ガラクタの街のあるきかた(5)

「エベル、シャツが破れています」
 ロックは指を差してそう告げた。
 指摘されたエベルが自らのシャツの肩口を見下ろす。すぐに鉤裂きを見つけたようで、途端にさっと血の気が引いた。
「一体、いつの間に!」
「さっき、引っかけたのかもしれません」
「そんな……」
 エベルはたちまち萎れてしまい、沈痛な面持ちで嘆く。
「済まない、ロック。あなたの店の服は大切に着ようと決めていたのに……あなたが愛を込めて仕立ててくれた服を破いてしまった!」
「あ、謝らないでください」
 その悲嘆ぶりにはロックの方が慌ててしまう。
「あれだけ駆け回っては破けることもありますよ」
「そのせいで、あなたの仕事を台無しにしてしまった……」
「でも、僕も助けていただきましたし」
「それでもこれは、あなたに申し訳が立たない」
 エベルはすっかり落ち込んでいる。もしも人狼の耳が見えていたら、今はしょぼんと垂れていることだろう。
 こうなると仕立て屋としては放っておけない。ロックは宥める口調で切り出した。
「軽い応急処置でよければ、目立たなくすることはできますよ」
「本当か!」
 まるで蘇ったように、エベルが勢いよく面を上げる。
 その素直さがおかしくて、ロックも少し笑った。
「新品同様とはいきませんが、かけ継ぎならできます」
「あなたの腕なら確かだろう。是非お願いしたい」
「ご用命、承りました。では……」
 ロックは腰につけた道具袋から裁縫道具を取り出す。
 仕立て屋として針と糸、それに小さな端切れくらいはいつも持ち歩いていた。こういう心掛けが小銭に繋がることもあるからだ。

 それからエベルの傍らに屈み込み、シャツの鉤裂きを検める。
 白いシャツには指先の幅程度の小さな傷が口を開けており、やはり継ぎ布が必要なようだった。幸い、共布が道具袋に入っていた。このシャツを仕立てた時に余ったものだ。
 ただ、場所が場所なだけに着たままでというわけにもいかず、
「すみませんが、シャツを貸していただけますか」
 ロックが申し出ると、エベルは意味ありげに目を細めた。
「それは、脱いで渡せということか?」
「ええ、そうしないと縫えませんから」
「了解した」
 頷いたエベルがまずベストを外し、それからシャツを脱ぎ始める。そのように仕立てただけあって、するりとあっという間に脱いでしまった。
 お蔭でロックは、エベルがシャツの下に何も着ていなかった事実をその目で知った。
「わ! あ、あの、すみません!」
「なぜ謝る。そして目を逸らす」
「ち、違うんですこれは、びっくりして……」
 仕事柄、男の胸など見慣れているはずなのだが、エベルが相手だと調子が狂うようだ。ロックは目を逸らしたままシャツを受け取り、あたふたとかけ継ぎを始めた。
 まず共布の四方から織り糸を解き、その糸をシャツの生地に、一本ずつ丁寧に差し込んでいく。物見台の屋根の上には照明こそなかったが、降り注ぐ星明かりが十分に手元を照らしてくれた。
「へえ、そうやって直すものなのか」
 エベルが感心した様子で唸り、ロックの手元を覗き込んでくる。
 すぐ隣に半裸の男がいるという状況、加えて彼が距離を詰めてきたことにロックは内心うろたえた。視界の隅をちらつく裸の胸に集中が乱され、慌てて話題を変えてみる。
「それにしても、あなたは本当に絡まれやすい方ですね」
 ロックは先程の悪漢どもの顔を思い出す。
 金で雇われたごろつき、となると雇い主は一体誰なのだろう。
「誰かの恨みでも買ったんですか? 貧民街には質の悪いのがたくさんいますから、お気をつけて」
「ああ」
 ロックの忠告に、エベルは短く答えた。その時、ロックは針を持つ指先を凝視していたので、彼の表情を見ることはなかった。
 エベルはしばらく沈黙を置いてから、柔らかい声で言い添える。
「警邏の最中に衝突した相手が、少々厄介だったようだ。たまにああやって雇われを寄越す」
「それはお気の毒に。警邏も程々になさってはいかがです?」
「あなたに心配されるのは嬉しいものだな」
 エベルは心から嬉しそうに言ったが、忠告を聞き入れる気はないようだ。
「ここにはあなたがいる。あなたの為にも、この街を安全で平穏なものにしたい」
 断言したその口調には、全く揺るぎない鋼の意思が窺える。
「安全で平穏な貧民街、僕には想像もつかないですね」
 皮肉のつもりもなく、ロックはそう応じた。
 悪人ばかりというわけではないが、無秩序で、自由の意味を履き違えたような街だ。だからこそ田舎育ちのロックにも店を構えることができた。決して住みよいとは言えないが、寄る辺のない者たちにとっての最後の寄る辺と呼べる場所だった。
 身分貴い伯爵閣下が、顔を晒してまでうろつく必要はないはずだ。
「……そうだ、次に仕立てる服のことですが」
 ロックはふと思いついて、エベルに提案した。
「ダブレットよりも、お顔を隠せる外套の方がいいかもしれませんね。あなたがどうしても警邏を続けると仰るなら、ですけど」
「よい案だ。ここを歩く度に絡まれては敵わないからな」
 エベルも一も二もなく賛同した。
「では近いうちに、また採寸をしてくれ」
「ええ。店でお待ちしております」
 答えたロックの脳裏に、前回の採寸でのやり取りがまざまざと蘇る。エベルも反省していたようだし、二度はないはずだが――。
 そんな懸念をよそに、エベルは声を弾ませた。
「あなたをまた食事に誘う為にも、人目を忍ぶ服は必要だからな」
「いえ、僕は……仕事のお話だからお付き合いしたまでです」
 ロックはそう言い張ったが、エベルは否定も肯定もしない。その後は黙ったまま、ロックの仕事を熱心に見守っていた。

