我が愛しのフロリア嬢(1)

 ロックを眠りから覚ましたのは、頬をくすぐる柔らかい感触だった。
 身体をふかふかで温かい何かが包み込んでいる。憂鬱な明け方の肌寒さとも無縁の、実に心地いい寝床にいるようだ。
「ん……」
 いつもの寝台と違うことを疑問に思いつつ、ロックはゆっくりと目を開く。
 すると、視界いっぱいに飛び込んできたのは狼の貌だ。尖った耳、金色の目、黒く濡れた鼻、牙の生え揃った大きな口。
 その口が開いて、ぽかんとするロックに声をかける。
「おはよう、ロック。熟睡していたようだな」
 ロックがその身を横たえていたのは、あろうことか人狼の巨体の上だった。
「お……おはようございます、エベル」
 慌てて起き上がると、エベルはその口を更に大きく開け、見るも豪快なあくびをする。
「あなたの寝顔は大層可愛かった。こんな身でなければもっと楽しめたのだが……」

 それでロックの脳裏にも、昨夜の出来事がまざまざと蘇った。
 絶望の淵にいたエベルを慰めたくて、彼が寝つくまで傍にいようと思っていた――はずなのだが、どうやら自分の方が先に寝ついてしまったらしい。寝顔を見られてしまったのもそうだが、ぐっすり熟睡してしまったことが恥ずかしい。
 そして一夜が明け、ロックの小さな部屋にも朝の光が差し込んでいたが、エベルの姿は昨夜のままだ。

「まだ、戻れないのですか?」
 真っ先に尋ねたロックに、エベルは深く首肯する。
「ああ。あなたの推論がいよいよ真実味を帯びてきたな」
 人狼の呪いを秘めた彫像が、階下の古道具屋にあるかもしれない。確たる証拠はまだないが、だからこそ確かめる必要がある。
「では、朝のうちに行ってきます」
 この件を解決しないことにはエベルの身動きが取れない。ロックが決意を新たにすると、エベルは金色の目を細める。
「お願いしよう。今はあなただけが頼りだ」
 それからその目が寝起きのロックをとっくり眺めたかと思うと、ごくりと喉を鳴らした。
「昨夜も思ったが、寝間着のあなたは実に……垂涎ものだな」
 人狼はロックのしどけない寝間着姿、ことコルセットを外した胸元や裾から伸びる脚に熱視線を注いでいる。それに気づいたロックはうろたえ、身体を腕で覆い隠した。
「あっ、き、着替えてきます!」
 大慌てで立ち上がると、寝室から間仕切りの向こうに飛び出した。
 そこで布の仕切り越しに振り返り、寝床で頬杖をつく人狼に釘を刺す。
「こっち見ちゃ駄目ですよ!」
「善処しよう」
 エベルはしれっとそう答えた。

