人狼屋敷の甘美な記憶(1)

 翌朝、ロックはあくびをしながら店を開けていた。
 空に昇る太陽は帝都全域に朝の光を振りまいて、ガラクタでできた貧民街さえもその恩恵にあずかっている。だが寝不足のロックに朝日は眩しすぎて、店の前を箒で掃くのも辛いほどだった。結局、掃除もそこそこに『フロリア衣料店』にこもり、カウンターで頬杖をついている。
 思い出すのは昨夜の出来事ばかりだ。
 エベルとの一部始終が、一夜明けた今でも鮮明に蘇る。
「……お、思い出さない!」
 その度にロックはかぶりを振り、眠れぬ夜をもたらした記憶を追い出そうと試みた。
 だが人肌の温かさは不思議と忘れがたく、なかなか思考から消えてはくれなかった。

 ロックとは対照的に、フィービはいつも通りの美しさで現れた。
「早いじゃないの。店が開いてなかったらどうしようかと思ったわ」
 軽口を叩いた後でロックの顔を見て、途端に眉を顰める。
「酷い顔してるわねえ。寝てないの? まさか、朝帰り?」
「違うよ!」
 思わず上げた大声が寝不足の頭にこだました。ロックは頭を押さえて呻き、フィービがその頭をぽんぽんと叩く。
「あたしだって、あんたがそんなことするとは思っちゃいないわよ」
 宥めるような手の優しさに、ロックはいくらか機嫌を直した。
 今朝も化粧をばっちり決めたフィービを見上げ、気になっていたことを尋ねる。
「フィービこそ昨夜は大丈夫だった? 連中、どうしたの?」
 路地裏での一悶着の後、フィービは『後始末はやっとく』と言ってロックとエベルを逃がしていた。その後に何があったか、顔を合わせたら聞こうと思っていたのだ。
 するとフィービは幅の広い肩を竦める。
「一応、叩き起こして締め上げて、誰に雇われたか聞いてみたんだけどね」
「誰だって?」
「誰だかわかんないんですって。使いを寄越して金は払って、とにかく閣下を貧民街から追い出して欲しいって依頼だったみたい」
 昨夜ロックも思った通り、悪漢どもは金で使われているだけに連中だったようだ。
 貧民街の平和を夢見て警邏に勤しむ伯爵閣下を、後ろ暗い者どもは当然ながら疎ましく思うことだろう。何の手がかりもなしに雇い主を見つけるのは困難に違いなかった。
 ロックとしても藪をつついて蛇を出す気はない。昨夜の悪漢については深く考えないことにした。
「で、今度はこっちが聞くけど」
 フィービはロックに探るような目を向けてくる。
「あんたたちはあの後どうしたの? 閣下に変なことされなかったでしょうね?」
「さ、されてない! ……と、思う」
 きっぱり断言するには、昨夜の出来事は刺激が強すぎた。自信なく言い添えたロックを見て、フィービも青い目を瞠る。
「されたの?」
「ううん。ただちょっと……」
「何よ。何で濁すのよ」
「だ、抱き締められたりはした……」
 おずおず打ち明けると、フィービはすかさず声を尖らせる。
「ふうん。それで、あんたはどうしたのよ」
「訳わからなくて、逃げた」
 まるで子供のようにたどたどしく答えれば、盛大な溜息が降ってきた。
「ロック、あんた二十歳でしょ? 抱き締められて出した答えが敵前逃亡なんてみっともないにも程があるわよ。嫌なら嫌で、ちゃんと断ってらっしゃい」
 フィービの言うことは実にもっともな正論だ。
 だがロックにはロックの言い分がある。昨夜は抱き締められた以上の衝撃に襲われたのだから、仕方がなかったのだ。
「だ、だって閣下が裸で、びっくりしたから――」
 そこまで口にした時だ。
 フィービの顔色がさっと変わった。
「はあ!?」
 愕然とした様子でロックに詰め寄ると、
「裸ってどういうこと! まさか脱いだの!?」
「う、うん。だってしょうがなかったし」
「しょうがないって何よ!」
「あ、ち、違うんだフィービ、そういう意味じゃなくて!」
「どういう意味よ! って言うか脱いだって、あんたも!?」
「違う違う、僕じゃなくて閣下だけ!」
「それはそれでどういう状況よ!」
「えっと、だから――」
 フィービが酷く取り乱した様子なので、ロックはやむなく昨夜の出来事を順を追って説明した。

