Tiny garden

春とハートとバニラクッキー

 久々に、家庭部でバニラクッキーを焼いた。
 今日は今年度最後の部活動の日で、引退された先輩がたを家庭科室にお招きした。我が部の先輩がたは皆さんとても優秀で、既に全員が進路を決めているらしい。なのでちょっと早いけど、卒業祝いと進学祝いの小さなパーティを開くことにした。
 どうせなら成長したところを見せたいと思って、私はあえてバニラクッキーを焼くことにした。夏頃は美味しくもなく見た目も微妙なクッキーしか焼けなかった私だけど、今は家庭部の現部長として恥ずかしくないものを出せるようになっていた。ハートの型を使って、見た目にも可愛くてふんわり軽いバニラクッキーが焼き上がった。

「あの茅野さんが、こんなに美味しいクッキーを焼くなんて……」
 家庭部の前部長は私のクッキーを食べた後、すごくわざとらしく目頭を押さえた。なんてわかりやすい嘘泣きだろう。
「そんな、泣かないでくださいよ先輩」
 私が声をかけると、まだおさげ髪の先輩はけろりとして笑う。
「そうだね。涙は卒業式まで取っとかないと」
 でも何となく、この人は卒業式でも泣かないだろうなという気がしている。高校生活の最後の最後までけろりとしてそうだ。
「にしても茅野さん、もう立派な部長さんだね」
 先輩は私の入れた紅茶も美味しそうに飲んでくれた。
「お蔭様で。その節は大変お世話になりました」
 お替わりを入れながら私が頭を下げると、先輩は意味ありげに微笑む。
「こちらこそ楽しかったよ。茅野さんの恋路のお手伝いもできたし」
「そ、その件もマジでお世話になりました!」
 先輩は私の恋のキューピッドだ。頭も上がらない。
「最近、向坂さんとはどう?」
 好奇心剥き出しで先輩が尋ねてきた時、私はどきっとした。
 でも、どきっとしたのは私だけではなかったらしい。その一瞬、家庭科室にはざわっと風が吹くような動揺が広がった。
 陸くんのことをこんなふうに弄ってくれるのは先輩くらいのものだ。校内の大半の人は未だに陸くんを恐れて、ついでに私のことも何だか怖がっているらしい。私は至って人畜無害の女子生徒だし、陸くんだって普通の男の子なのに。
 そう、本当に普通だ。
 私、陸くん以外の男の子のことよく知らないけど、多分。
「どうって……いや、普通に仲いいっすけど」
 とりあえず先輩の問いにはそう答えた。
「普通に?」
 先輩は目を細めて聞き返す。
「はい、普通に。喧嘩とか全然しませんし」
 陸くんは優しいから、今まで喧嘩なんてしたことない。私が馬鹿なこと言ってもたしなめたり、笑い飛ばしたりしてくれる。私もそんな陸くんと、ずっと一緒にいたいと思ってる。
 最近どう、って聞かれて正直に答えるならこんな感じでしょうか。これまで同様、普通に順調で、幸せです。
 まあ、ちょっとした変化はなくもないけど。
「……そう。何か進展あったんだ」
 先輩がさらりとそう言ったので、私が注いでいた紅茶はカップから逸れてソーサーの上にだばっと落ちた。
「し、進展? な、何のことっすかねえ……」
「茅野さん、零してる零してる」
 ばれてる。紅茶を零したこともそうだけど他にも。
「ラブラブなんだねえ、茅野さん達」
 何もかもわかってるって顔で頷く先輩と、その言葉を恐ろしげに聞く家庭部員達。
 私はソーサーになみなみと注がれた紅茶を見下ろし、そこに映る自分の顔としばらく見つめあった。
 顔に出てるなあ、超にやにやしてる。

 家庭部でのささやかなパーティが済んだ後、余ったお菓子は部員の間で分け合って持ち帰ることになった。
 私は自分で焼いたクッキーを包んで、持ち帰ることにした。
 言うまでもなく陸くんにあげる為だ。
