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如月(2)

 冬らしいどんよりとした曇り空の下を、鳴海先輩のアパートまで急ぐ。
 先輩の為のフォンダンショコラはきれいにラッピングして、小さな紙袋に入れてあった。一昨年、去年とは違い、こうして約束をした上で届けに行けるのが、ささやかではあるけど幸せだった。
 でも来年以降は、もしかしたらチョコレートを贈らないかもしれない。どうも先輩はチョコ以外に欲しい物があるようだし、そもそも甘い物が苦手な人だ。私としても今年、普通の恋人同士っぽいバレンタインデーを過ごせたならそれで満足だから、来年以降は創意工夫を凝らして、より私たちらしい二月十四日を過ごせばいい。
 とりあえず今日は先輩の欲しい物を聞き出して、それがもし私に手の届く品だったなら、来年の贈り物にすると約束しておこう。そう思った。

 先輩の部屋のドアの前に立ち、前髪の乱れを整えてからチャイムを鳴らす。
 あいにくと先輩は留守のようで、二度鳴らしても反応どころか物音一つしなかった。もしかすると遅くなるかもしれないと言われていたから、私は合鍵を取り出し、自分で鍵を開け、ドアノブを回した。
 軋む音を立てながら重いドアが開き、小さな玄関とその左手にある台所の食器棚、それから真正面にある部屋がすぐに覗けた。机の上は今日もきちんと整頓されているのがここからでもわかった。
 懐かしい、と真っ先に感じた。
 四ヶ月ぶりになるのだろうか。前に来たのが、私の誕生日だったから。
「お、お邪魔します……」
 不在なのはわかっていても一応、声をかけておく。
 やはり反応はなく、私はそそくさと靴を脱いで上がり込む。タイツの足裏越しに床のひやっとする冷たさを感じた。
 先輩は朝から大学に行っているそうで、室内は外と変わりないほど冷え込んでいた。先に着いた場合は必ずストーブを点けて待っているように、と厳命されていたので、私は電気ストーブのスイッチを入れる。それからコートを脱いで畳み床に置くと、私も床に座った。
 物音はほとんどしない。ストーブだけが低い音を立てて動き始めていた。
 鳴海先輩の帰ってくる気配も、今のところはまだない。
 思えばこの部屋はいつも静かだった。隣にどんな人が住んでいるのか知らないけど、少なくとも私が訪ねていく時間帯に人の気配があったためしはなかった。それでなくても先輩の部屋にはテレビもオーディオもないから、二人でいても静まり返っていることさえよくあった。
 ただ二人でいる時とは違い、一人でいるとこの静寂が妙に寂しく思えてくる。
 しばらくは携帯電話でメール確認したり、鏡を見ながら唇の乾燥をチェックしたりしていたものの、そのうち手持ち無沙汰になってきた。私はうろうろと視線を巡らせ、次第に暖かくなってきた部屋の中を眺めてみる。

 もう何度となく通ったこの部屋にも目新しさなく、全てが見慣れてしまったものばかりだった。十月の頃と比較しても特に大きな変化はなかったし、夕方らしい薄暗がりの中でも正確に指差せるほど記憶の中に焼きついている。
 先輩お気に入りの本が行儀よく並んだ本棚、ぴたりと扉が閉じているクローゼット、散らかっているのを見たことがない勉強机――机上のラックには分厚い教科書や参考書、ファイルなどが直立の姿勢で並んでいる。机の右手側には白木の四角いペン立てが置かれ、先輩愛用のボールペンや鉛筆がおとなしく出番を待っていた。
 不意に、その机に向かってみたくなった。
 大学生の勉強机に純粋に興味がある。というのは建前で、いつも先輩が座っている椅子に座ってみたかったからというのが本音かもしれない。学校でもよく、放課後誰もいない頃合いを見計らって好きな人の席に座ってみるという話があるものだけど、私もそういう意味合いで先輩の席に座ってみたかった。思えばこの部屋には何度も通っているのに、私は先輩の机に向かったことも、椅子に座ってみたこともなかった。先輩もこの程度なら怒らないはずだ、多分。
 怒られたら素直に謝ろう。
 形だけ躊躇した後、私は背もたれにカーディガンがかけられた椅子を引いた。スカートのプリーツを気にしながら慎重に腰を下ろす。椅子の軋む音が短く響いた後、ゆっくり向きを変えて机に向かってみる。
「わあ……」
 思わず溜息が漏れた。
 先輩の机は広々としていた。デスクマットは細かな傷こそあったけど目立つ汚れもなく、消しくず一つ落ちていない。それでいて手を伸ばせばラックの教科書にも、ペン立てのペンにもすぐ手が届く。これだけ片づいていたら勉強も、書き物だってしやすいことだろう。私も大学生になれたあかつきには、机と部屋の整理整頓を心がけることにしよう。
 椅子の座面は思ったより高くて、私が座ると足の裏が床から離れた。でもこの高さは、先輩にはちょうどいいのだろう。私は不安定な気がして仕方ないけど、落ち着かない気分なのはそのせいだけではなかった。
 鳴海先輩はいつも、ここで勉強しているんだ。
 そう思うと何だかわくわくしてくる。もちろんここで、あの美しくも硬質な物語を書いたりもするし、先輩お気に入りの本を読み耽ったりもするのだろう。ここで私について考えてくれることも、たまにはあるだろうか?
