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如月(3)

 鳴海先輩は私に、素直な言葉をくれるようになった。
 私にとっては、先輩が私に本音を語れるほど気を許してくれていることも、先輩の本音が聞けることそのものも、とても嬉しい。幸せだった。まだ平気な顔で受け止められるほどではないけど、むしろどぎまぎしすぎて心臓に悪いと思っているけど、それ自体が悪いことだとは思っていない。もっと、いくらでも言って欲しい。聞いてみたい。
 同時に、先輩にも私の気持ちを知って欲しかった。私は先輩よりははるかに素直な人間だと思うけど、それでも私なりに恥ずかしかったり、言いにくかったり、語彙が貧弱なせいで上手く言えなかったりすることがよくある。もっと上手に、わかりやすく伝えられたらいいのに。
 私は、先輩が好きだ。
 だけどもう、好きという言葉一つきりでは足りないような気もしていた。

「……あまり、こっちを見るな」
 私が見つめていたからだろう、先輩が軽く睨んできた。
 あれだけのことを言っておきながら見るなとは無理な注文だ。それでなくても私はいつだって先輩を見ていたいし、見ているだけで幸せでちっとも飽きないくらいなのに。
「駄目ですか? きっと減るものじゃないですよ」
「いいや。そんなに見られては穴が開く」
 冗談とも本気ともつかない口調で返された。
 だけど私は今日まで、欠かさず鳴海先輩を見つめ続けてきた。穴が開くならもっと早く開いていなければおかしいし、開いていないということは、きっと見続けていても平気なのだろう。
「目で、伝えようかなって思ったんです」
 恥ずかしい台詞のような気がしたので、私はあえて軽い調子で言っておく。
「何をだ」
「言ったら目で伝えたことになりません。それは、先輩が読み取ってください」
 そう告げた後、私は唇を結んで先輩を見つめ直した。
 先輩も座卓越しに、私の目を覗き込むようにこちらを見た。
 初めは興味深そうに、純粋に意図を知りたいという様子だった。だけど次第に気まずげになり、何度か目がうろたえるように泳いだ。思案に暮れているそぶりも途中途中で窺えた。
 いくらかの時間、私を見つめ返し続けてから、やがて先輩は両手を挙げた。降参のポーズだ。
「わかった。わかったから、あまり見るな」
「本当にわかりましたか?」
 私が確かめると、先輩はゆっくり頷き、わざとらしくしかめっつらを作ってみせる。
「ああ、十分伝わっている。だからもう見なくていいぞ」
「私は先輩を見ていたいんです」
「本当に穴が開きそうだからやめてくれ」
「大丈夫ですよ。今まで開いたことなんかないですよね?」
「いや、ある」
 大真面目に断言されたから、私はびっくりして口を開けかける。どこに開いたんですか、と質問しようとしたけど、それより早く、
「こう見えても忍耐力は脆い方だ」
 先輩は、今度は冗談でもない物言いをした。
 それから、会話を打ち切るようにさっと立ち上がった。
「先に皿を洗ってくる」
 唐突な宣言と共に、先輩は座卓の上を片づけ始める。食べ終えた二人分のお皿を重ね、二本のフォークも拾い上げ、台所へと運んでいく。
「あ、手伝います」
 そうは言っても残っているのはティーカップくらいで、しかも私はまだ紅茶を飲み終えていなかった。だけど何もしないのもどうかと思い、とりあえず立ち上がってみる。すると私を制するように、台所から返事があった。
「いい。大した量じゃない」
「じゃあお皿を拭くだけでも……」
 言いながら台所まで足を向け、そちらへ顔を覗かせると、流しの前に立った先輩が私を振り返る。たちまち眉を顰められた。
「いいから。お前に手伝わせることなんて何もない」
 なさそうだとは私も思う。
 だけど、何だか離れがたかった。目と鼻の先にいるとわかっていても離れていたくなかった。
「先輩の傍にいたいんです」
 追い縋る私を、先輩は戸惑い気味に見る。
「何を……。駄々を捏ねるな、子供じゃあるまいし」
「先輩だって、私を離すつもりはないって言ってくれました」