 彼の善処がどこまで当てになったかはさておき、ロックは寝間着を脱いでコルセットを身に着け、更にシャツとベストとスラックスでいつもの装いに戻った。
 それから二人分の朝食を用意する。
 と言っても相手は人狼、人とは違うその手ではまともに食事もできまいと考えたロックは、匙一つで食べられる麦粥を用意した。塩漬けの橄欖の実を入れたとろとろの麦粥を、エベルは匙より大きい木製のレードルで食べた。
「これほど美味い麦粥を食べたことはない。料理の才もあるとは、あなたの手は素晴らしいな」
「粗末なものですけど、お口に合ったならよかったです」
 伯爵閣下の賛辞を聞き、ロックは素直に安堵した。フィービ以外の他人に食事を振る舞ったのは初めてで、少々緊張していたのだ。
 朝食のひとときが和やかに過ぎた後、エベルはロックに尋ねた。
「昨夜、私が破いてしまった服はあるかな」
「はい、こちらに」
 ロックが拾い集めておいた――今となっては服だったものの残骸を差し出すと、人狼の耳がしょぼんと垂れた。
「また、あなたの作ってくれたものを粗末にしてしまったな……」
「あの状況では仕方ないでしょう。どうかお気になさらずに」
「そうはいかないが、まずは喫緊事から片づけるしかないか」
 エベルはぼろきれのような残骸の中から、唯一傷一つない財布を取り出す。
 そしてそれを開けることなく、そのままロックに手渡した。
「これを使って、彫像を回収して欲しい」
 受け取った財布はロックの手にずしりと重い。開けて中身を確認すれば、ぴかぴかの金貨がぎっしり詰まっていた。
「こ、こんなに……まさか全部ではないですよね?」
 庶民のロックがうろたえるのを、エベルは至って冷静に見つめている。
「全て使っても構わない。あれが他人の手に渡るよりはいい」
 エベルからすれば、彫像の回収は何物にも代えがたい最優先課題のようだ。
 しかし相手は貧民街で数十年商いをする老婆、生き馬の目を抜くような彼女に対し、重い財布をちらつかせての交渉は足元を見られるだけだろう。
「なるべく安くあげられるよう努めてみます」
 ロックはそう言って、財布を懐にしまう。
 するとエベルは金色の目を見開いた。
「自信があるのか?」
「僕も一応、ここで商いをやっておりますから」
 にっこり笑って胸を張る。
 道化の仕立て屋の、腕の見せどころだ。

 階下の古道具屋の主は、その名をセリーナ・トリリアンという。
 齢七十を過ぎているそうだが未だ矍鑠としており、自分の美貌に釣り合うだけの男がいなかったとして独身を貫いているとの噂だ。無知な傭兵の客が機嫌を取ろうと『トリリアン夫人』などと呼びかけようものなら、罵倒に次ぐ罵倒で叩き出されるという。
 店子のロックはそういった無礼を働いたことなどないが、なぜか家賃を払う時以外は挨拶すら返してもらえない。
「おはよう、トリリアン嬢」
 店に入るなり、ロックはそう呼びかけた。
 かつてフィービが『あの婆さんはこう呼んでやるのが一番喜ぶ』と教えてくれた通りの呼び方だ。
 もっともトリリアン嬢は開いた帳簿から面も上げず、もちろん返事も寄越さない。ロックも慣れたもので、構わず話しかけた。
「今日は客として来たんだけど、見てもいい?」
「……客?」
 ここで本日初めて、トリリアン嬢が声を発した。
 在りし日の美貌をしのばせる皺深い顔を顰め、落ち窪んだ目でロックを睨む。
「あんたが客で来るのは初めてじゃないかね」
 その言葉はまさしく事実で、ロックは見慣れない店の中をじっくり眺め回していた。黴の臭いがこもる中、どこから集めてきたとも知れぬ古道具が所狭しと並んでいる。ひびの入った瑪瑙の壺、天鵞絨の台座つきの水晶玉、曇ったガラスの中に紫色の砂を湛えた砂時計、分銅まで細かく彫刻を凝らした天秤など、収集家には堪らないであろう古めかしい品々がいくつも置かれていた。
「何を探してるんだい、小僧」
 そう呼び返されて、ロックは思わず苦笑した。
「遺跡で見つかった彫像ってある? 手のひらに乗る大きさの」
 まずは直截に尋ねてみることにする。所在を確認しないことには始まらないからだ。
 トリリアン嬢が片眉を上げる。
「そんなのいっぱいあるさ。具体的には?」
「大口を開けて牙を見せてる狼の貌が彫り込まれた像。白い石灰石でできているはずなんだけど」
 事前にエベルから聞いていた情報をそのまま告げれば、ふんと鼻を慣らされた。
「耳が早いね、小僧。あんたもそれ目当てとはね」
「あるの?」
「あるさ。ただ悪いけど、貧乏人にゃ売らないよ」
 トリリアン嬢の落ち窪んだ目が、ロックを値踏みするように光る。
「あれはいい値がつくらしいからね。あんたもそれ聞いて探してんだろ?」