 物見台まで逃げた後、エベルのシャツに鉤裂きを見つけたこと。
 ロックは仕立て屋として、そのかけ継ぎを請け負ったこと。
 そして作業が終わった後で、彼に抱き締められたこと――その後のやり取りはさすがに端折った。恥ずかしくて言えそうになかったのだ。

「……何だ、そういうことね。びっくりした」
 事情を聞いたフィービはようやく落ち着きを取り戻した。
 栗色の髪をかき上げて、ふうと一息ついてみせる。
「でも、さっき言ったことは本当よ。そういうことされた時、嫌なら嫌って断らないと駄目」
「わかってる」
 ロックは頷いたが、あの時、不思議と嫌悪感はなかった。
 それ以前の問題だった。本当に何が何だか考えることすらできなかった。だから拒絶の言葉もああいうふうにしか告げられなかった。
 あんなふうに抱き締められたりしたら――。
「顔が赤いわよ、ロック」
「そんなことない!」
 フィービの鋭い指摘に、ロックは慌ててかぶりを振った。
 それを心配そうに見守った後、フィービは気だるそうに続ける。
「気をつけなさいよぉ。ぼやぼやしてるとあっという間に近づいてきて押し切られるわよ」
「う、うん。気をつけるよ」
「そしてこっちが惚れたら逃げるのよね、ああいう手合いは」
 遠い目をするフィービの物言いは、奇妙な実感が込められているように聞こえた。
 ロックはそれが少し気になり、話を逸らしたいのもあって、突っ込んで尋ねる。
「フィービはそういう恋をしたことがあるんだね」
「さあ、どうだったかしら」
「もしかしてそれ、父さんのことだったりする?」
 はぐらかそうとするフィービに尚も食い下がると、彼女は静かに目を伏せた。
「いいえ、それよりもっと昔の話よ」
 それだけ言うと、あとは秘密というように唇を閉ざす。
 だから、ロックが聞きたかった父の話を聞き出すことはできなかった。

 昨夜の騒動が嘘のように、その日の『フロリア衣料店』は平穏そのものだった。
 客はほとんど来ず、ロックとフィービがゆっくり昼食を取る余裕さえあった。
「今日は本当に暇ねえ」
「最近忙しかったし、たまにはこういう日もいいよ」
「店主がそんな覇気のないこと言うもんじゃないわよ」
「たまには、だよ。毎日じゃさすがに困るかな」
 うたた寝を誘う昼下がりは、軽口を叩き合って乗り切った。

