生のお姉さんだ。

 一方の私はまだ高校生で、だけどどうにか受験生は脱したところだった。
「茅野さんも泣かないだろうね」
 今は状況報告も兼ねて、二人でカフェに入ってる。先輩の言葉に私は笑った。
「あ、私もそんな気がしてます」
「卒業したって幸せいっぱいだもんね。迷いも悩みもなさそう」
「えへへ……全く悩まなかったわけでもないんですけどね」
 私の卒業後の進路は決まっていた。
 大学に進学して、栄養士を目指すことに決めたのだ。
 まさかこの私が『家庭部』らしい進路を選ぶなんて、自分でも笑っちゃうほど意外に思う。だけど食べる物のこと、それを作ることを、もっと真剣に学んでみたくなった。お菓子作りはそれなりに覚えたけど、もっと範囲を広げて、いろんな食事について深く学んでみたかった。
「にしても、茅野さんが栄養学科ね……」
 先輩も唸ったので、私は笑いながら尋ねた。
「意外っすよね?」
「そうだね、正直に言って悪いけど」
 あんまり悪そうでもなく、先輩もまた笑う。
「でも、部長になってからの茅野さんしか知らない人はそうでもないって言うんじゃないかな」
「どうですかねー。後輩たちは確かに『さすが部長!』なんて言ってますけど」

 もっとも、私が家庭部部長であったのも既に過去の話だ。
 時は既に二月、冬の終わり。
 高校の卒業式まで、あと一ヶ月を切っていた。
 今の家庭部はとっくのとうに新部長を迎えている。ちなみに今年度は人選に全く手間取らなかった。要は『茅野先輩ができるなら難しくなさそう』みたいに思われているらしい。
 何にせよ、私が先輩から引き継いだ大役も、どうにか全うできたってことだろう。

「東京、いつ行くの?」
 紅茶を一口飲んでから、先輩が聞いてきた。
「三月末っす。四月一日から部屋借りるんで」
「そう……。荷造りとか、もう始めてる?」
「まあまあっすね。何せ一人暮らしとか初めてですから」
 春からの進学先は東京だ。転校の多かった私にとっては引っ越しも東京暮らしも初めてじゃないけど、一人となるといろいろ大変だった。
 もっとも、厳密には一人じゃないんだけど。
「向坂さんと同棲すればいいのに」
 先輩が相変わらず遠慮会釈なく言ったので、こっちの方が大いに照れた。
「いや、それは……何て言うか、重荷になりたくなかったんで」
 陸くんの進学先も東京の大学だ。
 だけどあちらは事情が違う。今年度のインハイ終了直後からプロのお誘いは来るわ、大学からのスカウトは来るわで大人気だった。一時期は毎週のようにそういう人たちと会う約束があって、さすがの陸くんもお疲れ気味だったようだ。最終的に、一番熱心に話を聞いてくれた大学への推薦入学を決めた。
 大学に入ってからも、陸くんはボクシングを続ける。
 私はそういう陸くんを応援したいと思っていたけど、同時に邪魔はしたくなかった。一緒に暮らしたら私の方こそ負担をかけることになるだろうし、お互い勉学が疎かになっても困るし――なんて柄にもないけど!
「向坂さんは一緒に暮らしたいって言わなかったの?」
「言ってました」
 実にいつもの陸くんらしく、『なら一緒に住むか?』なんてさらりと言われた。
 言われた方はさらりどころの衝撃じゃなかったのも、いつも通りだ。固い決意が一気に揺らぐくらいには衝撃的だった。
「結局、近くに部屋借りるってことで落ち着きましたけど」
 話し合った結果、そういうことになった。
 もちろん、向こうの生活に慣れたら一緒に暮らしたいねって話も出ている。大学を卒業してからになるかもしれないけど。
「三年になる頃には一緒に住んでそう」
 先輩は予言のようにそう言ったけど、私の予想とどっちが当たるだろう。
 まあでも、陸くんがそうしたいって言ったらしちゃうかもな。私だって傍にいたいのはやまやまだ。その時は勉学が手につかなくならないようにしないと。
「にしても、向坂さんは進学なんだね」
 先輩の次の言葉は少し意外そうだった。
「プロに行くんじゃないかって、私の周りでも噂になってたんだよ」
「うちのクラスでもそうでしたよ。先生方も、期待してたみたいで」
 だけど陸くんはかなり前から進学することを決めていた。ボクシングも続けたいし、勉強もしたいというのが彼の意思らしい。真面目な陸くんらしい選択だと思う。
「じゃあオリンピック目指すのかな」
 と、先輩は楽しそうに声を弾ませた。
「向坂さんなら、その活躍をいつかテレビで見られるようになるだろうね」
「なるかもしれないっすね」
 私も思う。すごく本気で、心から信じている。
 陸くん本人に『そうして欲しい』とは言わない。それも含めて陸くんが決めることだと思ってるからだ。でもその夢を叶えようとしているなら、頑張る陸くんを私はどこまでも応援するつもりでいる。
「そしたら茅野さんもテレビに映っちゃうだろうね」
 先輩がそう続けたので、それには首を傾げておいた。
「それはどうっすかね。陸くんが有名になっても、私が有名になるわけじゃないですし」
 だけど更に続いた言葉はうきうきと、
「でもほら、スポーツ選手の奥さんって結構取材受けてたりするじゃない」
「お、おく……!?」
「表彰台でメダル掲げる向坂さんを観客席から見つめる笑顔の茅野さん……何か、ありそうじゃない?」
 昔からそうだったけど、先輩はなかなか妄想力逞しい人だ。期待に目を輝かせている。
「そういう時でも茅野さんは泣かなそう。そんな気がするな」
 どうかなあ。
 涙もろい方ではないけど、陸くん絡みだとわかんないからな。

