男装婦人の恋と憧憬(6)

 ロックの部屋は一人で暮らすには程よい狭さだ。
 真四角の一部屋を居間と寝室に分ける為、天井から大きな布を吊るして間仕切りにしている。窓が一つしかないので光を透かす薄布を使っていたが、こうして来客があると間仕切りとしては不十分だったとロックは思う。

 ランタンを手に居間へ戻り、ふと寝室を振り返れば、薄布越しに寝台とその真横に作ったエベルの為の寝床が透けて見えた。
 寝る前に着替えをしようと思っていたロックは、当然ながら困惑した。
「エベル。服を着替えるので、こちらを見ないでいただけますか」
 彼に注意を促すと、毛布にくるまった人狼がもぞもぞと身じろぎをする。
「そう宣言をされると、かえって気になってしまうのだが」
「ではお気になさらないでください。信用しております」
 脅しのように言ってから、ロックはランタンを足元に置き、着ていた服を脱ぎ始めた。
 仕立て屋のベストとシャツ、スラックスを脱ぎ、胸を押さえつけていたコルセットも外す。これをつけたままでは苦しくて快眠の邪魔になるからだ。エベルの前でコルセットを外すのは危険なようにも思えたが、寝間着を着て毛布を被れば気づかれはしないだろう。
「ふう……」
 締めつけのない貫頭衣の寝間着をまとうと、その心地よさに溜息が漏れた。
 一日の終わりに着ていたものを全て脱ぎ、寝間着に着替える瞬間がロックは好きだった。息苦しい締めつけから解放され、後は安らかな眠りに落ちるだけというひとときには、誰でも至福を覚えるに違いない。
 とは言え今夜は、すんなり眠れる気がしなかった。

 寝る支度を終えたロックは、ランタンを持って寝室へ向かった。
 薄布をくぐって寝台に上ると、その隣の寝床でエベルが毛布から顔を出す。
「まだ起きていたんですか?」
 ロックの問いに、エベルは尖った耳をぴくぴく動かした。
「あなたが立てる衣擦れの音が、気になって仕方がなかった」
「耳がいいと大変なようですね、エベル」
「全くだ。しかし、あなたの寝間着姿は普段と違う魅力があるな」
 金色の瞳を眇めるようにして、人狼は横になったままロックを見上げる。
「あまり見ないでください」
 ロックは逃げるようにランタンの火を消した。煌々と照らされていた寝室はたちまち深い闇に沈む。
「ほら、明かりを消しました。お休みになってください」
 慣れない目を凝らしつつ声をかければ、闇の中に小さな金色の光が二つ、時々瞬きながら浮かんでいた。
 エベルがそこにいるのだとわかる。なぜか少し、ほっとする。
「正直なところ、眠れる気がしないのだが……」
 表情までは見えないが、困ったような声が聞こえた。
 ロックは毛布を引き寄せながら、光る双眸に尋ね返す。
「お気持ちが落ち着かないのですか」
「ああ。胸がざわめいてまるで落ち着けない」
「難しいことでしょうが、あまり考えないようにするべきです」
 気遣うつもりでロックは告げた。
「夜が明けたらすぐにでも古道具屋に駆け込みますから。それまで休んでおいてください」
 それで全て上手くいくと決まったわけではない。
 そもそも件の彫像が、階下の店にあると判明しているわけでもない。
 だがロックはわずかな可能性にも縋りたい思いだった。エベルをこのままにしてはおけない。彼が珍しく打ちひしがれているなら尚のことだ。
「……ありがとう」
 少々戸惑い気味に応じたエベルが、その後で笑ったようだった。
「どちらかと言えば、あなたが刺激的な格好で隣にいるから、眠れそうにないのだが」
 その境遇を案じて心配をすればこれだ。
 途端にロックは呆れ、
「心配して損しました!」
 冷たく言い放つと、寝台の上でエベルに背を向ける。そのまま毛布を引っ被り、ふて寝を決め込んでやろうと思う。
 するとエベルの切なそうな声が、毛布を羽織る背中越しに聞こえた。
「怒ったのか? 悪かった、頼むからこちらを向いてくれ」
 室内は明かりを消していて、ロックが背を向けているかどうかなど、普通なら見えないはずだった。
 普通の人間なら。
 思わず起き上がったロックは、闇に光る目を見下ろして聞き返す。
「僕が見えるんですか?」
「狼は夜目が利く。あなたの姿はこうしていてもよく見える」
「目もいいんですね……。なら、こっちを見ないでください」
 ロックが毛布を掻き抱いて胸元を隠すと、金色の双眸がふっと消えた。目をつむったのか、あるいは顔を伏せたようだ。
「これでいいか?」
 随分と素直に従ったものだ。ロックは改めて寝台に横になり、いくらか機嫌を直して応じる。
「ええ」

