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如月(1)

 二月の初め、私は大学入試の前期日程に挑んでいた。
 試験当日はそれなりに緊張もしたし、それでなくても冷え込みの厳しい時期だから鉛筆を持つ手が時々震えた。試験会場は事前に仕入れた情報通り、暖房が控えめだったので、試験官の許可を得て膝掛けを持ち込んだ。
 もちろん、鳴海先輩からクリスマスに貰った、あの膝掛けだ。お守りとしてもこの上なくご利益が期待できそうだった。
 それだけではなく、携帯電話の待ち受け画面も先輩の画像にした。文化祭の時に撮らせてもらった帽子屋さんの写真だ。受験会場では携帯を預けなければいけない決まりなので、会場へ向かうまでの道すがら、私は時々携帯を取り出しては先輩の大変素晴らしく格好いい姿を眺めた。これはご本人からは『あの写真はやめろ』と反対されていたことなので、内緒にしておかなければならないけど。
 本物の合格祈願のお守りも携え、私は試験に挑み、そしてひとまずは無事に試験を終えた。
 あとは結果を待つばかり。まだ気は抜けない時期だけど、どっしり構えて合格発表を待ちたいと思っていた。
 思っては、いた。

 前期試験が終了した翌々日、私は鳴海先輩に電話をかけた。
 試験が済んだことの報告と、来週に迫ったバレンタインデーについての詳細を連絡しておきたかったからだ。
 ところが軽く挨拶を済ませた直後、私が用件を口にする前に、先輩が言った。
『どうした、雛子。調子が悪そうだな』
「な……何でわかったんですか」
 ろくに会話も交わさないうちからの指摘に私はうろたえる。
『声を聞けばわかる』
 先輩は事もなげに答えた。
「そんなに、わかるものですか」
『これだけ長く聞いていればな』
 まるで当たり前だと言わんばかりの口調だけど、話し始めのほんの短いやり取りでわかるなんて、すごい察知力ではないだろうか。愛を感じる、ってこういうことなのかもしれない。
 私が思わず幸せを噛み締めていると、先輩もそれを察知したのか続きを急かしてくる。
『それで、どうしたんだ。風邪でも引いたのか』
「いえ、そうじゃないんです」
 実際、あまり調子はよくなかった。
 と言うより寝不足だった。
「実はあんまり寝ていなくて……。昨日、一昨日と寝つけなかったんです」
 前期試験が終わった開放感も、思っていたより感じられなかった。
 試験は手ごたえもあったし、これまでの勉強の成果は発揮できたように思えた。帰宅して、持ち帰った問題冊子で自己採点を済ませた。それが正しければ十分に合格圏内だったし、もちろん鵜呑みにして油断するのはよくないだろうけど、過度に不安がる必要もないはずだった。
 だけど気持ちは落ち着かない。
 早く結果が知りたかった。でも結果を知るのが怖くもあった。もし万が一、自己採点にミスがあったらと思うと途端に心が騒いだ。私が感じた手ごたえもただの気のせいだったら、問題を一つ二つ見落としていたりしたら、もし受験番号を間違えていたら、と今回ばかりは弱気な想像ばかりが働いた。
 合格発表は二月の最終週で、まだ三週間ある。そんなに待っていられない。でも、当日になったらきっと臆病なうさぎのようにびくびくしていることだろう。
「試験、上手くできたと思うんです。自己採点が正しければ」
 私の言葉に、先輩は軽く鼻を鳴らした。
『なら、気楽にしているといい。今から身構えていたら発表当日まで身が持たんぞ』
「私もそう思ってはいるんですけど」
『何にせよ、睡眠はきちんと取るべきだ』
 鳴海先輩は言い聞かせるように続ける。
『ここまで来たらややこしいことは考えるな。今のうちに少し休んでおくといい』
 先輩の言うことはもっともだ。試験が済んでしまってからあれこれと不毛な想像をめぐらせるのは不健康だし、今の私には何よりも十分な休息が必要だろう。しかし休もうにも、頭の方が上手く休む態勢に入ってくれないのだから困る。
 あと三週間、一体何をして過ごせばいいのだろう。今日の段階ですらこんなにもぐるぐるしているのだから、これから何も手につかない日々がしばらく続きそうだ。いっそ今から発表当日まで時間を早送りできたらいいのに。
「なるべく、そうします」
 私は本心からそう答えた後、近々の予定で唯一とも言える楽しい行事に言及することにした。
「ところで先輩、バレンタインデー当日はお暇ですか?」
