Tiny garden

夜が明けたらくちづけを(1)

 ロックは夢を見ていた。
 古い日記帳をひもとくような、懐かしい記憶を手繰る夢だった。

 農村で暮らしていた頃に住んでいた、小さな家の中にいた。
 母ベイルが夕食の支度をする傍で、ロックは繕い物をしていた。かけ継ぎを教わったのは十歳の時で、ようやく針と糸の扱いにも慣れてきた頃だった。縫物をしてちょっとした小物を作るのも楽しかったが、鉤裂きを自分で直せるのも嬉しくて、衣服の傷を見つけては次々と試していた。
「見て見て、できたよ母さん!」
 かけ継ぎを終えたロックが声をかければ、母は炊事の手を止めて、その出来映えを見てくれる。
「上手くなったね、ロクシー」
 そして上手くできていたら、頭を撫でて誉めてくれる。
 母はいつでも優しくて、葡萄酒色の髪をした、とてもきれいな人だった。ロックに裁ち縫う技術を一つ一つ丁寧に教えてくれた。田舎の寒村に仕立て屋の仕事はそう多くなく、暮らし向きは決して楽ではなかったが、あの家には常に安らぎがあった。
「私も大きくなったら仕立て屋さんになる!」
 ロックがそう言った時は、いつも嬉しそうに微笑んでくれた。
「じゃあ大きくなったら、二人でお店やろっか」
「うん!」
「ロクシーはどんな仕立て屋さんになりたい?」
 母が尋ねてきて、小さかったロックは少し悩んだ。仕立て屋になりたいとは思っていたが、『どんな』なんて考えもつかなかった。
 しばらく頭を捻ってから、
「いっぱいお金が儲かる仕立て屋さん」
 と答えたら、子供らしくない答えに母は吹き出した。
「抜け目のないとこ、誰かさんそっくり」
「えっ、誰? 誰?」
「ううん。――儲けるのも大切なことだね、ロクシー」
 そしてその後で、穏やかに続けた。
「母さんはね、お客さんを幸せにしたくて仕立て屋を始めたの」
「幸せ?」
「そう。だって、服を着ない人なんていないでしょう?」
 普通の日も、特別な日も、人は誰しも服を着る。
 あの頃ロックが着ていた服も、全てベイルが仕立てたものだ。畑仕事をする日の普段着、店番をする時の仕事着、神殿に礼拝に行く時のちょっといい服、寝間着まで全部。母が仕立てる服はどれも着心地がよくて、いつだってロックの身体にぴったりだった。
「服に袖を通す時、着心地がいいなって思ってもらえたら。それから鏡の前に立つ時、昨日と違う自分を好きになってもらえたら。そういうささやかで、でも決して悪くはない幸せが、服にはあるの」
 それから母は小さなロックを抱き締めて、頬にそっと口づけた。
「仕立て屋はね、ささやかな幸せを差し上げるお仕事なんだよ」

