Tiny garden

繋がれて、絡め取られて(5)

 人狼のエベルが、ゆっくりと面を上げた。
 金色の瞳で戸口を捉えると、喘ぐような声を立てる。
「ロクシー……!」
 安堵と驚き、そして悲痛さが入り混じったその声に、ロックの胸も軋んだ。
 駆けつける前にどんなやり取りがあったかはわからない。だがヨハンナから聞いた通り、エベルが望まぬ変身を遂げたことはわかった。絨毯の上に散らばる、衣類だったぼろきれがその証拠だ。
 生地の質感からリーナス邸で会った時に着ていたあの正装だとわかり、ロックは思わず唇を噛んだ。
 この夜を、グイドはどこまで台無しにすれば気が済むのだろう。

 一方で、グイドもまた振り返る。
 その目つきはロックの姿を見るなり険しくなり、憎々しげに吐き捨てた。
「またお前か、仕立て屋。何をしに来た」
「あなたの方こそ!」
 とっさにロックも噛みつく。
「その彫像、それが何かわかっているんですか!」
 恐らくはそれこそがトリリアン嬢の店から奪われたものだ。石灰石でできた白い彫像には、牙を剥いた人狼の顔が刻まれている。一度手にしたことがあるからか、ロックの手にもあのざらりとした感触が蘇ってきて、背筋が震えた。
 だがグイドは愚問だと言いたげな顔をする。
「当然だ。これには人狼の力が秘められている」
 そしてエベルに向かって突きつけていたその彫像を、眇めた目でじっと見た。
「一つ二つではないという話だったが、手に入れるのに随分と骨を折ったな」
「骨を折った? ぶん殴らせたの間違いだろ」
 フィービが苛立ちまじりに唸れば、グイドは訝しそうにさえしてみせる。
「私は金を出しただけだ。経緯までは知らないな」
 その冷たい言い種に、ロックは思わず息を呑んだ。
 彼の出した金が柄の悪い連中を狂わせ、トリリアン嬢に怪我を負わせたというのに。
「無関係の人間は黙っていろ。私はエベルに用がある」
 そう言うとグイドは、改めて床にうずくまるエベルを見下ろした。
「そろそろ教えてくれ、人狼になる為の方法を」
 どうやら彼も、彫像の呪いを解き放つ術までは知らないようだ。
 だが、それを知ってどうするというのか。ロックは目を瞬かせた。
「それはできない」
 エベルが苦しげに答えれば、グイドは心外そうに嘆息する。
「なぜだ。独り占めなんてずるいじゃないか」
「そうではない、知って欲しくないから言っているんだ!」
「人狼の力は欲しいものが持つべきだ。違うか、エベル」
 グイドの口から、ロックが想像もしなかった言葉が飛び出した。
「重ねて言うが、私はお前の力が欲しい」
 人であるはずのグイドの目が、狂気に妖しく光っている。
「初めてその姿を見た時、異形であるにもかかわらず美しいとさえ思った。人狼の力は奇跡だ。人知を超えた、無限の可能性を秘めている。それが欲しいと思って何がおかしい」
 その目が熱く見つめているのは、変わり果てた姿の友――肖像画に描かれた鳶色の髪も新緑色の瞳も端整な顔も全て見る影なく、狼そのものの貌をしたエベルだ。
「それさえあれば、たとえお前がミカエラを捨てても、私が代わりに守ることができる」
 グイドは言う。
「私がミカエラを守る。その為に、人狼の力が必要だ」
 熱に浮かされたように、希望に満ち溢れた口調で言う。
「馬鹿なことを言うな!」
 エベルが上げた悲しみの声とはまるで対照的だった。

 ロックにとっても、グイドの願望は予想もつかないものだった。
 人狼の呪いを受けた友を目の前にして、それでも尚、同じ呪いを受けることを望むとは。
 かつてフィービは語った。かの彫像に宿っているのは、古代、虐げられた者たちが抗う為に欲した力だと。
 だが代償として失うものもまた大きく、ロックはその話に疑問と嫌悪を覚えた。エベルの苦悩を聞かされていれば尚更だ。
 なのに、グイドはその力を欲している。

