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山口くんと山口さん(5)

 春が来て、僕は無事に大学を卒業した。
 そして四月がやってくると、僕らはふたりで婚姻届をもらってきて、家で記入を始めた。出しに行く時ももちろん一緒に行くつもりだ。

 ところで僕らは結構大切なことを失念していた。
 というのも婚姻届には『婚姻後の夫婦の姓』を記載する項目があって、夫の氏か妻の氏かを選んでチェックをつけなければいけない。本籍は僕のほうが現住所に近いのでそっちにすることに決めたけど、姓についてはあんまり考えてなかった。
 テーブルの上に広げた婚姻届を前に、僕は一旦ペンを止めて彼女に尋ねた。
「どっちの名字にする?」
 すると、みゆはしげしげ見入っていた婚姻届から顔を上げる。
 そして困ったように小首をかしげた。
「どっちかか……篤史くんは希望ある?」
「僕は別にどっちでもいいよ」
 失礼を承知で言ってしまえば『山口』も『佐藤』も日本じゃありふれた名字だし、さしたる特別感はない。そういう意味では本当にどっちでもいい。

 もちろん二十二年間を共に歩んできた『山口篤史』という名前は当たり前のように耳に馴染んでいたし、それは彼女だって同じだろう。二十二年間、ずっと『佐藤みゆき』だった。そのどちらかが変わるということは、お互いにとって大きな出来事のはずだ。
 はず、なんだけど。

「みゆは、例えば名字変わったら仕事に支障ないの?」
 僕の問いに、彼女は仕事中のいくつかのシチュエーションを想像してみたようだ。
 しばらく考え込んでから、やっぱり困ったように答える。
「特にないかなあ。せいぜい、呼ばれても自分のことだって気づけないかもしれないくらい」
「それはけっこうな問題だよね」
「でもうちの職場の人たちなら、しばらくはうっかり『佐藤さん』って呼び続けそうな気もするなあ。言ってから『あ、山口さんだった!』って訂正されたりして」
 ちょっとおかしそうに笑ってみせるその顔は、そんなやり取りを楽しみにしているようにすら見えた。
 もしかして、彼女は名字が変わることに抵抗がないんだろうか。
「仕事抜きにしてもさ、みゆはずっと『佐藤みゆき』だったろ? それが『山口みゆき』になったらどう?」
 だから突っ込んで聞いてみたら、彼女は恥ずかしそうに赤くなる。
「ちょっと照れるかも……」
「いや、そういうことじゃなくて」
「だって、結婚して名字が変わる人って結婚する人たちの半分しかいないんだよ。人生の節目に、はっきり自分が変わったってことが実感できる機会を、夫婦のうち片方しか味わえないんだよ」
 力説するみゆが、その後で自分の胸に手を当てる。
 睫毛を伏せてしみじみと、つぶやくように続けた。
「そういう貴重な機会に恵まれたら、私はすごくうれしいな」
 彼女のものの見方、考え方は、相変わらず少し変わっている。
 本当にささやかな幸せや喜びを、僕が思いもつかないような突飛な場所から見つけては掘り出してくる。ともすれば現実的というか、我ながら味気ない考え方しかできない僕に新鮮な発見をくれる。
 人生の節目に名字が変わる。
 それはそれで、とても素敵なことなのかもしれない。

 考えてみれば奇妙なもので、夫婦は病める時も健やかなる時も互いを愛し支えあい分かちあうことを推奨されるのに、名字においては平等じゃない。どちらかが変わり、どちらかは変わらない。そういう不平等を、結婚の過程の一番最初に強いられるわけだ。
 あるいはそれも、夫婦として歩むに当たってはじめに出くわす分水嶺なのかもしれない。
 どちらかが譲るのか、お互い納得いくまで話し合うのか、なんとなく流れで決めてしまうのか。世の中にはいろんな夫婦がいる。当たり前だけど、正解はひとつじゃない。
 僕とみゆはどんな夫婦になるだろう。
 こうして話し合う時間の合間にそんなことを考えて、そして想像だけで自然と心が温かくなる。
 彼女と一緒にこの先の人生も歩めるなら、それはすごく幸せなことだ。