 光が消えた寝室は、それからしばらく静まり返っていた。
 ロックも目を閉じ、眠りに入ろうと試みる。
 だが胸がざわめいているのはロックも同じで、普段ならとうに訪れているはずの眠気が一向にやってこない。目をつむっていても、隣で眠るエベルのことを考えてしまう。
 当て推量の可能性を口にした時、ロックの頭にあったのは、彼を元気づけたいという一心だった。
 エベルが落ち込む姿を見たのも初めてではない。服を破いてロックに叱られた時、シャツに鉤裂きを作ってしまった時、彼はまるで素直な子供のようにしょげてみせる。だが今夜のはそれとは違い、絶望している様子に見えた。
 その絶望を、明日には晴らすことができるだろうか。
 そもそもロックの仮説は当たっているのだろうか。もし、あの店に駆け込んでもそれらしきものが見つからなかったとしたら――。

 考えれば考えるほど、深く暗い方へ落ちていく。
 やがて耐え切れなくなったロックは、眠るのを一旦諦め、目を開けた。
 そして何気なくエベルのいる方を見やると、寝室の床近くには二つの小さな光が爛々と瞬いている。おまけにロックが振り向いた途端、その光が挙動不審にうろうろさまよい始めた。
「起きてたんですか?」
 誤魔化そうとするそぶりがおかしく、笑いを堪えてロックは尋ねた。
 すると瞳の動きが観念したように止まり、おずおずと声がする。
「その……済まなかった。眠れそうになくて、つい」
「僕もです。何かお話でもしましょうか」
 そう誘ったのは、ともすれば落ち込みそうになる気分を紛わせたかったからだ。
 すると金色の瞳はゆっくりと瞬きをしてから、長く、深い息をついた。
「ロック、それでは私の話を聞いてくれないか」
「構いませんよ」
「ありがとう」
 礼を言った後、エベルは限りなく優しい声で切り出した。
「初めて会った時のことを覚えているか?」
「僕の店に、あなたが今のお姿で現れたのでしたね」
「ああ。あの時はあなたの歳も知らず、少年と呼びかけてしまったな。失礼をした」
 それはエベル以外の者でもよくする間違いだ。声が高く、背丈もさほどない痩せ細った『男』では、大人と認めてもらう方が難しい。
「よくあることです。気にしていませんよ」
 ロックの答えに、エベルは苦笑したようだった。
「そうはいかない。あなたのように可憐な人を少年呼ばわりとは、侮辱にも等しい」
 その言葉には、ロックは答えなかった。
 エベルが真実を掴んでいるのだとしても、まだ認めるつもりはない。そうすることで自分は、何かを失くしてしまう気がするからだ。何かはわからないが――。
「思えばあなたと私は少し似ているな」
 返事を待たずにエベルは続けた。
「お互い、自らを偽ることで平穏な暮らしを得ている。あなたの事情はわからないが、この辺りで店を営むなら必要なことなのだろう。私もそれは正しい判断だと思う」
 黙りこくるロックの耳に、あくまでも優しく語りかけてきた。
「私の想いは前に打ち明けた通りだ。あなたが男でも女でも構わない」
 何度も聞いた。
 その度に、困った方だと思った。
「無論、どちらの方がより嬉しいという思いはある。だが、あなたが何者であってもこの気持ちが変わることはない」
 エベルはそこまで語ると、一度ためらうように言葉を途切れさせた。
 ごくりと喉が鳴るのが聞こえ、それから彼は言った。
「あなたはどうだろうか。私が仮に人狼のまま、人には戻れなくなったとしたら、それでも私の愛の言葉に耳を傾けてくれるか?」
 らしくもなく、弱気な言葉だった。

 ある意味では彼らしい物言いでもある。彼の愛の言葉にロックがこれまで『耳を傾けていた』かどうかは微妙なところだ。
 だが普段なら強気に愛を囁くばかりの彼が、今夜はいつになく控えめに思いの丈を告げてくる。
 そのことが彼の内側に潜む不安をより顕著に表していた。
 人に戻れないかもしれない。エベルはその不安を、ロックよりも強く抱いているのだろう。
 ずっと、人狼であることを誇ってきたはずの彼が。