 陸くんも今日は今年度最後の部活に出るそうで、帰りは一緒に帰ろうと約束していた。終わるのはいつも私の方が先だから、ボクシング部の部室まで迎えに行く。部室棟の一階、奥から二番目のドアがボクシング部だ。
「失礼しまーす」
 ノックしてからドアを開けると、中には陸くんと一年生の子達がいた。ミーティングの最中だったんだろうか、床の上に車座になって何か話していたようだけど、一斉に振り向かれた。
「早かったな、一穂」
 陸くんが笑う後ろで、一年生の二人がさっと立ち上がり一礼する。
「姐さん、いらっしゃいませ!」
「姐さん、お世話になってます!」
「こちらこそ、いつもお邪魔してます」
 私も頭を下げ返した。
 結局『姐さん』呼びは訂正する機会もないままだった。ぶっちゃけ私の方が既に慣れてしまったような気がしなくもない。いや、慣れるって言うのも変な話だけど、そう呼びたがってるならまあいいか、みたいな気持ちになってるのは確かだ。
「ミーティング中だよね? 外で待ってた方いい?」
 廊下を指差しながら尋ねると、陸くんは首を横に振る。
「いや、もう終わった。そこで待ってろ」
「うん、待ってる!」
 頷いてから、私は持ってきたクッキーの包みを軽く掲げた。
「そうだ、部で焼いたクッキーがあるよ」
 たちまち陸くんは嬉しそうに表情を和らげたけど、彼より先に反応した人達がいた。
「クッキー!?」
「姐さんが焼いたんすか!?」
 一年生コンビだ。
 目をきらきら輝かせたかと思うと私に駆け寄ってきて、
「うわあ、すっげえいい匂い!」
「空きっ腹に染み入るっす!」
 今度は鼻をひくひくさせて、バニラクッキーの匂いを堪能している。練習の後でお腹が空いているんだろう、私が持っているクッキーの包みから手で扇ぐようにして匂いを吸い取っては、うっとりしている。
「姐さんのクッキー、きっと美味いんだろうなあ……!」
「向坂さんからも伺ってます、姐さんの作るお菓子は最高だって!」
 二人が口々に言う後ろで、陸くんがちょっと顔を顰めるのが見えた。
 私もちょっと困りつつ、さすがにこう言わざるを得ない。
「……よかったら、少し食べる?」
「いいんすか!?」
 すぐさま食いつこうとした二人は、だけどすぐ我に返って恐る恐る振り返る。
 陸くんはそんな後輩達を一睨みした後、黙って私に近づいてきた。そして後輩達の怯えた視線を振り切るように、がっしりした腕で私の肩を抱いた。
「一穂、ちょっと来い」
「え、ええっ!?」
 半ば攫われるように部室の隅まで連れていかれた私に、肩を抱いたまま陸くんが囁く。
「お前、あいつらには遠慮なく言ってやっていいんだぞ」
 陸くんの声が耳元で聞こえる。
 こんな時に何だけど、どきどきする。
 陸くんの腕は温かくて、微かに汗の匂いがして、それもまた動悸の速さを倍増させた。
「遠慮なくって……?」
「餌づけするつもりはねえって言ってやれ。ったく、図々しい連中だ」
 呆れた様子で陸くんが溜息をつく。
 吐息がかすめる耳がくすぐったくて、私は思わず首を竦めた。
「で、でも、すっごく物欲しそうにしてるよ。いいの?」
「放っとけ」
 陸くんはそう言うけど、ちらっと振り返れば一年生くん達は揃ってお預け中の犬みたいな顔をしている。一度『少し食べる?』なんて聞いてしまった手前、やっぱあげないって言ったら泣かれそうな気さえする。
「勧めちゃったの私だし、クッキーいっぱいあるし……駄目かな?」
 私が尋ねると、陸くんは大人びた顔にものすごく複雑そうな表情を浮かべた。
「いっぱいあんなら、まあ……お前がいいならいいけどな」
 そこで私はボクシング部の一年生達にもクッキーを振る舞うことにした。
 したんだけど――。

 ボクシングに例えると一ラウンド一発KOだ、と陸くんは言った。
「瞬殺だったな」
「うん、あっという間だった……」
