人狼屋敷の甘美な記憶(2)

 数日後の早朝、ロックとフィービは貧民街の外から馬車に乗り込んだ。
 エベルが寄越した迎えの馬車は事もあろうに白馬の二頭立て、鎖で吊るした最新式の箱馬車だ。御者は貧民街に通じる門の前でも嫌な顔一つせず、わざわざ扉を開けて二人を乗せてくれた。
「お迎えに上がりました。ロック様にフィービ様、どうぞ」

「……ロック様、だって」
 動き出した馬車の中、ロックはそわそわと呟いた。
 馬車の乗り心地は素晴らしく、天鵞絨張りの座席はふかふかと柔らかだ。懸架装置のお蔭で揺れも少なく、窓には高級品のガラスが填められていて、外界から隔てられながら街の景色が眺められた。
「僕、荷馬車にしか乗ったことなかったよ。すごい……!」
 その豪奢さに気圧されていたのも初めのうちだけだった。たちまち気分は高揚し、ロックは目を輝かせる。
「フィービ、お城だよ! こんな遠くから見えるんだね!」
 窓の外には皇帝の居城が霞んで見えていた。天を突くようにそびえ立つ白亜の城は、帝都の端にある貧民街からは遠すぎて見ることができない。
 帝都はあの城を中心に円形に築かれており、エベルが邸宅を構える貴族特区は城のすぐ膝元にある。つまり高貴な身分の者ほど、皇帝の近くに住むことが許されているというわけだ。
「まさか、貴族特区に行けるなんて思わなかったな」
 興奮するロックに、向かい合わせに座るフィービが眉を顰める。
「あんたってつくづく子供ねえ」
 そして艶っぽく脚を組み直すと、諭すように言った。
「この程度で浮かれないの。仕事で行くんでしょう?」
「それはわかってるよ」
 ロックが渋々頷けば、探るように目を眇める。
「わかっているならいいんだけど」
「今日は採寸の為に行くんだ。僕たちはお客様じゃない」
「そうよ。浮かれてたらあっという間に食べられちゃうわよ」
 その言葉通り、フィービは落ち着いたものだ。ふかふかの座席に身を任せる堂に入った姿を、ロックは頼もしい思いで見つめた。
「これから行くのは狼の巣なんですからね」
 彼女がそう続けた時は、内心でひやりとしたが。
「狼――うん、男の人がってことだよね」
「覚えてたのね。くれぐれも用心すること」

 エベルがロックたちを招待すると言い出した時、ロックは即答できなかった。
 彼の魂胆は見え透いている。ロックを自分の領域に引っ張り込む気でいるのだろうし、そこで更に口説くつもりなのかもしれない。採寸云々も結局は口実だということはロックにもわかっている。
 今回の注文にも目が眩むほどの高額報酬をちらつかされて、ロックは迷った。採寸だけ済ませてすぐに帰ることができるのならそれが一番いい。だがそうはならないだろうとここ最近の経験と勘が告げている。
 最終的にロックを決断させたのは、金ではなかった。
『抱き締められて出した答えが敵前逃亡なんてみっともないにも程があるわよ』
 耳に残るフィービの苦言が、ロックの迷いを払拭した。
 エベルとはもう一度、きちんと話をした方がいい。彼が自分を口説き続けるのは押し切れると思ってのことだろうし、そう思わせているロック自身にも責任はある。改めて、その気はないのだとはっきり言い渡さねばなるまい。
 この決意を、ロックはフィービには打ち明けなかった。何かというと自分を子供扱いしたがるフィービに、これ以上の面倒をかけたくなかったのだ。ロックは彼女を身内のように慕っていたが、だからこそ、血の繋がりもない相手にこれ以上の心労をかけるべきではないと思った。

 真意を伏せて招待を受けることを話した時、フィービは意外にも反対しなかった。
 むしろ一儲けの為にも行くべきだと背を押してくれたが、くれぐれも気をつけなさいよ、と警告することだけは欠かさなかった。