 ロックは胸が締めつけられる思いで、寝台の上に身を起こした。
 そして暗闇の中に手を伸ばすと、光る二つの金色の目の上辺りをそっと撫でてみた。ふかふかの毛並みの外にくにゃっと柔らかい耳の感触があり、彼の頭に触れているのだとわかる。
「何を……」
 エベルは怪訝そうなそぶりの割に、心地よさげな声を立てている。
 そんな彼に、ロックは言い聞かせた。
「不安がらないでください、エベル」
 上手い慰めの言葉など思い浮かばない。だが彼が不安がっているのをそのままにはしておけなかった。
「あなたが人であろうと人狼であろうと、僕が知っているエベルであることに変わりはないですよ」
 ロックはまだ、エベルのことを多くは知らない。
 だが、そのわずかな知っていることだけで、ロックはエベルを救いたいと思う。
 彼の気持ちを楽にしてあげられたら、少しでも休ませてあげられたらと思う。
 それもやはり、よく似た者同士だからだろうか。
「だから、あまり考えては駄目です。今夜はちゃんと休みましょう」
 耳と耳の間の、毛足の長い辺りをくしゃくしゃ撫でてやると、エベルは心地よさそうな息をつく。
「ああ……。そうしようか」
 それからエベルは毛むくじゃらの手でロックの細い手首を掴み、
「ロック、一つだけ頼みがある」
「何ですか? ――わあっ」
 人狼の腕力でロックを寝台から引きずり出した。
 ごろんと転がり落ちた先は柔らかな体毛の人狼の上で、落下の衝撃も痛みもなかったが、いきなりのことにロックは声を上げかけた。
「エベル! あなたはいつも強引に――」
 だがその抗議の声を遮るように、エベルは両腕でロックを抱きすくめる。
「……わかっている。だが今宵は傍にいて欲しい」
 人よりはるかに大きな体躯が、今は小刻みに震えていた。
「私が眠るまででいい。あなたの温もりに縋ることを許して欲しい」
 切実そうに懇願されてしまうと困る。撥ねつけることができない。つけ込まれている気がしなくもないのだが、だからといって彼を放ってはおけない。
 それでロックは、人狼の腕の中で首を竦めた。
「あなたが寝つくまででいいなら」
「ありがとう、ロック」
「信用していますからね。変なことをしたら抓りますよ」
 釘を刺したのが聞こえているのかどうか。急造仕立ての寝床の上で、エベルが尻尾を振り回すぱたぱたという音がしていた。

 結論から言えばこの夜、先に寝ついたのはロックの方だった。
 何せ、毛並みの美しい人狼の腕に抱かれての就寝だ。上等な毛皮に包まれているような心地よさに加え、積もり積もっていた疲労の前に警戒心はあっさりと陥落した。暖かな寝床で次第に重くなっていく瞼を支えることはできなかった。
 おまけにエベルは、まどろむロックの髪をずっと撫でてくれていた。鋭い爪を櫛代わりに、傷一つつけない優しさで梳き続けてくれた。押し寄せる眠気のせいだろうか、ロックはそれが嫌ではないどころか、とても幸福なことに思えている。
「初めて人狼になった夜、私は冷たい床の上で、たった一人で眠りに就いた」
 エベルはロックの髪に触れながら、静かな声でそう語る。
「父は酷く取り乱していたからな……ルドヴィクスがきつい酒を飲ませなければならないほどだった。私は暴れ出さぬよう隔離され、孤独な一夜を過ごしていた。翌朝には元に戻っていたから、心細かったのはあの夜だけだったが――」
 ロックは彼の記憶を、浅い眠りの中で聞いていた。
「今宵はあの夜のことが蘇って、どうしようもなかった」
 辛い思い出話に違いないのに、エベルの声はどこか幸せそうだ。
「あなたがいてくれて、今の私は救われている。ありがとう……」

 その声を聞いていると、ロックまで満たされていくのがわかる。
 どうしてかはわからない。ただ、エベルには幸せであって欲しかったし、いつものように前向きであって欲しかった。
 彼のことをよく知っているわけではない。もしかすれば今夜のように、古い記憶に身を震わせる姿が彼の本質なのかもしれない。そうだとしても、明日には彼の憂いが拭い払われ、笑っていてほしいと願わずにはいられなかった。
 そんな気持ちを抱く相手は、これまで母と、フィービの他にはいなかった。
「いい明日がやってきますように」
 眠りに落ちていきながら、ロックはエベルの胸に囁く。

 寝床の上で抱き合う二人は、事実よりも一足早く、仲睦まじい恋人同士のようだった。