 一年生くん達にお裾分けしたバニラクッキーは、一分も経たないうちに彼らのお腹に収まってしまった。運動部員はまず一口が大きい。私が焼いたクッキーを一枚一枚じゃなく、一掴みって感じで口に運んでいく。一年生とは言え将来の大物感漂う見事な食べっぷりだった。
 そうして彼らがはたと気づいた時、ハート型のクッキーはほんの数枚になっていて、
「俺、何枚食えたっけな……」
 学校からの帰り道で陸くんがぼやくほどだった。
 その後の展開は言わずもがな、平謝りの彼らを陸くんが自慢の三白眼で厳しく睨み、一年生くん達が青ざめ震え上がっているのを見かねて私が割って入った。でも私も、陸くんには悪いことをしたと思ってる。
「ごめんね。陸くんの分、取っておけなくて」
 並んで歩きながら、私は彼に謝った。
 陸くんは苦笑いの一歩手前みたいな顔で広い肩を竦める。
「俺はいいけど……よくはねえけど、お前はよかったのか」
「私? なんで?」
「手間暇かけて作ったもんなのに、あんな無遠慮に貪り食われて」
 まあ、『貪る』という表現はあながち的外れでもない感じだった。
 でも運動部だもんなあ。お腹空いてたんだろう、きっと。
「別に嫌だったってことはないけど……」
 三月の放課後は風が強く、私は唇にかかる髪を指で払いながら歩いた。暦の上では春だ、なんて嘘みたいに寒い。坊主頭の陸くんはもっと寒そうだ。
「正直、ボクシング部員の食欲舐めてたなって思った」
「だろ。俺が三人いるようなもんだからな」
 それは確かにすごい。エンゲル係数がえらいことになってそう。
「次からは厳しく言っていい。あいつら、食いもんのこととなると見境ねえから」
 そう言ってから陸くんは気まずげに目を伏せる。
「いや、俺が言うべきだったか……悪かったな、一穂」
 責任を感じているのかもしれない。
 ボクシング部も三年生が引退して、今は陸くんが部長になっている。一年生くん達とは仲がいいようだけど、部活では仲がいいだけじゃやっていけない。時には厳しく接する必要だってある――うちの家庭部の前部長だってそうだった。
 私はまだその必要に駆られてないけど、いつかそういう日が来るのかもしれなかった。
「陸くんは悪くないよ」
 だから、私は笑い飛ばしておくことにする。
 こういう些細な出来事まで、陸くんが部長の責任を背負い込む必要なんてない。
「って言うか私ね、後輩くん達にも一度お礼がしたいなと思ってたんだ」
「礼? あいつらに、お前が感謝するような必要あったか?」
 陸くんは訝しげに眉を顰める。
 すかさず私は頷いた。
「だってさ、普通に考えたら『先輩の彼女』って微妙なポジションじゃない?」
 同じ部活でもなければ特にお世話もしてない。なのに敬語を使わなきゃいけなくて、気も遣ってくれてるであろう微妙な相手だ。
「でもあの二人は私のこと『姐さん』って呼んでくれて……いつも歓迎してくれて、ありがたいなって思うんだ」
 もちろん、二人が陸くんのことを心から尊敬しているからこそ、なんだと思う。
 それを差し引いても、嬉しいことだ。
 私と陸くんのことを純粋に、普通のカップルみたいに思ってくれてる人ってそんなに多くない。先輩と、一年生くん達と、それから海ちゃん――そんなものだ。クラスの子達からはまだ微妙な扱いを受けてるし、校内じゃすっかり遠巻きにされて、有名人になってる。だから『先輩の彼女』扱いが余計に嬉しいのかな。
「だから一度くらい、お礼しとかないとなって」
 私の言葉を、陸くんは少し意外そうな顔つきで聞いていた。
 そして聞き終わると、微かに笑ってこう言った。
「その気の遣い方、彼女ってか嫁みてえだな」
「えっ……よよよ嫁!?」
「何慌ててんだよ、一穂」
 慌てるよ! 急に何言うかと思えば! 陸くんの口から『嫁』って単語が出ること自体が何かもう、駄目だ。心臓が壊れる!