『夕方なら空いている』
 間を置かずに答えた先輩は、その後でこっそりと言ってきた。
『先に確かめておきたいんだが、贈り物はチョコレートでなければいけないという決まりはないはずだ。差し支えなければ、俺は甘い物じゃなくてもいいからな』
 バレンタインデーにチョコレート以外の物を贈るのも別に珍しいことではないはずだった。各種店舗で繰り広げられるバレンタイン商戦ではチョコ以外にもネクタイやワイシャツ、腕時計などもよく取り上げられているようだ。しかし私が鳴海先輩にネクタイを贈るのはまだ尚早だろうし、先輩は愛用の腕時計を持っているから、新しい物を買って贈る必要もないだろう。何よりバイト禁止の高校生にはまともな贈り物を購入する為の、予算の捻出が難しい。
「じゃあ、先輩は何か欲しい物とかありますか?」
 それでも一応尋ねてみたら、先輩は言葉に詰まったようにゆっくり答えた。
『な……くはない。一応、ある』
「だったらそれ、教えてください。チョコのおまけに買ってきますから」
『……いや、いい。やめておく』
 なぜか言いよどんだ先輩を、私は訝しく思う。一体どういうことだろう。
 ただ、相手の言葉に引っかかったのはお互い様のようだ。先輩はその後、慌てたように尋ねてきた。
『しかしお前は、チョコレートはどうしても用意する気なんだな』
「やっぱり基本は外せないかな、と思いまして」
 バレンタインデーにチョコレートなしというのも何だか寂しい気がする。ネクタイだの何だのという品々を贈るのはもっと大人になってからでもいいだろうし、今年は高校生らしく、チョコと真心をプレゼントするつもりでいた。先輩の欲しい物も気になるところだけど、教えてもらえないのでは用意もできないし。
「それに、友達と約束しているんです。皆で一緒に作ろうって」
 バレンタインを前に、クラスの友人たちと久々に集まる予定だった。
 元々は何人かで、一緒にチョコレートを作ろうと約束をしていたのだけど、そのうち一人が『卒業前に先生にお礼をしよう』と言い出して、担任の工藤先生あてに皆でチョコレートを作り、持っていこうという話まで出た。そうなると参加希望者もどんどん増え、この時期に予定の空いているクラスの女子が一堂に会して、チョコ作りと先生への贈呈式に臨むこととなった。
 ちなみに作るメニューは相談の上、フォンダンショコラと決まっている。見た目もスマートで素敵だし、食べる時に温めればいつでも美味しく食べてもらえる。工藤先生には奥様がいらっしゃるので、ご夫婦で召し上がっていただけるようたくさん持っていくつもりだった。
 そしてたくさん作るついでに、各自で食べる分、持って帰る分などを作ってしまおうという試みでもある。私は鳴海先輩と父に贈る分を作るつもりでいたし、彼氏にプレゼントするという子、特にあげる相手もいないから自分用のおやつにするという子、卒業式を控え、長らく思いを寄せてきた男子にあげようと張り切る子などなど、皆の思惑は様々だった。
「もちろん先輩には、私が作った分をプレゼントしますから」
 私が告げると、先輩は溜息をつく。
『お前の作った物なら食べないわけにはいかないな』
「ありがとうございます。先輩ならそう言ってくれると思ってました」
『ただし、少しでいいからな。お前が一緒に食べてくれるというなら話は別だが』
「それもいいですね。一緒に食べましょうか」
 私だって鬼ではないし、鳴海先輩を甘い物攻めにして悲鳴を上げさせたいわけでもない。要はそれらしい過ごし方ができればそれでよかった。バレンタインデーにチョコレートを作って、先輩のところに持っていって受け取ってもらえたら、あとは一口でも食べてくれればそれで十分だった。
『それなら十四日は、俺の部屋に来るか?』
 先輩の提案に私は即答した。
「はい。お邪魔します」
『わかった。先程も言ったが、俺は夕方なら空いている』
 私は十四日、クラスの皆と一緒に東高校へ出向く予定となっていた。工藤先生にチョコレートを渡しに行く為だ。その後で先輩の部屋に行けば、時間的にもちょうどよさそうだった。もし暇ができたら、久し振りに文芸部の部室でも覗いていこう。
 こちらの予定を伝えると、先輩も納得したように応じた。
『もし俺の方が遅くなっても、部屋に入ってていいからな』
「そうします」
『それから十四日までに、少しは元気になっておけ』
 先輩は更に、そんな忠告を口にした。
『お前は十分に力を発揮できたんだろう。それなら大丈夫だ、自信を持て』