「それは長期的視野での話だ。少しの間くらい待っていられないのか」
「近くで待っているのは駄目ですか?」
 駄々を捏ねている自覚はある。でも、子供じゃないから言っているのだということもわかってくれたらいいのに。
「すぐ戻る、向こうでおとなしく待て」
 それこそ子供か犬相手にでも言うように命じ、先輩は皿洗い用のスポンジに手を伸ばした。
 だけど横目でこちらを確かめ、私が梃子でも動かないつもりでいるのに気づいたのだろう。やがて力一杯溜息をついた。
「聞き分けのない奴だ」
 そして先輩はスポンジから手を引くと、代わりに自分の骨張った手首に触れた。巻きつけられていた腕時計を素早く外し、成り行きを見守る私に向かって差し出す。
「ほら」
 意味がわからずぽかんとする私に、先輩は淡々と言った。
「手伝わせてやる。皿を洗い終えるまでこれを持て」
 使い込んだ腕時計の革ベルトは深みのある飴色をしていて、台所に点る蛍光灯の明かりの下でつやつやと光った。先輩はいつでもこの時計を身に着けていて、大切にしていた。
 私は恐る恐るそれを受け取り、今になって急にきまりの悪い思いをしながらもお礼を言った。
「ありがとうございます、先輩」
 嬉しかったけど、駄々を捏ねたという指摘はまさにその通りだ。ついつい照れ笑いが浮かんでしまう。
「それと、わがまま言ってすみません」
「全くだ」
 先輩は私の謝罪を肯定すると、着ていたセーターの袖をまくった。肘が覗くか覗かないかくらいまで露出した先輩の腕に、私はやはり黙って見入ってしまう。先輩はその視線を鬱陶しがるそぶりをしつつも、黙って皿洗いを始めた。
 鳴海先輩は本当に素敵な人だ。こうしてお皿を洗っていても文句なしに格好いい。背が高いせいで流し台の低さには難儀しているようだけど、指の長い手は慣れた様子でたちまちお皿を洗い上げ、きれいにしていく。すすぎを終えて蛇口を閉め、布巾を手に取り、洗い終えたお皿を拭いていくその一挙一動を私は黙って観察していた。
「だから、見るなと言っているのに」
 私の視線を咎めながらも、先輩はてきぱきと動いた。拭き終えたお皿を食器棚にしまい、棚の戸を静かに閉めてから、台所の明かりを消す。
 そして私に、向こうへ戻るよう促してきた。
「ここは冷えるからな。ストーブの前へ行こう」
「はい」
 私は頷き、それから預かっていた腕時計を先輩に返そうとした。
「腕時計、どうぞ」
 だけどそこで先輩は首を横に振る。
「それはもう少し、お前が持っていてくれ」
「構いませんけど、いいんですか?」
「ああ。今は時計を見たくない」
 ぽつりと言われた。
 気がつけば、外はもう真っ暗だった。台所にある小さな窓のすりガラスからは青みの強い夜の空が窺える。そうなると私も時計を見たくない気分に駆られたけど、見ないわけにはいかない。先輩の腕時計の文字盤は五時少し前を指していて、つい溜息が出た。
 あと三十分、いられるかどうかだ。
「雛子」
 台所に立ち尽くす私を、先輩はストーブの前から呼ぶ。
 私は急いで先輩に駆け寄った。

 いち早く床に座っていた先輩が、隣に座るようにと仕種で示すから、その通りにした。それから先輩の顔を見上げると、先輩も黙って私を見ていた。
 あと少しで私は家に帰らなくてはならない。いつものように駅まで行って、電車に乗って。
 それまでに先輩に、もっといろいろ話しておきたい。今の気持ち、私がどれだけ先輩を好きでいるかということ。次はいつ会えるか、その約束も。
「お前の制服姿も見納めか」
 ふと、先輩が呟いた。
 先輩は私の全身を見下ろすように、ゆっくりと視線を動かしていた。そうやって見られるのはくすぐったかったけど、見納めになりそうなのも事実だから、先輩が見たいと言うなら気が済むまで眺めてもらいたいと思う。
「寒くないか、雛子」
「いいえ。ストーブの傍だから、暖かいです」
 問われて私が答えると、先輩は私の肩に手を置いた。
 そして私が羽織っていたカーディガンの襟元に指を差し込み、引き剥がすようにして脱がせ始める。微かな衣擦れの音が私の肩を、そして腕をかすめていった。