 そして迎えた夕刻、ロックはカウンターで仕事道具の手入れを、フィービは商品の陳列をしていた。
 そこにドアベルの音が鳴り響き、
「いらっしゃいませ」
 面を上げたロックは、客人の顔を見て凍りつく。
 平穏は長くは続かなかった。ドアを開けて入ってきたのは、鳶色の髪に金色の瞳の美しい青年――エベルだった。
「やあ、ロック。ご機嫌はいかがかな」
 極上の笑みを惜しげもなく浮かべた彼に対し、ロックはおどおどと目を逸らす。
「ど、どうかなさったんですか、閣下」
「どうも何も、あなたが誘ってくれたのだろう。また採寸に来るようにと」
 エベルの声は愉快そうに弾んでいる。
「それと、昨夜お願いしたはずだ。私のことは名前で呼んで欲しい」
「あ、あれは昨夜だけの話では……」
「これからはずっと名前で頼む。私とあなたの間にはいかなる隔たりも設けたくはない」
 朗々とそんなことを言ってのけたので、ロックは気恥ずかしさに俯くしかなかった。
 まさか日を置かずに現れるとは思っていなかった。昨夜の出来事に対する動揺を落ち着かせるには時間が必要だ。つまり今は、彼の顔をまともに見られる気さえしない。
「毎日お越しになるだなんて、伯爵閣下ってお暇なのねえ」
 フィービが、どこか棘のある口調で言った。
「有閑貴族ってやつかしら? 先代のマティウス伯は大変お忙しい方だったって伺いましたけど」
「あなたは父のことを知っているのか?」
 挑発には乗らず、エベルは冷静に聞き返す。
「ご高名な方でしたもの、お噂はかねがね」
「どういう意味で名が知れていたのか、気になるところだ」
 フィービの言葉を軽く受け流したエベルが、カウンター内のロックの方へ向き直る。
「さて、ロック。昨夜の注文通りに服を仕立てたい」
「は……はい」
 ロックはようやく呼吸を落ち着け、彼の言葉に首肯した。
 それから巻尺を首にかけてカウンターを出ようとしたところで、フィービがこちらを注視しているのに気づく。
 採寸の前に、彼女を帰さなくてはならない。エベルの採寸は二度行わなくてはならず、その様子を他の人間に見られるのはまずい。彼と二人きりになるのは少々、いやかなり気が重いが――。
「フィービ、あとは僕が――」
 ロックがそう切り出すのと同時に、フィービがロックの首から巻尺をするりと抜いた。
「あたしが採寸やるわよ、ロック」
「フィービ?」
「閣下はおててがお早いようだもの。あたしの方が適任でしょう?」
 どうやらフィービはロックの為に採寸を申し出てくれたようだ。彼女は過去に仕立て屋の仕事を手伝っていたこともあるそうで、服の仕立ては無理でも採寸くらいはできる。
 だがその気遣いも今は困る。
「せっかくだが、私はロックに頼みたい」
 エベルがにこやかに、しかし有無を言わさぬ調子で応じた。
「彼の腕に惚れ込んでいるからこそ、再びここを訪ねたのだ」
「惚れ込んでいるのは腕だけじゃないでしょう?」
「無論。ならば尚のこと、私はロックがいい」
 さりげなく流し目を送ってくるエベルに、ロックはそわそわしながら応じる。
「かしこまりました……。フィービ、大丈夫だから帰ってもいいよ」
「そうはいかないわよ」
 フィービは眉を逆立てた。
「ロック、正直に言いなさい。身の危険感じてるんでしょう?」
「えっ、いや、ええと……」
 そんなことはないと答えたかったが、昨夜の出来事が脳裏をかすめると何も言えなくなる。
「それならあたしは帰らない。採寸を傍で見届けさせてもらうわ」
 ロックの反応を見たフィービはためらいもなく言い放った。
 エベルがそっと苦笑する。
「どうやら私は、あなたの店員に信用されていないようだ」
「す、すみません。あの、ちゃんと説明しますから」
 慌てたロックはフィービを説き伏せようと、回らない頭を動かし始めた。
 それを制するように、エベルは困り果てているロックの顔を覗き込む。
「では、この場にいる全員が納得する案を提示しようか」
 顔が近い。
 ロックのすぐ目の前で、端整な顔が意味ありげに口元を緩める。
「失礼だがここの試着室は少々手狭だ。彼女を同席させるなら、場所を移しての採寸としよう」
「場所を? どういうことですか、エベル」
 目のやり場に困りつつ聞き返せば、伯爵閣下はさらりと言った。
「お二人を、私の屋敷に招待したい」

 意表をついたその提案に、フィービが息を呑むのが聞こえた。
 ロックも呆気に取られて、返事をするまでに随分と時間がかかってしまった。
「エベルのお屋敷……というとあの、貴族特区の」
「ああ。そこでならゆっくりと、気兼ねなく採寸ができる」
 エベルは金色の瞳で、ロックだけを見据えている。
「どうかな、ロック。招待を受けてもらえると嬉しいのだが」