 やがてかけ継ぎが済み、ロックはエベルにシャツを引き渡した。
「ひとまず目立たなくはなったはずです。ご確認を」
 エベルがそれを受け取り、まず鉤裂きがあった肩口を確かめる。
 そこにあったはずの傷口はきれいに繕われ、近づいて目を凝らさなければわからないほどになっていた。
「さすがの腕前だな、ロック。これは称賛に値する」
「このくらいはどこの仕立て屋でもできますよ」
 裁縫道具をしまいつつ、ロックは謙遜した。
 エベルはいたく感じ入った様子でシャツをためつすがめつしている。
「そんなことはないだろう。あなたならきっと皇帝陛下の仕立て屋にもなれる」
「ご、ご冗談を……」
 帝都に居城を構える皇帝は、ロックにとって雲の上の存在だ。生涯のうちでその姿を目にする機会があるとも思えない。
 だがエベルは冗談でもない様子で言い聞かせてくる。
「無論、そうなられては私の手が届かなくなるから困る。たとえ皇帝陛下であろうとも、私はあなたを渡したくはない」
 そしてロックが反論するより早く、自ら語を継いだ。
「ところで、かけ継ぎの代金はいかほどだ」
「ああ、お代は結構です」
 先の話題が引っかかりつつ、ロックはかぶりを振った。
 途端にエベルが訝しげな顔をする。
「そうはいかない。あなたの仕事は安売りすべきではない」
「けど、お引渡しの当日にできた傷ですから。追加で代金をいただくことはできません」
 ロックは尚も反論する。
 工賃だけでも既に十分な額を貰っていた。この程度は顧客奉仕の範疇だ。何せ彼はこれまでにない上客なのだから、このくらいはしても損になるまい。
「その分、大事に着ていただけたら嬉しいです」
 そう告げると、エベルはすかさず顎を引く。
「当然だ。大切にする」
 鉤裂きを作っただけで青くなっていた彼だ。その言葉は信じられる。
「それと……」
 ロックは顧客奉仕の精神で続けた。
「あなたがご無事でよかったです。僕の仕立てた服がなければ、傷を作っていたのはあなたの方でしたから」
 衣服とは元々、人の身を守るために生まれたものだ。ロックが仕立てた服は今夜、正しい役目を果たしたと言えるだろう。
 今の言葉は打算的な気持ちで口にしたはずだった。エベルが鉤裂きを作ったことを気に病まぬよう、そして次回も快く店に来てもらえるように。だがいざ口にしてみると妙に気恥ずかしく、直後、ロックは俯いた。
 だからエベルがどんな反応を見せたか、目にすることはできなかった。