 先輩の表情は真剣だったし、手つきも優しく慎重だった。恐らく私の制服姿をちゃんと見ようと思ったのだろう。それ以外の意図は特に見出せないように思えた。
 それでも私は狼狽せずにはいられなかった。
「先輩、あの、急にそういうことされると……」
 震える声で呼びかけたところ、先輩もカーディガンを手にしてはっとしたようだ。途端に真っ赤になって声を張り上げる。
「い、いや、俺はただ制服をよく見ておこうと! それだけだ!」
「そうじゃないかな、とは思ったんですけど、でも、私もびっくりして……」
「悪かった。本当に、他意はなかった。下心があって脱がせたわけじゃない」
 先輩は慌てふためいて弁明した後、改めて私を熱心に凝視した。それこそ穴が開きそうなほどだった。
 さっき、減るものじゃないと自分で言ってしまったけど、こうして見られていると何だか磨り減りそうな気さえしてくる。
「さすがにちょっと、恥ずかしいです」
 カーディガンを脱いだ後の心許なさとも相まって、私は先輩の視線が恥ずかしくてならない。思わず呟くと、先輩は心外そうに眉を顰めた。
「お前だって、さっきは俺をじろじろ見ていたじゃないか」
「見てましたけど……。先輩の目は、何だかくすぐったいんです」
「人のことが言えるのか。俺もあんな目で見られては気が散って仕方なかった」
 そうだろうか。私もこんなふうに、しげしげと、まるで魅入られたように先輩を眺めていたのだろうか。見とれていたのは否定しないけど、ここまでだとは思わなかった。
「制服、好きなんですか」
 私が尋ねると、先輩は意外にもきっぱり答えた。
「ちっともだ。セーラー服なんてどこがいいのか、俺にはわからん」
 東高校の冬の制服は、紺一色の非常に地味なセーラーだった。スカートも同じように単色遣いのプリーツスカートで、更には靴下も白黒紺茶灰と校則で定められている。これを可愛く着るのははっきり言って至難の業で、冬場は皆、保温とファッションの両方を兼ねるべくカーディガンやセーターを羽織るのが常識だった。
「だが、これを着ているお前を三年間見てきたからな」
 それでもどこか感慨深げに、鳴海先輩は続ける。
「今日で見納めかもしれないと思うと……複雑だな。お前にはもっと似合う格好がたくさんあるだろうが、これほど数々の思い出が詰まった服もなかなかあるまい」
 本当にそうだ。私も東の制服が特別可愛いとは思っていないけど、三年間も着ているとさすがに愛着が湧く。身体にもすっかり馴染んでしまった。この服を着なくなる日が近づいているのだという事実を、寂しいことに、次第に自覚しつつあった。
「思い出はまだもう少し増えそうですけどね」
 私は言った。これから卒業式もあるし、文芸部にだってもう一回くらいは顔を出そうと思っている。それと、母校への合格報告も。是非とも卒業式前にできたらいいのだけど。
「そうだな」
 先輩が短く相槌を打ち、それからぽつりと呟いた。
「今日で見納めなのは俺だけだ」
 思ったよりも寂しそうに言って、薄い唇を閉ざした。
 それで私も一層、終わりを意識するようになった。卒業も間近だけど、今日ももうすぐ終わる。私は家に帰らなければいけない。預かっている腕時計の文字盤を、見ないふりし続けていることもできない。いっそこのまま時間が止まってしまえばいいと思うけど、時間が止まってしまったら私は入試の合否も知らないままだし、先輩と同じ大学にも通えないし、先輩と一緒にお酒を飲むというささやかな夢も叶わなくなる。それに、私だってもっと大人になりたい。今の先輩みたいに二十歳になって、十七、十八だった頃の私を振り返ってみたい。そうしたら先輩がどんな思いで私を見ていたか、今よりも更にわかることだろう。
 だから私は、張り切って言った。
「これからはもっと、似合う服の私を見ていてください。私もそういう服を着て、先輩と新しい思い出を、たくさん作っていきたいです」
 すると、先輩はふっと表情を和らげた。少しだけ意外そうに、声を立てずに笑んだ。
「それもそうだ」
