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佐藤さんと国語教師

「佐藤さん!」
 聞き覚えのある甲高い声が、休み時間中の教室にこだました。
 騒がしかった教室内は潮の引くように静まり返り、クラスメイトの視線は僕の右隣の席に集中する。
 隣の席の佐藤さんは、きょとんとしていた。少し遅れて、慌てたように立ち上がる。今日は椅子が倒れなかった。
「あ……村上先生」
 教室の戸口で仁王立ちしているのは、国語の村上先生だ。
 あの小柄な女教師は、体格には似合わない声の大きさと、口喧しさと、生徒に対する手厳しさとを持ち合わせていた。やや感情的なところもあるので、僕はあの先生が苦手だった。二年の頃から国語科を受け持っているけど、まるで好きになれない。今もきつい表情でこちらを見ている。
 先生が不機嫌であることを察してか、クラスの空気も凍りつく。とは言え、佐藤さんにそれがわかったかどうか。
「佐藤さん、ちょっと!」
 村上先生の二度目の呼びつけは更に高く響いた。感情的なくせに冷たい声を出す人だ。
「は、はい」
 佐藤さんは慌てて廊下へと急ぐ。
 不安げな横顔をちらりとだけ見て、僕はその背中から目を逸らした。先生と佐藤さんが何を話すのか、何となく察しがついたからだ。

 恐らく、先日の読書感想文のことだろう。
 先の授業で、村上先生は僕らに『家にある本を読んでその感想を書くように』と告げた。佐藤さんは提出期限ぎりぎりに感想文を出したものの、何だか自信がなさそうだった。何を書いていいのかちっともわからなかった、と後で打ち明けられたけど、例によって僕にできることもない話だった。提出前に相談してくれるならともかく、後から言われたって困る。
 廊下からは村上先生の甲高い声が聞こえてくる。
 僕は耳に入らないように意識を逸らしていた。教師が叱る声なんて聞いていて気分のいいものじゃない。せめてどこかよそでやってくれればいいのに。
 聞こえないようにしていたのに、僕の脳裏には佐藤さんの不安げな横顔が浮かんでしょうがなかった。多分、彼女は言い訳もせずに先生のお説教を食らっているに違いない。そして後で肩を落としながら、読書感想文の直しをさせられるんだ。そんな姿を見たこともないのに、浮かんでくるようだった。

 ちょっと前まで、僕の中での佐藤さんは、とにかく笑っているだけの子という印象しかなかった。
 彼女はいつもにこにこしているような気がした。休み時間に友達といる時も、僕にくだらないことで話しかける時も。何もせずぼうっとしている時でさえ、にこにこと笑んでいたように思う。いかにも単純そうな、幸せな笑い方で、悩みが何もなさそうに見えていた。
 だけど、そうじゃなかった。
 隣の席に座るようになって、僕は佐藤さんのいろんな表情を知った。授業中に当てられて答えられずに真っ赤になった時の顔、僕に迷惑をかけた時の済まなそうな顔、マラソンの時の苦しそうな顔、それからさっき見たような不安げな顔。どれも笑っている顔より強く記憶に焼きついている。
 奇妙だった。佐藤さんの笑顔じゃない表情を見た後で、僕はいつも奇妙な感覚に囚われた。後悔にも似た、苦い思いがした。彼女の為に何ができるってわけでもないのに、何かしてやった方がよかったんじゃないかと後から思うことがあった。全く偽善的だ。

 五分も経たないうちに、佐藤さんは教室の中へと戻ってきた。
 クラスメイト達の視線は概ね同情めいていたけど、彼女は物憂げな表情のままで真っ直ぐ席に戻ってきた。椅子を引いてすとんと座り、溜息をつく。
 その後でふとこちらを見たから、目が合って、僕はうろたえた。
「……どうかしたの、山口くん」
 佐藤さんが怪訝そうに尋ねてくる。
 いつも通りの声に聞こえた。ただ、表情はいつもの笑顔には戻っていない。ぎこちなく笑むように、唇の両端が上がっただけだ。
「いや、別に……」
 僕は一度はためらった。
 けど、クラスメイトの視線が少しずつこちらから外れて行くのを確かめて、尋ねる気になった。気になっていたのは確かだった。
「村上先生、怒ってた?」
「うん、ちょっと」
 次に彼女が浮かべたのは、心からの苦笑いだった。
「こないだの読書感想文がね、全然駄目だって」
 ――やっぱり、そのことか。
 苦い思いがよみがえって、僕は黙って唇を結ぶ。
「今日の放課後に残って、書き直して再提出しなさいって言われたの。うちのクラスで再提出しなきゃいけないのは、私だけなんだって」
 小首を傾げた彼女の髪が、肩からするっと落ちる。
 あの髪が硬質で、触れるととても滑らかなことを知っていた。
 隣の席にいると、たくさんのことを知るようになる。だから同情めいた思いも浮かぶのかもしれない。だから、知らないふりをしていられなくなるんだ、きっと。
「確かに、自分でも自信ないなあって思ってたんだ。原稿用紙、半分も埋まらなかったし」
 苦笑したままの佐藤さんに、
「でも、だからってあんな……」
 思わず僕は口を開いていた。
 佐藤さんの出来の悪いのは今に始まったことじゃない。感想文が上手く書けていなかったからって、わざわざ皆のいる前で叱らなくてもいいのに。クラスで一人しか残さないなら、再提出の事実は彼女だけに知らせたらいい話じゃないのか。
 だけど佐藤さんはかぶりを振った。
「私が悪いの、わかってるから……。やり直しのチャンスがもらえただけ、よかったって思うの」
「そうかな」
「うん。怒ってもらえるうちが花だって言うから。上手くいくかわからないけど、できるだけ頑張ってみる」
「そっか」
 頬杖をつきながら、僕は煮え切らない思いでいる。
 苦々しかった。何もできないでいる自分自身に苛立っていた。すぐ隣で佐藤さんが落ち込んでいるのに、どうしたらいいのか、自分が何をしたいのかわからない。
「頑張らなきゃいけないよね」
 自分に言い聞かせるように呟いた佐藤さんのことを、僕はどう捉えたらいいんだろう。
 同情されているなんて、いくら彼女でも快く思わないはずだ。村上先生を腹立たしく思っていることも、その仕打ちをあんまりだと思っていることも、僕自身の勝手な感情にしか過ぎない。佐藤さんには告げられない思いだ。
 教えてあげようか、と言えたらよかったのかもしれない。
 でも僕がそう言えば、やっぱり同情か偽善にしかならないだろう。
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