 呪いの彫像を探している者が、どうやら他にもいるらしい。
 金払いのいい客のようだが、エベルではないのだろうか。彼はまだ一つしか彫像を見つけていないと言っていた。見つける当てがあるという物言いもしていなかった。
 となると、一体誰が。

「トリリアン嬢は誰に売る気なの?」
 気になったロックは、突っ込んで尋ねてみた。
 話を聞く限りでは趣味のいい彫像でもないし、好きこのんで集めたがるのは相当の物好きだけだろう。呪いのことを知らないで手に入れようとしているのなら危険極まりない話だ。
「一番払いのいい客さ」
 返ってきた答えは単純明快だった。
「じゃあ、狙ってるのは一人じゃないってこと?」
 更に問い質せば、トリリアン嬢はたちまち口を噤み、疑わしげにロックを見やる。
「小僧、あんたはどうなんだい。売る当てがあるから探してんだろう?」
 そして探りを入れ返してきた。
 ロックは少し迷ってから、正直に答える。
「僕は売りたくて探してるんじゃないんだ。そいつを壊したがってる人がいるから、その人の使いで来た」
「壊したがってる?」
「知らないの? その彫像、呪いがかかってるんだよ」
 わざとらしく声を潜めると、またしても鼻で笑われてしまう。
「脅かそうとしても無駄さ。あんたにゃ売らないよ」
「嘘じゃない。人を人狼に変えてしまう呪いなんだ。彫像を見たなら、狼の貌をしてるのも知ってるはずだよ」
 ロックは尚も脅かしにかかる。
「その呪いをうっかり解き放ってしまうと、トリリアン嬢だってその美貌が狼に変わってしまう。耳は尖って眼光は鋭く、口なんて裂けたみたいに大きくなって、牙がびっしり生え揃うんだ。腕も丸太みたいに太い、全身黒い毛むくじゃらの人狼になる」
 何せ今朝も見た顔だ。情感たっぷりに語り聞かせれば、トリリアン嬢はにわかに薄気味悪そうな顔をした。
「見てきたように言うじゃないか。人狼だって?」
「この辺りに出るって噂を聞いたことあるだろ。僕は実際に呪われた人を見た。かわいそうだったよ」
 見たどころか今もってこの店の階上、借りているロックの部屋に滞在しているのだが、大家は知る由もない。
「だから壊さなきゃ駄目なんだ。僕に売ってよ、トリリアン嬢」
 そう訴えると、大家は信じがたいというように首を竦めた。
「それを信じてあんたに買い叩かせろって? 馬鹿じゃないのかね」
「買い叩きはしない。ちゃんとそれなりの額を払うよ」
「いくら出すか言ってごらん」
「金貨十枚でどう?」
 試しに買い叩いてみれば、案の定トリリアン嬢はそっぽを向いた。
「帰んな」
 もちろんロックは引き下がらない。
「十五枚なら?」
「駄目だね」
「二十枚は?」
「まだ足りない」
 金貨を積むだけでは首を縦に振らない気配だ。
「でも僕が諦めたら、トリリアン嬢は他の売り手を探さなきゃいけないだろ? そんなにすぐ見つかるとも思えないけど、その間、大丈夫? うっかり呪われたりしない?」
 脅かす方が手っ取り早そうだと、ロックは再び切り出した。
 トリリアン嬢がたちまち笑みを引きつらせる。
「呪いなんて……そもそも人狼もただの噂だろう。本当にいるわけがない」
「いるよ」
 ロックは強調するように笑みを消し、できる限り低い声で続ける。
「僕は噛まれたんだ。飛びかかられて床に倒されて、大きな口で噛みつかれたよ。牙がびっしりと、ここからここまで突き立てられた」
 指先で自らの肩をなぞり、人狼の口の大きさを訴える。
 その記憶はエベルに言わせれば『口づけ』の時のものなのだが、まさか実体験として語る機会が来るとは。
「人狼はいる。じゃなきゃ、皆の噂になったりしないだろ」
 真っ直ぐにトリリアン嬢を見つめ、ロックは畳みかけた。
「他の探している奴の目的はわからない。でも、こんなものを持ってたらトリリアン嬢、あなたが危ない」
 老婆はその眼差しから真実味を読み取ったのだろう。ぶるりと痩身を震わせた。
「僕がその彫像を壊してくれる人に引き渡す。トリリアン嬢は呪いの心配もなく、すぐに現金を手に入れられるんだ。どうかな」
 駄目押しのように言い添えた言葉に、トリリアン嬢は意を決したようだ。
「確かに、妙な像だとは思ってたんだよ。じっと見られてるみたいな気がしてさ」
 心当たりがあるように呟くと、それでも矜持を保とうと言い添える。
「けど、金貨三十枚だね。そのくらいの価値はあるんだから……」
「いいよ、三十枚ね」
 言質は取ったとばかりにロックは即答した。
 そして老婆が店の奥から彫像を持ってきて、それをカウンターに置いた後、エベルの財布から金貨を三十枚、きっちり数えて手渡した。
 その財布にまだまだ金が詰まっているのを見るや、トリリアン嬢はしまったという顔をする。
「小僧、もっと出せたんじゃないのかい」
「僕の金じゃないからね、無闇には払えないよ」