 先輩とは、カフェを出たところで別れた。
 別れ際に私は、手作りのクッキーを手渡した。
「これ、バレンタインには遅いですけど。受験生なんで乗り遅れちゃったんすよ」
 スマイル型に抜いたココアクッキーを、可愛くラッピングして持ってきた。本当は陸くんにあげる分だったんだけど、いっぱい焼けたのといい出来映えなのもあって、先輩にも是非見てもらいたかった。
 お蔭様でここまで作れるようになりました、って。
「ありがとう、美味しくいただくね」
 先輩はそう言うと、ちょっと感慨深げな顔をする。
「ホワイトデーのお返し、渡す暇あるよね? 東京行く前にもう一回くらい会える?」
「もちろんっすよ! 引っ越し先決まったら時間もできますし」
 私が力いっぱい頷けば、先輩はウェーブがかった髪を揺らしながら笑った。
「よかった。……でもどうしよう、茅野さんが東京行くってなったら私、寂しくて泣いちゃうかも」
「先輩が泣いたら私も泣くかもです」
「それはないでしょ、茅野さんなら」
「いやいや、先輩こそないでしょ」
 お互いに、別れ際だって泣く気がしない。
 結局、今日だってげらげら笑いながらお別れした。

 それから私は寒風に身を竦めつつ、まだ在籍している高校へと足を運んだ。
 今日は休日だけどボクシング部の練習があるそうで、陸くんはそこに顔を出しているらしい。クッキーのことと、先輩に会う約束のことを伝えたら、その後にでも学校で落ち合おうということになった。ちょっと遅れたけど、今日が私たちのバレンタインデーだ。
 私が学校まで辿り着いた時、陸くんは校庭をぐるりと囲むフェンスの前にいた。その向こう、寒々しい枝だけの桜の木の梢越しに覗く校舎を見上げているようだ。
「陸くん! ごめん、待った?」
 慌てて駆けよれば、振り向いた陸くんがたしなめるように苦笑する。
「走んなくていいって」
 そうは言いつつも、私を出迎える時にはすっかり笑顔になっていた。
「例の先輩といっぱい喋ってきたか?」
「うん、めちゃくちゃ喋った!」
 私が頷けば、陸くんまでどこか満足そうに目を細める。ワッチ帽にスタジャン姿の彼は、二月の風にも平然と、真っ直ぐに立っている。
 そうしてフェンスの向こうの校舎に視線を戻して、ぽつりと言った。
「もうすぐ卒業だな」
「そうだね……やっぱこの時期になると、しんみり来るね」
「まあな。別にやり残したことがあるわけじゃねえけど」
 私も多分、何もない。この高校でやるべきことは、もうほとんど済ませてしまった。残っているのはそれこそ卒業式くらいだ。
 そして卒業式も、やっぱり私は泣かないと思う。
「後悔したくねえな」
 校舎を見上げる陸くんが、静かに白い息をつく。
 私はその決意の横顔を隣から見つめていた。仲良くなりかけの頃は酷く大人びて見えた陸くんの顔は、今になってみれば歳相応だし、それでいてとても凛々しくて素敵だ。内に秘めた真っ直ぐな思いは、あの頃から何も変わっていない。
「させたくないな、後悔」
 何となくそう言いたくなって、言ってみた。
 そうしたら陸くんは驚いたようにこっちを見てから、ひょいと片眉を上げた。
「馬鹿。お前のことでは絶対しねえし、させねえよ」
 いつもながら、さらりとそんなことが言えるところも格好いい。
「うん、私も!」
 私だって負けてられない。