 鳴海先輩に励まされると、何だか嬉しくて仕方がなくなる。
 私は元より単純にできている人間なので、それだけで多少立ち直れたような気がした。無意味にくよくよしていても非生産的だし、試験結果が変わるわけでもない。ともかくもバレンタインデーまでに元気になっておかなければ。

 しかし前向きになったところで、合格発表までの三週間は相変わらず長かった。
 長すぎた。
 大体どうして三週間もかかるのだろう。選挙だって即日開票して、その日のうちに当選者がわかったりするものなのに、大学入試の待ち時間たるやもはや拷問である。いっそ入試でも即日採点、即日合格発表をしてくれたらこんなにありがたいことはないのに――と明後日の方角に不満をぶつけたところでどうしようもなく、私はそわそわと落ち着かない、歯がゆい日々を過ごしていた。
 そしてそれは私に限った話ではなかった。バレンタインを前に集合したクラスメイトのうち、受験組の面々は漏れなく私と同じ悩みや思いを抱えており、お菓子作りをしながらもぼそぼそと不安や恐れを打ち明けあう羽目になった。
 私だけではない、と現実は安心感と共に、どうしようもない絶望感をも抱かせる。私たちはどう足掻いても合格発表までの長い長い日々をやり過ごしていかなければならず、あっという間に日付を飛ばしてくれる科学も、鬱屈とした時間を忘れさせてくれる魔法も現実世界には存在しない。ただひたすら耐え忍ばなければならないのが憂鬱だった。
 ともあれ不安や恐れをしきりに口にしていようと、いくら憂鬱な気分でいようと、皆とレシピ通りに作ったフォンダンショコラは実にいい焼き色をしていた。チョコレートソースを中に入れて焼いたので、割って食べると上手い具合にとろりとしていて大変美味しかった。
 鳴海先輩の分はビターチョコレートをベースに作ったので、少し苦味が強く香り高い出来栄えだった。
 果たして先輩がどんな感想をくれるか、楽しみなような、わかりきっているような。

 二月十四日、私はクラスの女子たちと校門前で待ち合わせ、工藤先生にチョコレートを渡しに行った。
 前もって訪問を連絡していたはずだけど、先生は現れた女子たちの人数と持参したチョコレートの数に驚いていた。それでも大変嬉しそうに受け取ってくれたし、私たちが手短に述べた感謝の言葉にもいたく感激していたようだ。逆にクラスメイトの中にも感極まってか泣き出してしまう子もいて、私も今日こそ泣きはしなかったけど、卒業式では泣いてしまうだろうなとおぼろげに予感を覚えた。
 その卒業式まで、気づけばあと一ヶ月を切っていた。
 チョコ贈呈式を終えてクラスメイトと別れた後、私はぶらぶらと校舎を歩いて文芸部の部室を目指した。鳴海先輩との約束までは少し時間があったし、何となく見て歩きたい気分にもなっていたからだ。三年生は既に自由登校となっていたので、校舎をうろつくだけでもわくわくしたし、東高校の制服を着ているのも新鮮な気分に感じられた。三年間お世話になっただけあって、何もかも見慣れていて、目新しさなんてなかったはずなのに。
 どうやら放課後に入ってすぐの時分らしく、図書室と部室がある廊下は無人で、静まり返っていた。部室のドアも鍵がかかっており、まだ誰も来ていないようだ。私は閉じたドアに寄りかかり、少しだけ待ってみることにする。
 数ヶ月前までは自由に入れた部室も、すっかり私の場所ではなくなっていた。
 それどころかもうすぐ、この校舎自体が私の居場所ではなくなってしまう。そこかしこにひびの入った壁も、鍵を開ける度に嫌な音がする建てつけのよくない窓も、歩くと上履きの底がぺたぺたと鳴る、ラインの引かれた廊下の床も、もうじき見納めだ。そう思うと無性に寂しくなった。
「あっ、部長! ――じゃなかった、柄沢先輩!」
 不意に、低い男の子の声がした。
 聞き覚えがないような気がして顔を上げれば、廊下の向こうから有島くんが駆け寄ってくるのが見えた。会うのは二ヶ月ぶりくらいだっただろうか、顔つきは記憶にあるもののままだった。
 ただ、声が違っていた。以前はボーイソプラノの、男子にしては少し高めの声だったのに。
「来てたんですか。あ、もしかしてバレンタインだからですか?」
 そうして私の前に立つなり、期待に満ちた眼差しを向けてくる。
 私は笑いながら、持参したドーナツの箱を差し出した。
「チョコじゃなくてもよければどうぞ。荒牧さんと二人で食べてね」
