Tiny garden

貴方よりは強くない

 先輩と過ごす三度目の、鍋の季節がやってきた。
 相変わらずあたしはろくな手伝いもしていない。先輩が鍋を出してコンロの上に置いてガスボンベをセットして、それから野菜やらつみれやら白身魚の切り身やらを台所から切っては運んでくるのをただ眺めている。
 そういう時、三年目だろうと先輩は懲りずにあたしを咎めてくるのが常だったのだけど、今日ばかりは何も言わない。床に突っ伏しているあたしをそっとしといてくれている。
 冷たいフローリングの床から視線を上げて眺める室内は、付き合いたての頃と違い、格段に過ごしやすくなった。仕送りとバイトでとんとんというレベルの学生生活と比べると、社会人の生活は少しばかり優雅らしい。例えば先輩の部屋のテレビは薄型液晶になったし、それを載せておくボードだってガラス戸つきの立派なものだ。学生時代はこういうところにお金をかける気がしなかった、といつだったか先輩が語っていた。テレビは画面が小さくても縁が歪んでてもとにかく映ればいいし、テレビ台だってなきゃないでいいものだと思ってたから、適当に置いといてたんだって。環境の変化は人のライフスタイルすら変えてしまうものらしい。家具が増え、少しだけ見栄えの良くなった部屋に、社会人一年生の先輩は住んでいる。
 翻って現在、大学三年のあたしは、以前とどれほど変わっただろうか。
 スーツのままで床をごろりと半回転したら、ちょうど居間へ戻ってきた先輩に声をかけられた。
「ジャージでよければ貸そうか」
「え?」
「スーツ、皺になるよ。着替えた方いいよ」
 その言葉はもっともだと思うし、あたしもそうすべきだとわかっている。
 でも従う気は起こらず、仰向けになって天井を眺めつつ、ぼんやり答える。
「めんどいんで……」
「……しょうがないなあ」
 先輩が呆れたように溜息をつく。
 あたしのいい加減さも今に始まった代物じゃなく、三年目のお付き合いともなれば彼氏たる先輩だって熟知してるってものだろう。でも今日はそのいい加減さも倍増しだ。
「何にもする気が起こらないんです」
「わかるよ、わかるけどさ」
「鍋だっていつもの八割くらいしか食べられないかもしれない」
「八割食べれたら十分だ」
 笑い飛ばそうとしたのか、先輩は楽しげに言った。実際、八割で止めておくのがダイエット的にはいいんだろうし、その程度で骨と皮みたいに痩せ細ってしまうなんて可能性は皆無だ。問題はない。
 むしろ今日みたいな日は、やけ食いやけ飲みを懸念しておくべきであって。
「あんまり落ち込まない方がいいよ」
 やがて、宥めるように言われた。
「就活って何度も壁にぶつかるものだし。ご縁がなかった程度に思っておいた方がいい」
 経験者である先輩のアドバイスには信頼性も真実味も十分にある。
 就職活動における一敗を重く考えるべきじゃない。それも事実だ。
 手元に何通のお祈りメールが届こうと、手応えのない面接を何度経験しようとも、いちいち落ち込んでいたらきりがない。就活に苦労しているのはあたしだけじゃないはずだし、そういうもんだと割り切らなくちゃいけないのはわかってる。
「そうなんでしょうけどねー……」
 でも、へこむ。
 こう何度も『あ、君はうちには要らないんで』ってな具合に切って捨てられる機会があるのも、精神的に非常に堪える。この就活期間であたしの耐久性は少しずつ、しかし確実に削られてるなと痛感している。
 今日も面接があった。似合いもしないリクルートスーツ着て、今度こそはの覚悟で望んだ。なのに先方と来たら端から女子の採用はしない気だったのか、あたしなど眼中にないといったそぶりで何度か質問を飛ばされる始末。一緒に受けた男の子たちには熱心に質問してたくせに。男女雇用機会云々なんて端から鵜呑みにしちゃいないけど、だったら面接に呼ぶなよと言いたい。どうせ祈る気満々なんでしょう。
 面接の後、緊張の糸がふつりと切れた。すぐさま先輩に連絡を取り、縋るようにこの部屋に転がり込んだ。仕事の後で疲れているはずの先輩は、あたしの為に鍋の材料まで買い込んで、温かく迎え入れてくれた。