 漠然とだけど、思ってる。泣くなら寂しいとか、悲しいとか、怖いとかじゃなくて、嬉し泣きがいい。
 私は今まで嬉し泣きってしたことないけど――ないと思うから、これからの人生で次に泣く機会が来るのなら、嬉し泣きがいい。前みたいに陸くんのことが心配で泣くよりも、陸くんの頑張りを見届けて、それから泣きたい。もしかしたらそれはテレビに映るかもしれないし、遠く離れた先輩の目にも留まってしまうかもしれないけど、それでもいい。
 陸くんが決めた道を、陸くんが大切にしてるボクシングを、心から応援できる私でありたい。
 そう思うから、卒業式では泣かない。

「あ、そうだ。これ遅くなったけど、バレンタインの」
 私はスマイルクッキーを詰めた袋を、陸くんにも差し出した。
 彼は大きな分厚い手でそれを受け取り、嬉しそうに口元をほころばせる。
「ありがとな。開けてみていいか?」
 その問いに頷けば、陸くんは袋の口を閉じていたリボンを丁寧にほどいて、中から一枚取り出した。
 ココアクッキーは陸くんの指につままれ、にっこりと微笑んでいる。陸くんも同じように笑んでクッキーを見つめた後、口に放り込んでさくさくと食べた。
「お、美味いな。紅茶が欲しくなる」
「うちに来る? お茶入れるよ」
「ああ、お言葉に甘えるかな」
 陸くんはクッキーの袋を開けた時と同じように、丁寧に閉めた。
 その袋はスタジャンのポケットにしまわれて、代わりに別の小さな紙包みが現れる。陸くんはそれを私に手渡してきて、こう言った。
「ちょっと早いけど、ホワイトデーのお返しだ」
「ありがとう! 開けてもいい?」
 私が聞くと、陸くんも笑って頷いた。
 それで包みを破かないように開けると、中から現れたのはキーケースだった。つるりとしたエナメル加工の革製で、色は私の好きなネオンピンク。すごく可愛い。
「わあ、いい色! 向こう行ったら役立ちそうだね」
 新生活にばっちり役立つアイテムだ。喜ぶ私に、陸くんはにやりとしてみせる。
「そうだな。向こう行ったら合鍵渡すから」
「……合鍵?」
「要るだろ。なくさないように、そいつにしまっとけ」
「い、要る! すごく要る!」
 私はあたふたと頷いて、それから貰ったばかりのキーケースを両手でそっと握り締めた。

 私たち、これからもずっと一緒なんだ。
 その約束を形にしてもらったような、とても素敵なお返しだった。

「はあ……どうしよ、幸せすぎて顔緩んじゃうよ」
 すっかりふにゃふにゃになった私が思わず頬を押さえると、陸くんは私の顔を至近距離から覗き込んできた。鼻がくっつきそうなほどの近さにどぎまぎしていたら、
「心配すんな。それはそれで可愛い」
 またしてもさらりと! そんなことを言う!
 でも、そういうところがむしろ好きっていうか――ぶっちゃけ陸くんなら何でも、何もかも好き。
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