「正気ですか!」
 とっさに口を挟めば、グイドは鬱陶しげに顔を顰めた。
「黙っていろと言ったはずだ。どのみちお前には関係あるまい」
「いいえ、あります。僕はエベルの苦しみを知っている!」
 部屋に泊めたあの夜に、ロックはエベルの胸のうちを聞いた。
 人狼の呪いを受けた最初の日、取り乱したマティウス伯の姿、冷たい床の上で過ごした一夜のことを、エベルは話してくれていた。それですら災いの始まりにしか過ぎず、以降もエベルは多くのものを失くしてきた。傷心の父親を、愛らしい婚約者を、そして今、心から信頼していた友を。
 それを一番よく知っているだろうグイドが、エベルを近くで見てきたはずの彼が、なぜ人狼になることを望むのだろう。
「あなただって知ってるでしょう、エベルがどんなものを抱えてきたか!」
 ロックは鋭く叫んだが、グイドは歯牙にもかけぬ様子で鼻を鳴らした。
「お前こそ、エベルの何を知っている」
 無知を嘲るような口調で続ける。
「エベルは強い男だ。その身に呪いを受けても決して挫けず、前向きに生きてきた。そして人狼の力に溺れることなく、見事に御してきた」
 それは確かに、エベルの一つの側面でもある。
 人狼であることを恥じず、挫けず、ロックの前でも常に明るく振る舞っていた。その力を父の無念を晴らす為に、更なる災いを払う為に使ってきた。それは事実だ。
 だが人が様々な仮面を使いこなすように、エベルもまた前向きなばかりの人間ではない。彼が演じる道化の顔、その下に隠されてきたものを、グイドは今ですら知らないのだろう。
「恋人面をして隣に立っても、所詮その程度の見識か」
 グイドの侮蔑の眼差しを、ロックは真っ向から受け止める。
「僕のことは何とでも言えばいい。でも、エベルを傷つける人は許せません」
 再び呪いが解き放たれるようなことがあれば、きっとエベルは深く悲しむことだろう。そしてミカエラもきっと。
 何としてでもそれを止めなくてはならない。
「ロクシー、危ないから下がってろ」
 そこでフィービがロックを庇うように進み出た。
 すぐにブーツの短剣を引き抜いたかと思うと、その切っ先をグイドに向ける。
「話してもわからない奴にはこれだ。死にたくないなら彫像を捨てな」
「なっ……」
 フィービが持つ得物の鋭さに、さしものグイドもその顔を恐怖に歪めた。
 しかし、
「駄目だ、フィービ!」
 エベルが制止の声を上げたので、フィービが目を剥く。
「はあ? なんで――」
 そしてエベルの方を見た後、不自然に言葉を止めてから短剣を鞘に戻した。悔しそうに歯噛みをしつつも体術の構えを取る。
 ロックはそのやり取りを不可解な思いで見ていた。
 なぜエベルはフィービを止めたのか、フィービも反論をやめてそれに従ったのか。

 それからふと、今になって執務室の異変に気づいた。
 以前通された時とは様変わりした室内には、エベルとグイドの他にも人がいた。浮き彫り細工の壁に張りつくようにして執事のルドヴィクスが、倒れた執務机の陰には御者のイニエルが身を潜めている。二人は事の成り行きを用心深く見守っているようであり、やむを得ず袖手傍観しているようでもあった。
 気がつけばロックの背後にも、追い駆けてきたらしいヨハンナが立っている。小さな身体を震わせ、青ざめた顔の彼女は、灰掻き棒を胸に抱いたままやはり動かない。むしろ動けないのかもしれない。
 それは、なぜか。
 グイドにどうしても手出しができない理由が、何かあるのだろう。

 エベルの反応を、もちろんグイドも見逃しはしなかった。
「なぜ止めた、エベル」
 よからぬひらめきを得た顔で、追い詰めるようにエベルを見下ろす。
「私に害なすことを許せぬ理由があるんだろう。違うか?」
 エベルが尖った耳を震わせかぶりを振った。
「グイド! もうやめてくれ!」
「刃物か? 人狼の呪いを解くのに、刃物が必要ということか?」
 恐らくは当たりだ。
 エベルは答えなかったが、ロックの背後でヨハンナが悲鳴を呑み込んだのが聞こえた。
 だが答えない代わりに、エベルはぎりっと牙を噛み鳴らす。
「頼む、グイド。お前を呪いに巻き込みたくはない!」
「巻き込まれるのではない。私は自ら望んでその力を得るのだ」
「お前まで呪われてはミカエラが悲しむだろう!」
 妹の名を口にされれば、グイドの顔にもかっと血が上った。
「むしろ妹は、私に守られて幸福だと思うはずだ! もはやお前すらも信じられないとあってはな!」
「実の兄が呪われて喜ぶ妹がいるか!」
 エベルが必死に声を上げても、もうグイドの耳には届かないようだ。興奮と失望がないまぜになった顔で、ゆっくりと息をつく。
「ミカエラを捨てたお前に何がわかる……!」