 かくしてロックは彫像を手に入れた。
 白い石灰石でできたその像は、確かに牙を剥く人狼の顔が彫られていた。石を削り出しただけの素朴な造りだが、彫刻自体は実に見事に人狼の造形を捉えている。トリリアン嬢の言葉通りどことなく不気味な趣があり、今は手にしたロックの顔を黙って見つめているようだ。
 ロックはその顔を見るのが嫌で、さっさと懐にしまい込む。

 一方のトリリアン嬢は、彫像を手放した途端に惜しくなったらしい。
「呪いの話、本当なんだろうね。嘘だったら追い出すからね」
 強欲にも睨みを利かせてきたので、ロックは苦笑いで応じた。
「じゃあ証明してみる? ここで呪いを解き放つとか――」
「冗談じゃない!」
 ぶんぶんかぶりを振った老婆は、しかし腑に落ちない様子を見せている。
「あんた、あの男に似てきたね。調子のいいこと言ってあたしから巻き上げるところ、そっくりだよ」
「誰のこと?」
 心当たりがなく聞き返せば、トリリアン嬢は眉根を寄せた。
「あんたがフィービって呼んでる男さ」
 しかしロックはフィービを男だと思ったことがなく、笑いながら彼女を諌めた。
「彼女をそういうふうに呼んじゃ駄目だよ」
「知るもんか。昔はとびきりの美男子だったのに、何を血迷ったんだか」
 トリリアン嬢のぼやきにはどこか執着めいた、非常に残念そうな響きがある。
 ロックはふと気になって、帰り際に尋ねてみた。
「ね、フィービって昔、傭兵だったんだよね?」
 だがトリリアン嬢は犬を追い払うように手を振った。
「いいから出ていきな。あたしの気が変わらないうちに」
「これだけは聞かせてよ。フィービ、ここのお得意さんだったの?」
「ああそうだよ。あんたよりよっぽど逞しくて、いい男だったさ」
 噛みつくように言ったトリリアン嬢が、その後で溜息をつく。
「あんたも少しは鍛えて、あたし好みの男になりな。可愛がったげるよ」
 在りし日のトリリアン嬢はフィービにご執心だったようだ。落ち窪んだ目からの流し目に、ロックは思わず後ずさりした。
「ぼ、僕は今のままでいいから!」
 それだけ言い残すと、一目散に古道具屋を逃げ出した。

 次にロックが向かったのは、市場通りにある自分の店だ。
 手に入れた彫像をどこかへ隠しておく必要がある。店の金庫なら適当だろう。
 ついでに、エベルが元に戻れる可能性を考え、新しい服を持っていかなくてはならない。