 この人がいなかったらあたしの人生どうなっていただろう、とつくづく思う。
「何かこういうので相手にされないと、あたしの全部を否定された気分になるんですよね」
 ようやく起き上がったものの、やっぱり力が出ない。壁にもたれかかりながらぼやく。
「全世界からあたしという人間が必要とされてないかのような気がしてきて」
「そんな大げさな」
 昔と同じように色白の先輩が、こちらに向かって苦笑する。そういう笑みだって優しげなのがこの人だ。
「さっきも言ったけど、ご縁がなかったっていうだけだよ。一企業に落とされたからって君の価値が全て失われるわけじゃない」
 わざわざあたしの目の前まで来て、膝をついて、それからそっと頬を撫でてくれる。
「それに、俺は君の価値を知ってる。君を誰よりも必要としてる」
 こういうとこも、何年付き合っても変わらない。優しいけどめちゃくちゃ気障だ。
「どうしても行き詰まったら、俺のところへ来ればいいよ。永久就職しよう」
 眩暈がする。
 三年目でこの人のこういうところにも大分慣れた気がしていたけど、よくもまあ毎回こんな甘い台詞が出てくるものだ。あたしの可愛くない性格ではそれにうっとりすることもできず、大抵の場合、冷めて突き放すか、そうでなければ半笑いを浮かべてしまうんだけど。
 今回はちょっと、違うことを思った。
「……その気持ちは嬉しいんですけど」
 あたしの頬に添えられた、先輩の手に触れてみる。
 この人は手の甲だって白くてすべすべしているけど、指の付け根や関節のごつごつ感は間違いなく男性のものだ。今は鍋の支度の途中だからか、氷のように冷たい。
「それだけじゃ嫌なんです、あたし」
 そう告げると先輩は意外そうに目を見開いた。
「俺だけじゃ駄目ってこと?」
「まあ、広い意味で言えば。……先輩に愛されてるだけの自分じゃ嫌だなって」
 優しくて、面倒見もよくて、怠け者かつネガティブなあたしをまめまめしく愛してくれる先輩は、そりゃあいい人だ。身も蓋もない言い方をすればこの上ない優良物件だ。この人に好かれて彼女にしてもらったというだけでも奇跡であり、幸せなのだと思わなければならない。それもわかっている。
 昔のあたしは今以上にネガティブで、自信がなくて、先輩みたいに色白じゃないのをものすごく気に病んでいた。実際にそれでからかわれることもあったから、しょうがないと言えばしょうがない。でもそういうあたしでも、好きになってくれる人がいたって知って、ちょっとだけ前向きになれたと思う。白くない、可愛くない、性格もいまいちなあたしにも、とりあえず女の子としての価値はあったんだって思えるようになった。
 それが三年目になって、ちょっと高望みしたくなったって言うか。
「先輩に釣り合うだけの価値がある人間になりたいんです」
 強く思う。
「先輩に好かれてるだけじゃなくて。先輩の彼女ってだけじゃなくて。もっといろんな人に評価されたいし、あたしの価値をわかって欲しい。ちゃんと社会の一員になりたい。そう思います」
 そうじゃないと、この人とは釣り合わない。
 あたしだって大学三年の冬まで、ずっと『先輩の彼女』という側面しか持ってなかったわけじゃない。当たり前だけど勉強した。バイトだってした。友達付き合いもそこそこ、普通にした。サークルは結局辞めてしまったけど、得るものが皆無だったとは思わない。
 そういう自分の価値を、これからどんどん高めて、より多くの人に見てもらいたい。
「あたし、相変わらず色は白くないですけど」
 その言葉に先輩は困ったように微笑む。
「またそれを言う。気にならないよ」
「おまけに性格も可愛くないですけど」
「それはまあ、時々思うよ。もっと素直になればいいのに」
 今度はわかりやすく笑う。
 昔と比べたらこれでも、結構素直になった方なんだけど。
「でも先輩に愛されてるだけしかないのは、嫌なんです。自分にそれだけしかないなんて諦めたくないし、それしかないなら先輩とは釣り合わないって思います。だから……」