 やがて馬車は門をくぐり、ひときわ美しい街区へと差しかかった。
 石畳で舗装された街路の脇に、青々とした葉を戴く木々が整列している。木陰の道のところどころには色彩豊かな花の鉢植えが置かれ、芝生広がる広場では水瓶を持つ女神の噴水が小さな虹を架けていた。
「ここが貴族特区かな」
 窓に張りついて外を眺めるロックに、フィービが笑いながら答える。
「ええ、そうよ。もう少し行けば貴族様方のお屋敷一帯」
「詳しいね。フィービ、来たことあるの?」
「昔の仕事絡みで少しね」
「ふうん、いろいろやってるんだね」
 怪訝に思うロックをよそに、馬車は邸宅が並ぶ一帯に踏み込む。
 荘厳な造りの立派な邸宅はどれも広々とした敷地を有しており、馬車の窓からも手入れの行き届いた庭をいくつもいくつも眺めることができた。ロックは二度と目にすることがないであろう景色を焼きつけようとしたが、たった二つきりの瞳では、次から次へと現れる美しい庭を捉えきれなかった。
 馬車が辿り着いたのもそんな美しい庭の一つだ。赤紫のアザミと青いアルカネット、それに白薔薇が咲き誇る庭園を抜けると、馬車はもう一台の馬車が停まるその隣に停止して、御者が扉を開けてくれた。
「わあ……」
 馬車から降り立ったロックは、思わず感嘆の息をつく。
 広大な庭の奥に佇む石造りの邸宅は重厚な三階建てで、三階には伝統的な装飾を凝らした張り出し窓が並び、二階には蔦を絡めた広い露台が張り巡らされている。ちょうど太陽が中天に懸かる頃合いで、真上から降り注ぐ日差しが石を積み上げた外壁を雪のように白く見せていた。
 彫刻を施された玄関には堅牢そうな鉄扉が用いられていたが、そこは現在大きく開かれ、礼服を着た白髪の男が傍らに立っていた。
 彼はロックたちを出迎えるように一礼する。
「いらっしゃいませ、ロック様」
 エベルから説明を受けているのだろうか。ロックの顔を見て名を呼んだ後、隣に立つフィービに目をやる。
「それからフィービ様。お二人とも、遠路はるばるお疲れ様でございました」
「こ、こちらこそ、お招きにあずかり光栄です」
 ロックがぎくしゃく応じると、男は皺の深い顔に温厚そうな笑みを浮かべる。
「お話は閣下より伺っております。私はこの家の執事、ルドヴィクスと申します」
 ルドヴィクスは初老と呼ぶにはやや歳を取っているが、かといって老人というほどでもない。至って愛想よくロックたちを屋敷に招き入れると、穏やかに続けた。
「お招きしておいて申し訳ございませんが、閣下は現在、不意の来客にお会いになっている最中でございます。応接間でお待ちいただくようにと託っておりますので、どうぞこちらへ」
 そういえば、庭に馬車がもう一台停まっていたはずだ。ロックもよくは見なかったが、あれが『不意の来客』のものかもしれない。

