我が愛しのフロリア嬢(2)

 店に立ち寄った後、ロックはエベルの着替えを携え、来た道を戻った。
 そして自分の部屋がある古道具屋の前へ差しかかった時だ。トリリアン嬢が待ち構えていたように飛び出してきた。
「ちょっと小僧、何の騒ぎだい!」
「えっ、何が?」
 ロックが足を止めると、すかさず詰め寄ってきて睨みを利かせる。
「あんたの部屋! 朝っぱらからうるさいったらありゃしない!」
 そう言うが、部屋にいるのはエベル一人きりのはずだ。彼がたった一人で大騒ぎするとは思えない。しかしトリリアン嬢は実に迷惑そうなそぶりで、彫像を持っていかれた腹いせというわけでもないらしい。
「僕はたった今戻ってきたところだよ」
 ロックが正直に答えると、
「じゃあ、あんたの留守にあの男が上がり込んだんだろうさ」
 トリリアン嬢は聞き捨てならないことを言い、
「あの男――まさかフィービ!?」
「他に誰がいるんだい。あんまりうるさくしたら来月から家賃三倍に――って小僧! まだ話は途中だよ!」
 その時点でロックはトリリアン嬢を振り切り、部屋に続く階段を駆け上がる。

 大事なことを失念していた。
 ロックの部屋はフィービの口利きで借りたもので、後見人としての立場上、彼女も合鍵を持っていたのだ。普段はその鍵でお裾分けの食べ物や石鹸を置いていってくれたり、ロックの仕事が忙しい時には食事を作っておいてくれたり、風邪を引いた時には看病もしてくれた。ロックにとってのフィービは今や唯一身内と呼べる存在であり、いつもなら不意の訪問を歓迎していた。
 だが今朝ばかりは困る。何せ部屋には人狼閣下がおいでだ。いかに歴戦のフィービとは言え、あの人狼を見て平静を保てるはずがない。あるいは生来の勇猛さで、人狼に飛びかかろうとさえするかもしれない。

「フィービ!」
 ロックが部屋へ転がり込むと、そこには予想だにしない光景が広がっていた。
 まず、フィービがいた。美しい顔を怒りに紅潮させ、栗色の髪を振り乱し、歯を剥き出しにして荒い息を吐いている。今にも掴みかからんと広げた両手は、長椅子に座るエベルに向けられていた。
 一方のエベルは、鳶色の髪に端整な顔立ちの、立派な青年伯爵の姿をしていた。どうやら無事に戻れたようで、上半身は見事に裸であり、腰から下は毛布で覆い隠して座っている。フィービを見上げる金色の目は困惑気味だったが、いち早くロックに気づいて表情が安堵に緩んだ。
「ああ、ロック。いいところに帰ってきてくれた」
 するとフィービも振り向いて、たちまち悲嘆に暮れた顔になる。
「ロック、あんたまさかこの男と……!」
 恋愛沙汰には疎いロックだが、何を誤解されているのかはわかった。
 恐れていた事態とは異なってはいるが、これだって大事である。
 テーブルの上にはリンゴとチーズを納めた籠が置かれていて、フィービはこれを届けに来たのだろうと察した。ドアを叩かれた時、エベルは間違いなく居留守を使ったのだろうし、フィービもそれならばと合鍵を使い、食べ物だけ置いていこうとしたのだろう。その後に起きた大騒動は想像してみるまでもない。
「ち、違うんだよフィービ。これには訳があって!」
 うろたえるロックが弁解しようとすれば、フィービはつかつかと歩み寄ってきて、その細い肩を掴んだ。
 そして顔を覗き込むなり、まるで叱るように言い放つ。
「何でもっと自分を大事にしないの!」
「え、ええ……?」
「結婚前に手ぇ出すような男なんて、大抵ろくなもんじゃないんだから!」
 フィービは酷く怒っているようで、ロックの肩を掴む手は小刻みに震えている。燃え上がる青い瞳に射竦められ、ロックは恐る恐る反論した。
「だから誤解だって、手出されてないし……」
「じゃあ何で閣下が朝っぱらからここにいるのよ!」
「ゆ、昨夜はちょっといろいろあって、泊まってってもらったんだ。でも何もなかったよ! 本当!」
 嘘ではない。おおよそは。
 だがフィービはロックのわずかな迷いを読み取ったかのように、低い声で尋ねた。
「閣下が全裸でいらっしゃるのに、何もなかったですって……?」
「いや、それはその」
 確かに無理のある説明だ。ロックが部屋を出ていく前は裸ではなかったのだが――厳密には裸だったが、毛皮で覆われていた。その毛皮が掻き消えた今、エベルの姿は誤解を招くものでしかない。
 ロックが困り果てると、そこでエベルが口を挟んだ。
「私も先程から説明しているのだが、一向に聞いてもらえないんだ」
 するとフィービも振り向いて、この上なく鋭い眼光を彼に突き立てた。
「黙ってろ! 他人の部屋で素っ裸の男に説明も何もあるか!」
 普段の彼女らしからぬ剣幕に、ロックの方が気圧されてしまう。
 しかしこのままでは事態も拗れる一方だ。何か言わねばと、弱々しく言い返した。
「裸なのは事情があって、ほら、服が破けちゃったんだよ」
 そうして部屋の隅に積まれた、エベルの服の残骸を指差す。
 フィービも一応はそちらを確かめたが、むしろ不審そうに眉を顰めた。
「何をどうしたら服があんなになるのよ」
「えっと、それは――」