 くすぐったくて甘酸っぱくて、とても切ない思い出だった。
 閉じていた瞳から涙が流れ落ちて、夢を見ていたことに気づいた。

「ロクシー、ロクシー!」
 すぐ近くでエベルの声がする。
 はっとして目を開ければ、涙に滲む視界を大きな黒い影が覆っていた。目元を拭おうと腕を持ち上げた時、肩口に鈍い痛みが走った。
「う……!」
「動かさない方がいい。随分と打ちつけたようだったから」
 エベルはそう言うと、深い安堵の息をつく。
「だが、よかった……。目覚めなければどうしようかと思っていた」
 それでロックは瞬きをして、浮かんだ涙を追い払った。
 覗き込んでくるエベルの顔が次第にはっきり見えてくる。尖った耳を気遣わしげに寝かせ、金色の瞳は内心を映すように揺れていた。毛むくじゃらで広い彼の肩越しには、見慣れぬ石造りの天井が見える。
「エベル、ここは……?」
 唇を動かすと、口の中で血の味がした。
 だが話せないほどの痛みはない。息を吸うと背中が軋む程度だ。
「秘密の隠し通路だ。前に来ただろう」
 エベルは抑えた声で答える。
「さっきまでいた執務室の奥にある。覚えていないか」
 それでロックはようやく我に返り、気を失う前の出来事を一瞬にして思い出した。
 グイドが彫像に秘められた呪いを解き放ち、人狼に成り果ててしまったこと。イニエルが、ヨハンナが、そしてフィービが次々と人狼に投げ飛ばされてしまったこと。そして――。
「み、皆は? あの後どうなったんですか?」
 ロックは上体を起こそうとしたが、人狼の大きな手に止められた。
「わからない。あなたを連れてここに逃げ込むので精一杯だった」
 力なくかぶりを振るエベルも、左耳の付け根に傷を負っていた。グイドに拳を叩き込まれた時に負ったものだろう。まだ乾ききっていない傷口は生々しく、あれからさほど時間が経っていないことを示していた。
「じゃあ、皆の無事も確かめないと――」
「私が行くから、あなたはここにいてくれ」
 言いかけたロックの言葉さえも遮り、エベルは静かに続ける。
「あなたは怪我をしている。動かない方がいい」
 そうは言われてもじっとしてはいられない。ロックは彼の毛深い手にしがみつきつつ、痛みを堪えて身を起こす。目立った出血はなく、節々は痛むが立ち上がることもできそうだ。
「僕も行きます」
 だから、そう申し出た。
「皆の無事も確かめたいですし、あの人のことだって心配です」
「グイドのことなら私が引き受ける」
 エベルはそこで語気を強めた。
「恐らくはまだ正気を失ったままだろう。彼を止めるのも私の務めだ」
「人手は多い方がいいでしょう。僕もお供します」
「駄目だ、危険すぎる」
 頑なに拒むエベルの口調には、どこか切実な胸中が窺えた。どうしてもロックを連れていきたくないらしい。
「初めての時はああいうものなんだ。正気を失い、自分が何者かさえもわからなくなる。私の時は父が止めてくれて、それで踏み止まることができたが――」
 辛そうな溜息は響く。
「グイドは私が……私こそが止めなくてはならない」
「責任を感じていらっしゃるなら、背負い込みすぎです、エベル」
 思わずロックが反論すれば、エベルは苦しげに少し笑った。
「つくづくあなたは優しいな。だが私の責任であることに変わりはない」
「そんな、もともとは呪いのせいでしょう!」
「それでもだ。呪われた身であるからこそ、その苦しみを他の者に味わわせてはならなかった」
 やはりエベルはグイドについて、自責の念に駆られているようだ。
「グイドが人狼に魅入られていたこと、私はもっと早く気づかねばならなかった。これ以上誰かに害なすことのないよう、グイドは私こそが止めなくてはならない」
 人とは違う形の拳をぐっと握り締め、エベルは声を震わせる。
「刺し違えても、必ず止める」
 不退転の覚悟を滲ませたその言葉が、ロックの胸に突き刺さった。

 グイドが呪いを受ける前、エベルが言ったことを思い出す。
『人狼になってもいいことなど何もない』
 それが彼の本音であることは疑いようもなかったが、同時に酷く切なかった。出会ってからというもの、ロックの前ではいつも明るく、前向きに振る舞っていたエベルの本心だ。あの笑顔や余裕の裏で自らの運命を嘆いていたのだとしたら――。

 ロックは仕立て屋だ。
 ささやかな幸せを差し上げる仕事だと、生前の母は言っていた。
 目の前にいる、たった今も苦しんでいる大切な人を幸せにする力が、ロックにだってあるはずだ。