 私は、椅子に腰かけて勉学に励む先輩の姿を想像しながら頬杖をついた。
 ついたけどすぐに、先輩はこんなだらけた格好はしないと姿勢を正す。鳴海先輩はもっと背筋が真っ直ぐだし、肘だってついたりしない。お腹に力を入れながら胸を張ってみたら、背中が背もたれにぶつかって音を立て、背もたれにかかっていたカーディガンが床に落ちた。
「あっ」
 私は慌てて席を立ち、落としてしまったカーディガンを拾い上げる。
 モノトーン好きの先輩らしく、これも黒一色の潔さだった。生地はウールのようで、随分と暖かそうだ。背もたれにかけ直そうとしてふと、袖の長さに目を奪われる。
 またしても気まぐれに、着てみたくなった。
 久々に先輩の部屋に来て、はしゃいでいるせいだろうか。あるいは寝不足の変なテンションというやつだろうか。私はもう迷うことなく先輩のカーディガンを羽織り、その袖や丈の長さ、暖かさを堪能した。
 背丈に合わせて買ったのかカーディガンはぶかぶかで、制服の上に着るとスカートの裾がわずかに覗く程度だった。袖も長くて手の甲まですっぽり隠れてしまう。しっかりと厚みも重みもある生地は確かに暖かかったし、そして先輩の匂いがするのが何だか、どきどきする。
 私が人知れずにやにやしていた時だ。急に外で人の気配がした。
 思わず玄関に目を向けると、鍵穴に鍵を差し込む音が響いた。一度どちらかへ捻った後、既に開いていたと気づいたのだろう。すぐに鍵は引き抜かれ、ドアが開く。吹き込む冷たい空気と共に、コートを着た鳴海先輩が現れた。
「お帰りなさい、先輩」
 玄関に入ってきた先輩に、私はすかさず声をかける。
 先輩は靴を脱ぎながら応じた。
「ああ。待たせたか? 遅くなって悪いな」
「いえ、そんなには……」
 私も答えかけて、ふと、まだ先輩のカーディガンを着たままだったことを思い出す。
 急いで脱ごうにも先輩は既に靴を脱いで部屋へ上がり、部屋の明かりを点け、机の傍に立つ私の姿をしげしげと眺めていた。
 やがて気遣わしげに問われた。
「寒かったのか」
「ち、違うんです、これは」
 否定してから、なぜ否定したのかと自分でも思った。先輩が言ったように、寒かったから少し借りていたとでも答えておけば不自然ではなかったはずだ。
 だけどこんな時に上手い誤魔化し方ができる器用さもなく、私は怪訝そうな先輩に打ち明けるしかなかった。
「その、ご、ごめんなさい。何と言うかつい着てみたくなったんです」
「は?」
 先輩は眉根を寄せた。正しい反応だと思う。
「何か、先輩の服だと思ったら着てみたくなって、あの、実はこっそり椅子にも座ってたんですけど、私、ここに来たのも久々ですしそれにあまり寝てないせいか浮かれてしまって、それで気分が盛り上がっちゃったって言うか……」
 私のしどろもどろの告白を、先輩は一応最後まで聞いてくれた。
 そして聞き終えた後、容赦なく言われた。
「意味がわからん」
「で、ですよね……」
 鳴海先輩は私の服を着てみたいとは思わないだろうし、私の机に座りたい、なんてことも考えなさそうだ。
 こうして考えると先輩の留守中に繰り広げられた私の数々の奇行はいささか変態じみているようにも思える。急に罪悪感が湧き起こり、私は改めてカーディガンを脱ぐ。
「寒いなら着ててもいいぞ」
 だけど先輩は、私が脱ごうとするのを制止した。
「制服だと冷えるだろう。部屋がちゃんと暖まるまで、そうしているといい」
 こんな時に優しい言葉をかけられると困る。
 嬉しいのに気まずくて、自分のしたことが恥ずかしくなる。それでいて、先輩が好きだ、と思う。もう何度目になるかわからないほどの実感を、改めて噛み締めてしまう。
 私がカーディガンを着直すのを確かめてから、先輩は部屋を出ていった。どうやら手を洗いに行ったようだ。私はさっきまで座っていた椅子の位置を戻してから、そわそわと床に座る。