 酸欠状態で口をぱくぱくさせる私を、陸くんはおかしそうに笑う。
「そう思うと今日のも悪い気はしねえな。あいつらのこと、許してやるか」
 私達はまだ高校生だ。三月初めの今のところは、高校二年生だ。嫁とか、結婚とか、そういうことを具体的に考えられるほどの年頃じゃない。
 でも今の陸くんの言葉には思わず夢を見てしまいそうになる。
 いつか、そんな日が来たらいいなあって。
「けど、あいつらを餌づけすんのはこれきりにしとけよ」
 夢から覚めない私をよそに、陸くんはさらりと現実へ話を戻す。
「お前が連中の胃袋まで掴んだんじゃねえかって、こっちは気が気じゃねえ」
 胃袋を掴む、だって。
 夏頃までダメダメ家庭部員だった私にそんな言葉が向けられるとは、隔世の感ってやつ? ちょっと違うか。
「へへ……私、陸くんの胃袋は掴めたかな?」
 私が聞き返すと、陸くんはちらりと何か言いたげに私を見た。
 その直後、いきなり――ボクシングの部室でしたみたいに、歩きながら私の肩をぐいっと抱き寄せた。
「掴まれてんのは、胃袋だけじゃねえな」
 耳元まで顔を寄せた陸くんが囁く。
 かかる吐息がくすぐったい。陸くんの腕は温かくて、微かに汗の匂いがして、すごくどきどきする。
 はっきり言って私の方が、心臓掴まれちゃってる。
「り、陸くん、歩きにくいんだけど……」
「何でだよ。俺は肩しか掴んでねえだろ」
「だって顔近いし、耳くすぐったいし、どきどきするし……」
「じゃあ何だ、抱き上げて運んでやりゃ満足か」
 妙に楽しげに言われて、本気ではないかと私は慌てた。
「い、いやいや! それは無茶だよ、私重いから!」
「重くねえよ。こないだだって片手でいけたろ」
「わわわわ、急に何を仰るか!?」
「だから、何慌ててんだよ一穂」
 慌てるよ普通!
 つい二週間前のバレンタインデーの記憶が蘇ってきて、そうなると私はもう駄目だった。足がふにゃふにゃしてきて、もつれて転びそうになったところで、
「う、うわっ」
 とっさに――わざとじゃなく本当に偶然、やむを得ず、隣の陸くんにしがみつく。
「おっ……と。大丈夫か、一穂」
 陸くんも片腕で私を受け止めてくれた。
「う、うん、ありがとう……」
 三月らしい強い風が吹いていて、本当なら寒いはずなのに、陸くんに抱き締められると暖かかった。
 春が来たのかな、とぼんやり思う私の頭上、ぽつりと陸くんが言った。
「お前、今日もバニラの匂いがする」
「クッキー、焼いたからだよ」
「美味そうな匂いだ」
 その言葉に思わず顔を上げたら、陸くんは尖った犬歯を覗かせて笑う。

 さっきから心臓がすごくうるさいから、陸くんが食べてくれたらましになるだろうか――なんて思ってみても。
 食べられたってなくならないことくらい、もう知ってるんだけど。
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