 お祈りメールが何度届こうと。
 面接で何度つれなくされようと。
 心が折れてる暇など、全くもって、ない。
「だから、もうちょっと頑張りたい」
 と言いつつ、あたしは目の前にある先輩の肩に額を乗せ、少しの間寄りかかる。体重をかけても先輩は倒れない。ちゃんと支えてくれた。
 折れてる暇はないけど、どうしようもなく折れちゃう時もある。そんな時は。
「頑張る為の力をください、先輩」
 昔とは違う。この人だけいればいい、なんて時期はとっくに通り過ぎてしまった。
 理不尽だらけの人生を、胸張って前向きに歩いていく為に、あたしにはこの人が必要だ。
「……うん」
 小さく頷いた先輩は、あたしの肩を包むように抱き、こめかみにキスをしてくれた。
 それから背中を軽く叩いて、ちょっと笑う。
「君は強いな」
 かけてくれた言葉はこの流れからは意外なものだった。強かったら心が折れることもないはずだし、そんなことはないと、あたしは思わず顔を上げる。
 こちらを見下ろす先輩は例によってとても優しげで、でもわずかにだけ寂しそうだ。
「強くないです。これで結構脆いんですよ」
 そう答えたらなぜか吹き出された。
「昔は逆のことを言ってたよ」
「……そうでしたっけ」
 覚えがあるような、ないような。
「俺も、昔から知ってたよ。君が強い子だってこと」
 先輩はもう一度あたしの背中をぽんと叩くと、やがて立ち上がった。
 明るく続ける。
「じゃあ、鍋にしよう。君が次も頑張れるよう、壮行会として大いに食べよう」
 それであたしの気分もすっかり切り替わってしまう。へこんでたのが和らいで、世界に拒絶されたような絶望感もうっすら消えていく。残ったのはそれなりに前向きな気持ち。祈れるもんなら祈ってみろ、祈り返してやるぜ! と気炎を上げたくなる。
「はい、食べる方は超頑張ります。なのでジャージ貸してください」
「こういう時だけは素直なんだなあ、君……」
 八割なんて言ってたのが嘘のようにお腹が空いてきた。現金なものだ。
 頑張ろう。先輩の為にも。先輩の気持ちに報いる為にも。

 かくしてあたしはジャージに着替え、先輩と二人で鍋を囲んだ。
 まだ雪は降ってないけど、冷え込み始めた冬の序盤。鍋をやるには絶好の夜だった。
「茶碗はあたしが洗います」
 締めのラーメンの前に宣言すると、先輩にはかぶりを振られた。
「いいよ。疲れてるだろ?」
「先輩こそ今日は仕事だったんだし、疲れてるんじゃないですか」
「俺は別に。君に会えたし」
 それもまた実にこの人らしい、ストレートに気障な台詞だ。
 せっかくなので便乗してみる。
「あたしも先輩に会えたんで、かなり元気になれました」
「なら、そういう時こそ無理しないで、今日は俺に任せて」
 カウンターくらいじゃ先輩は譲らない。これでなかなか頑固でもある。
 しょうがないのであたしはもう一歩踏み込んで、
「でも花嫁修業と思えば、どうってことないですよ」
 そこで先輩は、虚を突かれたように目を瞬かせる。あたしは言葉を継ぐ。
「釣り合うようになったら、雇ってください。お嫁さんとして」
 その日まであたしは諦めません。どんな理不尽なことが起きようとも。
 少し間を置いて、先輩はぱっと赤くなった。鍋をつついてる時点でほんのり赤くはあったけど、色が白いせいで感情的な赤面はいつだって手に取るようにわかる。この点だけは、白くなくてよかったと心底思える。
「スルーされたのかと思ってたんだけど……」
 しばらくして、妙にたどたどしく言われたから、あたしはここぞとばかり胸を張る。
「台詞の気障さでは、肩並べるくらいになったと思いません?」
「思う」
 先輩は悔しそうにしながらも、口元では笑みを噛み殺している。
「全く、君には敵わないな」
 そう言われて、でもあたしは、そう言える先輩にこそ敵わないと思う。
 強いのはやっぱり、こんなあたしの全部を受け止めてくれる人の方だ。
▲top