 それは言えない。
 なぜならエベルの秘密に関わることだからだ。
 その上、言ったところでフィービがすんなり信じてくれるとも思えない。ロックだってその目で見るまでは、あの店にエベルが訪ねてくるまでは、人狼の存在なんてただの怪談の類だろうと思っていた。

 言葉に詰まるロックを見かねたのだろう。
「――ロック」
 そこでエベルが声を上げ、全裸とは思えぬ冷静さで語を継いだ。
「あなたはフィービのことを信頼しているのだったな」
「え? ええ……」
 唐突な問いに、ロックは戸惑いつつも頷いた。
 彼女の憤りは自分を案じ、気遣っているからこそだとわかっている。フィービが日頃どれだけ自分を大切にしてくれているかも知っていたから、その怒りも考えてみればもっともだ。だからこそロックも、どうにかして彼女の誤解を解きたいと思っているのだが。
「フィービは僕のことを心配してくれてるだけなんです。エベル、お騒がせしてすみません」
 ロックが詫びると、フィービは毒気を抜かれたように鼻を鳴らす。
 そしてエベルは柔らかく微笑み、こう言った。
「彼女の誤解ももっともだ。それを解く為にも、真相を明かしてしまう方がいいと思うのだが、どうかな」
「エベル、まさか!」
 ロックは慌てたが、エベルの表情はこの事態をどうにかして打開しようと言う真剣さで溢れている。一片の迷いもないようだ。
 それでロックもフィービに向き直り、訝しげな彼女に言い聞かせる。
「あ、あのさ、フィービ。びっくりしないで欲しいんだけど……」
 フィービはそれを違う秘密の告白だと思ったのか、ごくりと喉仏を上下させた。
「な……何よ。言っておくけどあたしは、閣下が正式な婚約をするというまでは一切認めないわよ。こういう手合いはしっかり言質を取らないと、手を出されて光栄だろうと言いたげに逃げやがるんですから――」
「そうじゃなくて!」
 二人の会話をよそに、エベルが長椅子からゆっくりと立ち上がる。
 腰を隠していた毛布が落ちるより早く、均整のとれた青年の肢体は真っ黒な毛に覆われ、質量を増して膨れ上がった。鳶色の髪も端整な顔もその毛並みに呑み込まれるように変貌し、ロックが瞬きする間に、屈強な人狼が姿を見せる。
「この姿で納得してもらえるだろうか、フィービ」
 牙が覗く大きな口からは想像もつかないような、静かで、穏やかな声が呼びかける。
 だが当然、フィービは息を呑んだ。
「何事!?」
 そう叫ぶなりロックを庇うように背中へ隠し、着ていたドレスの裾を蹴り上げるようにまくった。そしてブーツに着装していた鞘から小型の短剣を抜くと、それを握って身構える。
「あんた……何なの?」
「私は人狼だ、フィービ」
 短剣の切っ先を向けられても、エベルは全く動じなかった。
 人の姿の時と唯一変わらぬ金色の目で、見定めるようにフィービを捉えている。
「父がかつて蒐集していた人狼教団の彫像、あれの呪いを受けたが為に、こうして人狼に化ける力を得た」
「人狼の、彫像ですって……?」
 その時、フィービは目に見えて動揺した。
「そうだ」
 エベルは人狼の顔で頷き、それから微かに笑ったようだ。
「ロックとは、私がこの姿で彷徨っている時に出会った。ちょうど今と同じように服を破いてしまって、元に戻ろうにも着る物がなかった。その時に仕立て屋の看板を見つけ、迷いながらも訪ねたわけだ」
 金色の瞳がゆっくりと細められ、フィービの背後に隠されているロックを見やる。
「ロックは私にとても優しくしてくれた。どう見ても化け物の私に、しかも無一文のところに服を売ってくれたのだ。その運命的な出会い以来、私は虜になっている」
 それはロックの記憶とも概ね合致している。
 初めて見た人狼相手に『優しく』できていたかどうか、いまいち自信はなかったが。
 ともあれ、フィービは短剣を構えたまま疑わしげに吐き捨てる。
「嘘ね」
「神に誓って嘘ではない。少なくとも今語ったことに、私は何一つ嘘をついていない」
 エベルがそう言い切ると、フィービは数瞬ためらってからロックを振り返った。
 すかさずロックも保証した。
「本当だよ。エベルは人狼だけど怖くないし、人を食べたりもしない」
「あたしはそこを心配してるんじゃないんだけどね」
 フィービが顔を顰めたからか、エベルも静かにかぶりを振る。
「無論、あなたの大切なお嬢さんに手を出したりもしていない」
 そこでフィービはエベルをきつく睨んだが、ひとまず短剣は引っ込めた。ブーツの鞘に戻した後、大きく溜息をついてみせる。
「事情は大体わかったわ。閣下が人狼になってしまって、着る服がなかったからやむなく泊めたってことね?」
「そう! そうなんだよ、フィービ!」
 言いたいことがようやく伝わり、ロックは心底ほっとした。
 だがフィービはほっとするどころではなく、どこか物憂げにエベルを見ている。
「けど、さっきの化け方を見る限り、閣下はご自分の意思で人狼になれるようじゃない。何だって服が破けるような化け方を、この子の前でしたのかしらね」
「さすがはあなただ、鋭いな」
 エベルはフィービを称賛した後、毛むくじゃらの肩を竦めた。
 そしてロックに向かって尋ねてきた。
「ロック、下の店に例の彫像はあったか?」
「はい。多少お金は使いましたが、無事に回収しました」
「よくやってくれた、ありがとう」
「彫像は僕の店の金庫に、鍵をかけてしまってあります」
「後で使いをやることにしよう。重ね重ね、感謝している」
 一つ一つの答えに満足げに頷いてから、その会話に顔を顰めているフィービに告げた。
「あなたにも話しておこう。私に呪いをかけた彫像、あれはどうやら一つきりではなかった」
 フィービは何も言わない。
 険しい横顔を、ロックは背後から覗き込むように見上げていた。
「しかもあれが近くにあると、人狼の力は自制が利かなくなるようだ。昨夜の私は意思に反して人狼の姿になってしまった。件の彫像が、この部屋の下の古道具屋にあったからだ」
「トリリアン嬢の店ね。あり得ない話ではないわ」
 そこでフィービは低く唸り、エベルを真っ直ぐに見据える。
 その視線を真っ向から受け止め、人狼はゆっくりと瞬きをした。
「あなたはあの彫像を見たことがあるはずだ、フィービ」