「ありがとうございます、いただきます!」
 有島くんは恭しくドーナツを受け取る。
 言われてみればバレンタインデーなのだし、後輩たちへの差し入れもチョコでもよかったのかもしれない。でも私の中では鳴海先輩の影響か、どうしても差し入れイコールドーナツ、という公式が成立してしまっている。先輩がドーナツを買ってくるのは私の甘い物好きを考慮してと、あとは駅前に大きなお店があるからだろうけど。
「有島くん、声変わったね」
 私は一番気になっていた点を彼に尋ねた。
 すると有島くんは男の子らしくはにかんで、
「そうなんです。渋い声になってきたと思いません?」
「なったなった。ダンディだね」
「少し喉痛いんですけどね。初めは風邪かなと思ったくらいで」
 そう話す有島くんの口調は以前と変わりなくても、声は低く、かすれたようになっていた。時は確実に流れ、進んでいるのだとしみじみ実感する。
 それにしても、つくづく男の子って不思議だ。早い子だと小学生のうちからもう声が低くなっていたりして、聞く方も何だか慣れない気分になったものだけど、自分の声が変わるのに違和感はないのだろうか。
 鳴海先輩は初めて会った時から既に低い声をしていたけど、先輩だって昔はかつての有島くんのようなボーイソプラノだったのかもしれない。その頃の、インバネスコートが似合いそうな紅顔の美少年だったであろう先輩にも、会ってみたかった。
「部長はちょっと痩せました? 何か、雰囲気変わった気がします」
 もう私は部長じゃないのに、有島くんはその呼び方が抜けないようだ。
「痩せたって言うか、やつれたのかも。前期日程が先週終わったばかりなんだ」
 私が答えると、彼は同情半分、明日は我が身という絶望感半分の顔つきになる。
「ああ……お疲れ様です。合格発表はまだ先なんですよね」
「うん。待つのも辛いの、すごく」
 東高校は一応進学校なので、有島くんも荒牧さんも来年の今頃は受験生なのかもしれない。その頃までに即日採点、即日合格発表が実現していたらいいだろうけど、まず無理か。
「いい結果が出るよう祈ってます」
 有島くんにも励ましてもらったので、是非とも母校にはいい報告がしたいと思う。先輩にも自信を持てと言われていたし、ここはできるはずだと思い込んでおく。
「そういえば、荒牧さんは?」
 私は新部長についても尋ねてみた。彼女とだってもう二ヶ月会っていなかったし、できれば顔を見ていきたかった。
「荒牧は今日、特別教室の掃除当番なんです」
 有島くんはそう答えた後、携帯電話を開いて時刻を確かめたようだ。
「あと二十分くらいで来るんじゃないかな。部室の鍵開けますから、中で待っててください」
 そして学ランのポケットから鍵を取り出そうとしたので、私は慌てて言った。
「ごめんね、それほど時間はないんだ。あと少ししたら行かないと」
 本当は部室にも入れてもらいたかったけど、鳴海先輩との約束がある。二十分も待っていたら遅くなってしまうし、その後も何だかんだで話し込んでしまいそうだ。また今度、時間の余裕のある時にしようと思った。
「え、そうなんですか」
 残念そうにしてくれた有島くんにも申し訳ないけど、また来ればいいのだし、今日のところはお暇することにした。
「また来るよ。卒業まではまだ日もあるし」
 次はできれば、合格報告のついでにと行きたいところだけど。私の言葉に有島くんも頷いた。
「お待ちしてます。荒牧もすごく、部長に会いたがってたんで」
 そう言ってから彼ははっと気づいたようで、急いで付け加えた。
「いや、今の部長は荒牧ですよね。すみません、まだ慣れなくて」
「わかるよ」
 私は私で、有島くんの低くなってしまった声にまだ慣れない。
 でも慣れようが慣れまいが時は流れ、進んでいくばかりだ。
 合格発表を待つ日々にだっていつかは終わりが来るのだろうし、後でこの不安なひとときさえも、懐かしく思う日が来るのかもしれない。

 名残惜しさはありつつも、私は有島くんに別れを告げ、部室の前から立ち去った。
 生徒玄関ですっかり足に馴染んだ上履きを脱ぎ、靴箱にしまう。それからふと、この上履きを履くのもあと少しなんだ、と実感が込み上げてきた。
 早く合格発表の日が来て欲しいと思う反面、卒業までの残り時間を意識して、物寂しい気持ちも覚えた。

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