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佐藤さんと読書感想文

 放課後も午後四時を過ぎると、校舎に残っている生徒はほとんどいなくなる。
 遠く、音楽室の方向から吹奏楽部の演奏が聞こえるほかは、校内はごく静かだった。
 僕は足音を響かせないように、不必要なまでに気を配りながら、C組の教室へと向かう。

 教室には、当たり前だけど佐藤さんがいた。
 窓際から二列目、一番後ろの席で、原稿用紙と向き合いながら難しい顔をしていた。
 そっと戸口から覗いていても、彼女は僕に気づかない。右手にペンを持ち、それを時々紙にかざしてみせるけど、一向に何かを記す気配はない。難しい顔のまま、動きを止めて数秒。それから小さくかぶりを振り、肩を落とす。聞こえなかったけど、溜息をついたのかもしれない。
 顎に手を当てた彼女が、視線を窓の方へと投げた。まだ日の暮れる前。広がる青空に、太陽の光が色濃くなり始めている。佐藤さんが眩しそうに目を細めて、そのまま身動ぎもしなくなる。ぼうっと窓の外だけを見ている。

 今更のように、僕はためらった。
 だけど、声をかけなければ今まで残っていた意味もなくなる。
「佐藤さん」
 教室に踏み込むのと同時に呼びかけると、佐藤さんの肩がびくりと動いた。
 こっちを向いた顔は初め、強張っていた。だけど僕を認めるとすぐに、驚きだけの表情に変わる。彼女はペンを握り締めたまま、大きく目を瞠った。
「山口くん……。どうしたの?」
「いや、友達と話してたら遅くなっちゃったんだ。今は、バスの時間待ち」
 あらかじめ用意していた口実は、すんなり言うことができた。
 まあ、嘘じゃない。昇降口で帰ろうとする友人達を引き留めて、さっきまでくだらない話に付き合わせていた。その後忘れ物をしたふりで皆を先に帰したから、怪しまれていないと思う。
 皆、佐藤さんが残っているのは知っている。だけどいつものことだし、ありふれたことだから、気にも留めていないだろう。
 少し前まで僕もそうだったから、間違いない。
「佐藤さんは、読書感想文だっけ」
 僕はさり気ないそぶりで彼女の席に近づいた。
 佐藤さんが微かに笑って、頷く。
「うん。これが終わらないと、今日は帰れないから」
「進み具合はどう?」
 彼女の左隣の席。窓際の列の、僕の席の椅子を引く。それから僕は慎重に切り出した。
「バス待ちの時間あるから、見てあげてもいいけど」
 すると佐藤さんは、
「え?」
 さっきよりも目を見開いて、それからおずおずと続けた。
「い、いいの? 山口くんがいいなら、すごくありがたいけど……」
「時間、余ってるから。あの路線、三十分に一本しか来ないんだ」
 僕はその点を強調した。これは口実じゃない。彼女に気遣われない為の説明。
「ありがとう」
 ゆっくりと聞こえてきた感謝の言葉が、震えていたような気がした。
 気のせいかもしれない。僕もすぐ目を逸らしたから、彼女の表情までは見なかったし。
「いや、暇だからさ。あんまり気にしないで」
「うん、わかってるけど……私、嬉しくて」
「で、どこまで書けたの」
 放っておけばいつまでも礼を言い続けそうだ。不毛な会話は早々に打ち切ることにする。佐藤さんの方を見ないようにして、僕は彼女の机の上にある原稿用紙を覗き込んだ。
 灰色の、ざらざらの紙に印刷されたます目は、何も埋まっていなかった。一字として記されていない。まっさらなままだ。
「あ、あの……何も、書けてないの」
 わざわざ説明されなくてもわかった。
 予想以上に、これは手強い相手だ。
「一行も書けない?」
 僕は溜息をつきたいのを堪えながら尋ねる。
 視界の隅で佐藤さんが俯くのが見えた。
「うん……。あのね、山口くん。聞いて欲しいんだけど」
「何かな」
「私ね、この本読んだの」
 そう言って彼女は、机の脇にかけてあった鞄から、一冊の本を取り出した。
 表紙のタイトルを見る。――『ヘレン・ケラー』。有名な偉人の伝記だ。いかにも優良図書。読書感想文の題材としてはぴったりだろう。
「それでね、すっごく感動して、泣いちゃったの」
「泣いたの?」
 思わず、聞き返してしまった。
 いや、佐藤さんならそれもありかもしれない。でも高校生にもなって、伝記読んで泣けるっていうのは結構貴重な感性じゃないだろうか。僕なら眉一つ動かさずに読破する。
「う、うん」
 佐藤さんが恥ずかしそうに頷いた。
 そして、
「だってね、すごいじゃないヘレン・ケラーって。とっても大変な目に遭ったのにそういうこと乗り越えて、ちゃんと生き抜いたんだもん。それを支えたサリバン先生もすごいなあって思ったんだ、本当に」
 目を輝かせながら続ける。いかにも、彼女らしい。
 僕は笑いを堪えながら首を竦めた。
「じゃあ、そのまま書けばいいんじゃないかな。適当に膨らませてさ。そうすれば原稿用紙一枚くらいは余裕で埋まるだろ?」
「私も最初はそう思ったの。すっごく感動したから、思った通りのことを書いたら、すごくたくさん感想書けるんじゃないかって。でも――」
 彼女が息をつくと、原稿用紙の端が震えた。
 右手のペンは動かない。
「文章にしようとすると、何だか、何もかも安っぽく思えてきたの」
「どうして?」
「わからないけど……私が、そんなこと思ってていいのかな、って」
「何が?」
 僕は問い返し、直後、佐藤さんが唇を結んだ。
 そのままで少しの間、沈黙する。

 窓から射し込む日光は、さっきよりも更に濃さと強さを増した。
 佐藤さんの足元から伸びる影が、隣の席の机に落ちる。
 僕の足元と椅子から伸びる影は、佐藤さんの席と、佐藤さんに落ちている。
 二人しかいない教室は静かだった。僕も佐藤さんもいつもの位置に、自分の席にいるだけなのに、いつもと違う空気があるような気がした。
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