「じゃあ、みゆさえよければ」
 僕は意を決して告げた。
 まだ記入途中の婚姻届を前に、隣に座る彼女の手を取って続ける。
「『山口みゆき』でどうかな」
 次の瞬間、彼女は瞳をきらきら輝かせ、僕の手をぎゅっと握り返してきた。
 でもやっぱり恥ずかしそうに、口元をゆるませながら小声で答える。
「うん」
 喜びが爆発しそうな、とてもとてもうれしそうな顔だった。
「ちょっと照れるけど、いい名前だと思うな。あ、これだと自画自賛みたいになっちゃうね。でもすごくいい響きだなって感じたの」
 それは僕も思う。
 山口みゆき。いい響きだ。僕も、ちょっと照れるけど。
「だけど篤史くんはいいの? せっかくの、一生に一度の貴重な機会なのに」
 そう言われると惜しい気もするものの、でも僕には別の楽しみができる。だからいい。
「僕は、名字が変わってうれしそうにしてるみゆを見るのが楽しいよ」
 夫婦で分かち合う幸せ。それは同じものではないし平等でもないのかもしれない。だけど、だとしてもお互い幸せならそれでいいはずだ。
「これから『山口さん』って呼ばれちゃうんだね、どうしよう……」
 みゆは照れに照れた様子でそんなことをつぶやき、さらには婚姻届の『夫の氏』のところにチェックを入れたら、きゃあと声を上げながら床に転がった。
「夫って書いてある……! わあ、照れる! 恥ずかしい!」
 そんな彼女がかわいくて、僕もなかなか婚姻届の記入が進まないのが唯一の困り事だった。

 僕らは四月のはじめに籍を入れた。
 入籍日はその年、僕らの街に桜の開花宣言がされた日を選んだ。

 そして四月のうちに式も挙げた。
 みゆのお母さんとおじいさん、おばあさん、そして僕の両親だけに来てもらう、本当にささやかな結婚式だった。
 バージンロードは本来なら花嫁と花嫁の父親が歩くところだそうだけど、みゆがそうして欲しいと言ったから、僕が隣に立ってずっと歩いた。彼女の隣にいられることを、むしろ誇らしく思いながら歩いた。
 真っ白なウェディングドレスを着た彼女は、この世で一番美しい花嫁だった。ごくシンプルなオフショルダーのドレスはやっぱり彼女にとても似合っていたし、顔を覆うヴェールは伏し目がちな彼女の横顔を透かして、別人のように神秘的に見せていた。白手袋をはめた手に握られているのは淡いピンクの桜のブーケだ。
 僕らは式の間、ずっと厳かな雰囲気に合わせて神妙に、そして生真面目に振る舞ってきた。でも誓いのキスの時に彼女のヴェールを上げたら目が合って、とたんにみゆがいつもの顔ではにかむから、僕まで笑ってしまいそうになって困った。結局、お互いに照れながら、そして笑いながら唇を重ねた。

 結婚式を済ませてチャペルを出ると、外は春らしい晴れ空だった。
 少し霞んだ青空に、陽の光を透かすおぼろ雲がずうっと広がっている。空にもヴェールがかかっているようなうっすらした青さだ。風は少しあって、どこかから桜の花びらが運ばれてくるのが見えた。
「ふたりとも、おめでとう」
 みゆのお母さんは式の間から涙を拭っていたけど、今ではすっかり泣いてしまっている。そんなお母さんの背中をみゆがさすってあげていて、僕も駆け寄って言葉をかける。
「ありがとうございます。必ずふたりで幸せになります」
 みゆのおじいさんが黙ってうなづき、おばあさんはにこにこと微笑んでいる。僕の父さんと母さんは『当然でしょう』という顔をしつつも、どこかうれしそうで、誇らしげだ。
 そして花嫁姿のみゆが、僕の隣に戻ってきた時に言った。
「幸せになろうね、篤史くん」
 今でもすごく幸せそうに、そう言ってくれた。
 ヴェールを上げた彼女の前髪に、桜の花びらが一枚留まっている。髪がつややかなのも、花びらに気づいていないのも昔と同じで、でも昔よりずっと近くにいる。手を繋いでいる。隣にいることが当たり前になっている。
 だから僕も今でもすごく幸せで、これからはふたりで、さらに幸せになろうと思う。
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