 得心した様子で言ってから、腕時計を外した手を私の頭に乗せる。何だろうと思う間もなく、頭ごとぎゅっと強く抱き寄せられた。よろける私を難なく抱きとめた後、先輩は私の頭を掴んだまま半ば強引に上を向かせた。
 先輩の顔が目の前にある、と思った時にはもう遅かった。
 薄いのに柔らかい先輩の唇が、私の唇に触れた。
 おかげで私は目を閉じ損ねていて、ずるいことに自分だけ目を閉じている先輩の伏せた睫毛や滑らかな瞼、きれいな形の眉を間近で眺めることになってしまった。いつもは眼光の鋭い人なのに、目を閉じているとまるで別人のように映る。険がなくて穏やかで、優しさを隠してもいない。それにとても、幸せそうだった。
 唇が離れると、先輩は目を開けて私を見て、照れ隠しみたいに苦笑した。結んだ私の髪をちょうど結び目まで撫でながら、吐息と同じくらいささやかに言った。
「お前が欲しい」
 ささやかな声量でも、私を動揺させるには十分だった。
 先程も同じようなことを言われていた。その時も私はどきっとしたけど、私が深読みしたような意図は先輩にはなかったようだった。
 今回も、そうだろうか。今の言葉に額面以上の意味はないだろうか。そもそも額面からしてどうとも取れる意味合いの言葉でもあるけど、私はどう返事をすればいいのだろう。
 私がまごついていると、先輩は指先で私の唇に触れた。最初は人差し指でそっとつつき、次に親指で下唇をなぞった。そして、答えに窮する私に向かって、照れ笑いの表情のままで言った。
「今日も、チョコレートの味はしなかった」
 途端、私の肩はひとりでにびくっと跳ねた。反応してしまった自分が恥ずかしくも、悔しくもあり、思わず先輩に抗議した。
「思い出させないでください!」
「俺ばかり思い出しているのも悔しいからな。巻き添えにしてやりたかった」
 そう言いつつも先輩はどこか嬉しそうだった。巻き添えがまんまと成功したからだろうか。それとも、思い出しているのが先輩だけではないとわかったからだろうか。
 息を呑む私の、間違いなく赤面しているはずの顔を、先輩は嬉しそうでも眩しげでもある目で見ていた。だけどそのうちに、短く息をついてから私に尋ねてきた。
「そろそろ時間じゃないのか。帰り支度をした方がいい」
 私は動悸も動揺も、バレンタインデーらしい甘い空気も全て収まらないままだったけど、渋々預かっていた腕時計を覗き込む。
 さっき見た時からちょうど三十分が過ぎていた。時計を見たくないと言った割に、先輩は憎らしいほど正確に言い当ててみせた。
「帰らなくちゃ駄目ですか」
「何を言う、当たり前だ」
「でもさっき、私を離さないって」
「だからそれは長期的視野での話だ。それとも、俺に誘拐犯になって欲しいのか」
 もちろんそれは私の望むところではないし、食い下がってもどうにもならないことも、実際にどうにかなったらそれはそれで困ることもわかっていた。
 仕方なく、私も帰る用意を始める。先輩の傍を離れ、残っていた紅茶を飲み干し、カップを台所へ下げに行こうと立ち上がる。
 とそこで、先輩が口を開いた。
「合格発表はいつだ」
「二十四日です」
 あと十日。いよいよ、と捉えるべきか、まだ十日もあると思うべきか。
「そうか」
 私の答えを聞いた先輩は頷き、こちらを目の端で見る。
「結果は知らせに来てくれるんだろう?」
 一般入試の発表は、インターネット上で行われる。大学構内に張り出された合格者の番号を見に行き、その場で胴上げをしてもらう、などという定番の光景にはめぐり会えないのが残念だけど、見に行く勇気を振り絞るのだってきっと大変だろうからかえってありがたいかもしれない。そうしたら今度は、パソコンを立ち上げる勇気が出ない、なんてことにもなりそうだけど。
 何にせよ、私も深く頷いた。
「はい。先輩は、二十四日はお暇ですか」
「空けておく。いざとなったら飛んでくるといい」
 先輩は私の性格をよくわかっている。
 それでは期待通り、いざとなったら真っ先にここへ飛んでこよう。

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