 ある意味で、グイドもまた人狼の呪いに狂わされた人間なのだろう。エベルとミカエラの婚約が決まった時は心から喜んだのだろうし、エベルが呪われた時でさえ、その力がミカエラの為になると思ったのかもしれない。それだけに婚約の解消は許せなかったのだろうが、だからといって自ら呪われることを選ぶとは――。
 あるいは、それすら呪いの力だとすればどうだろう。
 フィービが彫像を手に入れたのも、先代のマティウス伯が呪いを解き放ったのも、呪われたエベルがその秘密をグイドに打ち明けたのも、そしてグイドがその力に囚われ焦がれたのも、全てがただの偶然ではなかったとすれば。
 これもまた点と点でしかない推測だ。
 だがロックには全てが繋がれ、絡め取られているように思えてならない。

 戦慄するロックの目の前で、グイドは小ぶりの懐刀を抜いた。装飾品としての価値しか見い出せぬような、美しい彫刻の施された短刀だが、今はぎらりと妖しく光って見えた。
 その刃を彫像を持つ自らの指先に押し当て、グイドはエベルを窺い見る。
「血か?」
 そう尋ねれば、エベルはやはり答えない。金色の瞳でグイドを見据えたまま、苦しげに呻く。
「グイド、駄目だ。呪われて幸福になれると思うな」
「戯言はいい。私の質問に答えろ」
「人狼になってもいいことなど何もない!」
 ようやく吐き出されたのは、紛れもなくエベルの本心だ。
 彼がこれまでロックにすら語らなかった、そして恐らくは初めて口にしたであろう思いだ。
 だがそれも、目を曇らせたグイドには何一つ伝わらない。
「答えないのなら試すまでだ!」
 グイドが懐刀を持つ手に力を込める。
「やめろ!」
「この野郎!」
 エベルとフィービが声を上げ、ほぼ同時に床を蹴った。

 それからの出来事を、ロックの目は全て捉えきれたかどうかわからない。
 ただ全ては一瞬のうちに過ぎ去った。エベルとフィービがグイドに飛びかかり、グイドの手から美しい懐刀がつるりと離れた。それは絨毯の上に転がり落ちて、とっさに駆け寄ったルドヴィクスによって拾われた。
 グイドは右腕をエベルに、左腕をフィービに捩じ上げられて床に押しつけられた。その手が握り締めていた彫像をもぎ取ったのはフィービで、彼はそれをロックに向かって投げて寄越した。
「どこか遠くへ!」
「わかった!」
 ロックは彫像を確かに受け取り、その場を走り出そうとした。
 だが――次に迎えた瞬間は、衝撃のあまり時が止まったように長く感じた。
 ロックの手の中で、受け取ったばかりの彫像がさらさらと崩れ落ちたのだ。それは瞬きの間に跡形もなくなり、指の隙間から零れ落ちて床に砂の山を築いた。
「う、嘘……」
 思わず呟いたロックは、砂山の中を凝視した。
 そしてそこにほんのわずか、数粒だけ血を吸った砂があるのを見つけた時、事態を察して振り向いた。

 ヨハンナとイニエルも加わり、四人がかりで組み伏せられていたグイドの身体が、着衣ごと膨らむのを見た。
 殻を破るように服が破裂し、その内側から黒い体毛の身体が現れるのを見た。
 何事か叫ぼうとしていた口が大きく裂け、歯列はあり得ないほど鋭く尖り、黒髪はざわざわと逆立って人とは違う耳を形作る。瞳はぎょろりと見開かれ、エベルと同じ金色に輝いた。
 二人目の人狼が、立ち上がる。
 どんな獣よりも荒々しい咆哮を上げ、牙の生え揃った口から涎を垂らし、自分を押さえつけていた人々を力任せに振り飛ばす。ヨハンナが、イニエルが床に投げつけられ、必死にしがみつこうとしていたフィービでさえもが壁に叩きつけられた。
「そんな!」
 悲鳴を上げるロックの前で、人狼はエベルを殴り飛ばす。もはや理性も残ってはいないのか、肩が外れそうなほどの力を込めて同じ人狼に拳を叩き込む。
「ぐっ……」
 顔を側面から殴られても、エベルはかろうじて倒れはしなかった。だが衝撃には耐えきれず、床にがくりと膝をついてしまう。
 そこにグイドは鋭い爪を振り上げようとして、
「エベル!」
 いても立ってもいられず、ロックはその背中に飛びかかろうとした。
 無論、人狼にとって非力な小娘など脅威にもなりはしない。丸太のようなその腕は羽虫を払うように障害物を弾き、宙を舞ったロックは背中からどこかに衝突する。
 直後、息が詰まるような鈍い痛みが走り、ロックは苦痛のうちに意識を失った。
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