 この部屋に来るのは久し振りだった。それ自体はずっと認識していたけど、いつ以来か、という点だけはこれまでなるべく考えないようにしていた。
 だけど、やはり無理だった。
 私の誕生日、あの日以来の訪問だ。それこそ変なテンションになってしまうのも無理はないと思う。別におかしな意識をしているつもりはないけど――思い出してしまいそうになる。

 先輩が部屋に戻ってきたタイミングで、私は紙袋を差し出した。
「これ、チョコレートです。受け取ってください」
 鳴海先輩は黙って紙袋を受け取ると、中をちらっと覗いた。それから中身を取り出し、座卓の上に慎重に並べた。
 紙製のカップに入れたフォンダンショコラを、レース柄のついた透明な袋に一つずつ入れ、口を細いリボンで縛っておいた。リボンは全て色違いで、水色とオレンジとピンクの三色。つまりフォンダンショコラも三個分だ。
 ビターチョコレートで作ったフォンダンショコラは、先生にあげたものよりもやや濃い目の焼き色をしていた。それだけだと焦げたように見えてしまうから、上から真っ白い粉糖を振りかけた。ひびやへこみのカバーにもなって、見栄えはぐんとよくなったと思う。
「ありがとう。いい出来だな、店で売っているものみたいだ」
 袋の一つを手に取って、先輩が唸る。
 感心されたようだ。私は心から喜んだ。
「皆で作ったからだと思います。わからないところは教えてもらったりして」
 クラスの女子が十人も揃えばお菓子作りが得意な子、計画立てて考えるのが上手い子、道具の扱いに慣れている子などいるものだった。私もお菓子作りは初めてではなかったけど、一人で作ったらここまで手の込んだ品にはできなかっただろう。
 黙って袋をためつすがめつする先輩を、私はいそいそと急かす。
「味もすごく美味しいですよ。是非食べてみてください」
「そうするか」
「それと、温めてから食べるのがお勧めです」
「わかった」
 すると先輩は袋を手に立ち上がった。温めるついでにお茶も入れるつもりのようで、台所からやかんに水をいれ、火にかける音が聞こえてきた。
「お前は紅茶でいいか?」
 先輩は台所から私に尋ねる。
「はい。お願いします」
 私は床に座ったまま返事をして、お湯が沸くのを待っている。これから私たちはバレンタインデーらしい時間を過ごすのだと思うと、緊張もするし、落ち着かなくなるし、余計なことまで考えてしまいそうだ。
 世間一般の恋人同士は、一体どんなふうにバレンタインデーを過ごすものなのだろう。
 やっぱり、チョコと一緒に、私をプレゼント――とか。
 ぱっと浮かんだ考えに、自分で焦った。
 大急ぎで頭の中から追い払う。何を考えているのだろう、そんなことを私が言い出したところで様になるはずがない。いや、格好つくかつかないかという問題でもない。鳴海先輩だって言われても困るだろう。馬鹿げたことを言う奴だと真っ赤になって叱られるか、あるいはプレゼントの意味がわからず受け流されるかのどちらかだと思われる。
 恐る恐る向けた視線の先、台所に立つ先輩の背中はいつもと変わりがない。ことさら緊張しているふうではないし、むしろ落ち着き払っているように見える。私みたいに余計な想像を巡らせたり、思い出したりはしていないようだ。
 こんな気分はきっと、寝不足や浮かれすぎのせいだろう。私はカーディガンの袖から覗く自分の指先を見つめつつ、自分を戒めておく。
 目下のところ、私はまだ受験生だ。
 バレンタインデーの雰囲気に酔いしれてふわふわしていられる立場ではない。
 私が自らを戒め、堅く拳を握り締めた直後、先輩がカップを二つ持って戻ってきた。それを座卓に置いてから、もう一度台所へ行き、今度は小皿を二枚とフォークを二本運んでくる。小皿の上には温め終わったフォンダンショコラがそれぞれ載っていた。
「チョコレートを食べるのもいつ以来だろうな」
 そう呟く先輩は、座卓の前に座るとフォークを手に取った。