 次の瞬間には、顔を上げることもできなくなった。
 エベルがその腕で、ロックを強く抱き締めたからだ。
「わっ、な、何を――」
 上げかけた声さえ封じるようにきつく、その腕の中に閉じ込められる。この時、エベルはまだシャツを着ていなかった。ロックがもたれかかっているのは彼の裸の胸であり、体温が直に伝わる素肌の奥で高鳴る鼓動が聞こえてくる。
 物見台の屋根の上には逃げ場がない。並んで座ったまま捕らえられ、ロックは動揺のあまり硬直した。
「私はやはり、あなたがいい」
 エベルはロックを掻き抱きながら、耳元に囁いてくる。
「あなたが男であってもいい。いや、何者であろうと構わない。私のものになってくれ」
 哀願めいた声は吐息まじりで、ロックの耳朶を熱くくすぐる。
 途端に身体が動かなくなり、呆然とエベルの胸に身を預けた。
「え、えと、それは今日、お話ししたはずです」
 それでも、もつれる舌を懸命に動かしながら答える。
「僕は恋をするつもりはありません。お気持ちに応えることもできません」
「ならば、応えてくれるまで何度でも繰り返す」
 エベルは強い口調で訴える。
「あなたに他の恋人がいるというのなら諦めもつく。だがそうではないのなら、今はそのつもりはなくとも未来のことまではわかるまい。あなたが恋をしたいと望む時、選ぶ相手は私であって欲しい」
 熱烈な口説き文句はロックを混乱させ、酩酊させた。
 それでなくとも、異性の肌にこれほど長く触れたのは初めてだった。父に抱かれた記憶もないロックにとって、自分とは違う男の身体は未知のものだ。厚い胸板はしっかりとロックを抱き留め、皮膚越しの体温は熱く、触れたところからどろどろに溶けていきそうだった。
「他のどんな女も、男であっても、あなたには触れさせたくない」
 エベルの手がロックの腰に触れ、骨をなぞるように撫でてきた。
 ざわっと肌が粟立ったのは、慣れない感触のせいだけではない。
「ああああの、そんなこと、言われても……」
 これ以上傍にいては、頭がどうにかなりそうだ。
 危機感を覚えたロックは、とっさにエベルの胸を押しやった。きつく抱き締められていたはずが、彼の腕はするりと解けてロックを解放する。そしてエベルの切実そうな表情が見えた時、ロックは衝動的に叫んだ。
「僕、こういうの初めてでわからないんです! ごめんなさい!」
 それだけ言うのがやっとだった。
 あとはもう、衝動に身を任せた。ロックは屋根から物見台の中へと滑り降りると、ふらつく手足で梯子を降りて地上に立った。それから自分の部屋へ逃げ込むべく、こけつまろびつ走り出す。
「ロック!」
 エベルの呼び止める声も聞こえなかったふりをした。
 とにかく走った。逃げ帰った。

 自分の庭と豪語するだけあり、無我夢中で走るうちに自宅近くまで辿り着いていた。
 胡散臭い古道具屋の二階に借りた小さな部屋がロックの住まいだ。『フロリア衣料店』がある市場通りから一本裏路地に入ったところにあり、日当たりは悪いが家賃は安い。フィービもこの近所に住んでいて、たびたび訪ねてきてくれた。
 彼女はもう帰っただろうか。そんな考えがロックの脳裏をかすめたが、会いたいわけではなかった。
 今の自分の顔を、フィービにだって見せたくはない。
「あんなの、びっくりするに決まってるよ……」
 部屋まで辿り着いたところで何かがふつりと切れ、ドアの前でくずおれる。
 動悸が激しいのも顔が熱いのも、ここまで走ってきたからだ。
「どうしよう……僕……」
 だが、訳もなく呟いた独り言の意味は、ロック自身にもわからない。
 そのまましばらく部屋にも入らず、彼女は一人うずくまっていた。

 だから、離れた屋根から自分を窺う人影があったことに、ロックは気づかなかった。
 ちゃんとシャツを着たその人影が物見台からずっとロックを追い駆けてきたことも、ようやく立ち上がった彼女が部屋に入った後、ほっとしたように胸を撫で下ろしたことにも遂には気づかなかった。
 そして彼も踵を返し、案外と幸せそうに、遠い家路を辿り始める。