 ロックとフィービは、執事の案内で応接間に通された。
「小間使いがお茶をお持ちしますので、しばしお待ちを」
 ルドヴィクスはそう言い残すと、一人で部屋を後にする。
 客人二人が取り残された応接間は、いかにも上質そうな調度で囲まれていた。天井から下がる水晶のシャンデリアは目に眩しく、ガラス戸の食器棚に飾られているのは艶めく銀の食器類だ。ロックたちが腰を下ろした革張りの長椅子はとろけるような座り心地で、目の前には大理石を磨いた楕円卓が置かれている。なめらかな陶器の花瓶には庭に咲いていた白薔薇が活けられていて、こういう雰囲気に慣れないロックは目がちかちかしてきた。
「すごいね……僕ら、信用されてるのかな」
「ここからじゃ逃げられないとでも思われてるんじゃないの」
 自然と小声になるロックとは対照的に、フィービはここでも堂々としていた。彼女はやがて立ち上がると、壁にかけられた肖像画の前まで歩み寄る。
「これ、先代のマティウス伯よ」
 フィービの言葉に、ロックも席を立って壁の絵画に歩み寄る。
 松精油の匂いがするざらざらとしたその絵には、二人の人物が描かれていた。一人は壮年期とおぼしき男性で、見るからに仕立てのいいガウンを羽織り、穏やかに笑んで椅子に座っている。その隣には十五になるかならないかという少年の姿があり、鳶色の髪と端整な顔立ちから、彼がエベルではないかとロックは思う。
 ということは、隣の男性こそが先代のマティウス伯爵なのだろう。
「見事な絵ねえ。本物そっくりで、怖いくらいよ」
 フィービが深い溜息をつく。
 だがロックは肖像画に見入ったまま、知らず知らず首を傾げていた。
 この絵の少年は確かにエベルに似ているが、何かが違う。単に歳を重ねたからというだけではなく、何かが――しばらく観察した後、思わず声を漏らした。
「目の色が……閣下じゃない」
 肖像画に描かれた少年の瞳は、新緑のような美しい緑色だった。
 エベルの瞳の色は金色だ。異形である人狼の姿の時でさえ、それだけは変わらなかった。
「あら、本当」
 フィービも気づいて、訝しそうな声を上げる。
「でも、変ねえ。マティウス伯のご子息はエベル・マティウス閣下お一人だけよ。だからこの男の子は閣下のはずだわ」
 ロックも目の色のことさえなければ疑いもしなかった。この少年には確かに今のエベルの面影がある。美しい額と形のいい眉、優しく微笑んだ唇、そして切れ長の瞳の形は、どう見てもエベルの少年期だ。
「もしかして、画家が色づけを間違えたんじゃない?」
「そうだとして、間違えたものをそのまま飾っておくのはおかしいわね」
 二人は揃って困惑したが、考えたところで答えがわかるはずもない。
 釈然としないまま長椅子に戻った時、
「お待たせいたしました!」
 応接間の扉が、朗らかな女の声とともに開いた。
 現れたのは波打つ金髪を二つに束ねた女で、歳の頃はロックより少し若いくらいだろうか。装飾のない黒いドレスの上に白いエプロンを身に着け、同じ生地の帽子を被った姿から、どうやら彼女がルドヴィクスの語った小間使いであるらしかった。
「お初お目にかかります。わたくし、小間使いのヨハンナと申します」
 ヨハンナは長椅子に座るロックの足元でひざまずくと、愛らしい笑顔で続けた。
「ロック様、お会いしとうございました!」
「えっ、あ、ありがとうございます……」
 訳もわからず頷くロックを、ヨハンナはきらきらした目で見上げてくる。
「閣下が仰るには、あなたこそが運命のお相手であるのだとか! ご困難も多いことでしょうが、その崇高な愛の形、わたくしも心より応援させていただきたく!」
「え……ええ!?」
 いきなりの物言いにロックは困惑した。
 一体、エベルは自分のことをどのように語っていたのだろう。小間使いの口ぶりではまるで、既に恋仲であるかのような――。
 しかしヨハンナはロックの困惑さえ心得ていたかのように、訳知り顔で語を継いだ。
「いえ、皆まで仰らなくてもよろしいのです。きっと仰りにくいこともございますでしょう。わたくしはただ、お二人の味方であると……たとえ誰が何と言おうと、わたくしはおふたりの愛を陰ながら支える存在でありたいと、そう申し上げたいのでございます!」
 彼女が思い違いをしているのか。
 それとも、エベルが故意にせよ無意識にせよ事実とは異なる説明をしてしまったのか。
 どちらにしてもロックは、ヨハンナに真実を告げようと試みた。
「あの、僕は決して閣下と何かあったというわけでは――」
「ですから、よろしいのです。わたくしは全てを知りたいなどと不躾なことは申しません」
 ヨハンナはかぶりを振って、ロックの言葉を遮った。
「ただほんの少しだけ、お話になられる機会があればほんの少し、お二人の恋のお話を伺ってみたいなと思っている次第でございます!」
 陶酔しきった表情の彼女は、お茶を入れるのも忘れてうっとりと呟く。
「はあ……ロック様はわたくしが思い描いた、理想の『閣下の恋人』にございます……!」
「……どういうこと?」
 説明を諦めたロックは、隣に座るフィービに囁いた。
 フィービは匙を投げるように肩を竦める。
「わからないけど、閣下があんたのことをどう語ってるかは確実にわかったわ」

 ロックも『確実に』と言えるほどではないが、おぼろげにわかった気がしている。
 ここはやはり、エベルと話をつけなくてはなるまい。