 それから小皿の上で待ち構えるフォンダンショコラにフォークを入れる。やや硬い感触の生地断面からチョコレートクリームがとろけ、溢れてくるのを物珍しげに観察してから、生地を小さく切りクリームを絡めて口に運んだ。
 一連の動きをじっと注視する私を見て、そこで口元を綻ばせる。
「心配するな。味も悪くない」
 先輩がお菓子を食べて、肯定的な発言をするとは。私は驚いたけど、先輩はその驚きが不満だったのか、むっとした様子で続けた。
「どうして驚く。俺の好みに合わせて作ってくれたんじゃないのか」
「そうです、でも、一応チョコレートですからどうかなって」
「別にそこまで嫌いなわけじゃない。甘ったるくなければな」
 言いながら先輩はフォークで、もうひとかけらを拾ってまた食べた。その後に浮かんだのは満足げな表情だった。
「このくらい苦い方が好みだ。香りだけでも十分甘いから、味は甘くなくていい」
「へえ……そうなんですか」
 どうやら鳴海先輩は、チョコレートの香り自体は嫌いではないらしい。甘い物が駄目というだけなのだろう。三年目にして実に有益な情報を得た。これは覚えておかなければ。
 先輩の為に作ったフォンダンショコラは、私には少しほろ苦かった。それでも紅茶と一緒に味わうと、どちらも香り高くて幸せな気分になれた。
「来年も作るつもりなら、こういう甘くないものにしてくれ」
 先輩は一個を素早く平らげた後、まだラッピングを解かれていない残りの一個を手に取った。そのまましばらくにらめっこをしていたので、今食べようか食べまいか迷っていたのだろう。そこまで喜んでもらえるとは思わなくて、私もうきうきと答えた。
「はい。是非そうします」
 だけど答えてから、そういえばと思い出した。来年はチョコを作らないかもしれない、と考えていたことを。
 鳴海先輩は逡巡の後、ラスト一個のフォンダンショコラを取っておくことにしたようだ。冷蔵庫にしまいに行き、帰ってきたところで、私はかねてからの疑問を口にした。
「先輩、先輩の欲しい物って何ですか?」
「欲しい物?」
 おうむ返しの先輩は怪訝そうだ。目を瞬かせている。
「この間の電話で言ってた話です。バレンタインに欲しい物があるって」
「……ああ」
 ぴんと来たのか、先輩は軽く顎を引いた。
「来年はチョコレートの代わりにそれにしてもいいかなって、思ってたんです。もしよかったら、今のうちに教えてくれませんか。検討します」
 私は畳みかけるように催促した。
 すると先輩は唇を結び、しばし黙った。表情からは考え事をしているのか、それともためらっているのかはわかりかねた。でもどちらにしても、穏やかな顔つきに見えた。
 やがて呟くようなトーンで答える。
「いや、欲しいのは物じゃない。お前がいい」
 一瞬、心臓が跳ねた。
「わ……私、ですか?」
 私の動揺とは裏腹に、先輩は至って静かに、そしてしみじみと語る。
「そうだ。来年の今日もお前が傍にいてくれたら、それだけでいい」
 そういう、意味ですか。
 納得しつつ、自分の考えの浅薄さに顔から火が出る思いをしつつ、先輩のその言葉は心に響いた。好きな人にそこまで言ってもらえるなんてとても光栄で、幸せなことだ。鳴海先輩がそういった内心を打ち明けてくれるようになったのも嬉しい。私は先輩についてならいくらでも知りたいから、考えていることも今の気持ちもその他の細部に至る情報もどんどん教えて欲しいと思う。
「私でよければ……」
 誤解の余韻からか多少の恥ずかしさはあったけど、私は張り切って答えた。
「ずっと傍にいます。むしろ私、絶対に離れませんから」
 鳴海先輩は軽く目を瞠った後、わずかに頬を赤らめた。でも目は逸らさなかったし、次の言葉もはっきりと聞こえた。
「離すつもりもない」
 声の強さと真っ直ぐな眼差しに、今度は心臓が止まったかと思った。
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