「刺し違えても、なんて駄目です!」
 ロックはエベルの肩を掴むと、黒く濡れた鼻先に自分の顔を近づけた。
 呪われて金色の光る、けれど美しい瞳を覗き込む。
「エベルには僕がいるでしょう!」
 大きく瞠られたその瞳に向かって、強く訴えた。
「あなたがどんな人生を歩んできたか、僕は出会ってからのことしか知らないです。でも僕の前で笑ってくれた、楽しそうにしてくれたあなたは嘘ではないはずです。これからもっと楽しいこと、幸せなことがあります! 僕があなたを幸せにします! ですからこれからも、僕と一緒にいてくれなきゃ嫌です!」
 約束をした。
 以前注文を受けた外套は、心を込めて仕立てると。
 母の言うように、幸せを差し上げるのが仕立て屋の仕事なら、その外套に袖を通すエベルもきっとささやかな幸せを感じることだろう。新しい服の嬉しさも、ぴったりと身体に合う服の喜びも、そしてうっとりするような着心地のよさも、きっと彼を幸せにするだろう。
 もしかすればそれ以上のことが、仕事以上の幸せを贈ることが、ロックにならできるかもしれない。
「お願いです、僕も連れていってください」
 呆然と見つめ返してくるエベルに、ロックは尚も告げた。
「駄目だって言っても、無理にでもついていきます!」
 エベルだけではなく、フィービたちのことも気になる。
 グイドのことだって、心配だった。
「仕立て屋は幸せを差し上げる仕事だって、母が言ってました」
 店にはいろんな客が来る。いい客も嫌な客も。
 だがどんな相手でも、ロックはその幸せを願う。
「僕は誰の不幸も願ったりはしません。グイド・リーナスだって……あの人は、我に返ったらきっと苦しむでしょう。大勢を傷つけたこと、呪いをその身に受けたこと。でもだからこそ、ここで止めてあげなくちゃいけないんです」
 エベルがそうだったように、人狼の姿は永遠のものではない。時が経てばグイドは人に戻るのだろうし、その時に彼が何を思うかはわからない。エベルがそうだったように、呪いを受けた苦しみを味わうことになるのかもしれない。悔やみさえするかもしれない。
 我を失ったグイドを止めて、それで終わりではないのだ。
「もしも彼が自らの過ちを悔いた時、その時こそエベルの出番です」
 ロックはエベルの肩に置いていた手を、彼の頬にそっと添えた。
 人とは違う人狼の貌はどこまでもふかふかで、触り心地がよくて、ほんのりと温かい。見た目はこそ違えどその毛皮の奥に、人と同じような血が通い、命の営みがあるのだとわかる。
「人狼になって辛くても苦しくても、いいこともあるって、幸せだって、グイド・リーナスに教えられるのはあなただけです」
 それからロックは目をつむって、そっと顔を近づける。
 そして人狼の鼻先に、不器用ながらも口づけた。
「……僕があなたを幸せにします」
 確信している。
 ロックには必ず、それができる。
「だからあなたも、彼も、生きててくれなくちゃ駄目です」

 エベルはしばらくの間、息もできない様子でロックを見つめていた。
 金色の瞳を見開けるだけ見開き、尖った耳をぴんと立て、それこそ魅入られたようにぼんやりしていた。
 やがてその目が瞬いたかと思うと、大きな口をぎくしゃく動かす。
「……なぜ、鼻にした?」
「真っ先に聞くのそこですか」
 ロックは照れ隠しに顔を顰めつつ、答えた。
「今の大きなお口だと、どこにしていいのかわからなくて」
 人狼の黒い唇は横に大きく開いていて、触れ方が上手く掴めなかった。初めての口づけが血の味というのも微妙だ。
「かといってこの頬では、毛並みに埋もれてしまいそうですし」
 頬に添えた手で黒い毛皮をくしゃくしゃ揉むと、エベルは微かな苦笑を漏らした。
「では人に戻ったら、改めてして欲しい」
「それであなたが幸せだというなら、いくらでも」
「ああ、きっと生きてきた中で最高に幸せになれる」
 そして彼はロックの背中に手を添え、なるべく優しく立ち上がらせる。
 もう一度だけ見つめ合ってから、凛々しい声でこう言った。
「これからこの通路を抜けてグイドを見つけ出し、必要とあらば止める。私は人狼として、その生き方を彼奴に叩き込んでやろうと思う。ついてきてくれるな、ロクシー」
「もちろんです、エベル」
 ロックは迷いなく頷いた。
 胸中ではエベルの心変わりをこの上なく嬉しく思っていた。

 二人は屋敷内に張り巡らされた狭い通路を急いで抜けた。
 途中、ところどころで獣の咆哮や荒々しい足音、そして物が壊れるような音を壁や床越しに聞いた。その度にロックは、まだ姿の見えないフィービたちのことが心配になった。
 いくつかの曲がり角を曲がった後、突き当たりの通路でエベルが壁を動かした。
 するとその向こうに見覚えのある応接間が現れ、二人はそこへ降り立った。以前の訪問時に通された室内に、今は人の気配はない。窓の外はまだ暗く、星明かりを頼りに目を凝らせば、荒らされた形跡もないようだ。
「この辺りにはいないようですね」
 ロックの言葉に、エベルは耳をぴくぴくさせて答える。
「だが、誰かの走る足音がしている。これは恐らくグイドと……別の誰かだ」
 耳のいい人狼閣下は、屋敷内を駆け回る誰かの無事を察したようだ。
 もっともそれがこの先の無事まで保証するわけではない。二人は急いで廊下へ飛び出した。
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