 ロックにとって、それは驚きの言葉だった。
 思わず口を開いて、彼女に尋ねた。
「そうなの、フィービ?」
 フィービは唇を引き結び、しばらくの間逡巡していたようだった。その間も瞳は人狼から逸らさず、ロックを背中に庇ったまま、呼吸さえ慎重に繰り返していた。
 重い空気だけが流れる時間が行き過ぎた後、
「……そうよ」
 やがて、フィービは認めた。
「だってその彫像は――少なくともマティウス家に持ち込まれたものは、フレデリクス・ベリックが見つけたんですもの」
 更なる驚きの言葉を叩きつけられ、ロックは大きく目を瞠った。
「父さんが?」
 傭兵だった父が遺跡に潜り、見つけた彫像がエベルに呪いをもたらした。
 その事実を、ロックはすぐには受け入れられない。呪いは父のせいではない、そう思いたかったが――。
「ロック。あなたのお父上のせいではない」
 エベルもその心中を察し、そう言ってはくれたのだが。
「呪いを解き放ったのは私の父だ。興味本位で試しさえしなければ、こんなことにはならなかった。全ては我々の責任であって、あなたと、あなたのお父上には関わりのないことだ」
 彼は言うが、ロックにはそうは思えない。
 むしろ彼との出会いさえ、その呪いの因果で導かれたもののように見えてくる。
「父がそれを見つけなければ、あなたは……」
 ロックが言いかけた言葉を、エベルはかぶりを振って遮った。
「そうではない。お父上が見つけなければ、他の傭兵が見つけていたことだろう」
「そう、でしょうか。でも」
 戸惑うロックに対し、帰ってきたのは限りなく優しい声だった。
「あえて、これが運命だと思ってくれると嬉しいのだが。私とあなたは、出会うべくして出会ったのだと」

 そしてそれに対し、フィービはずっと黙っていた。
 エベルの出方を窺うように、彼から目を逸らさないまま。