川の向こうに

 訪ねてきたルドミラは、開口一番告げてきた。
「わたくし、今日ほど蔑ろにされた気になったことはございませんわ」
 というのも、来訪したルドミラをカレルがいつになく上機嫌で迎え入れたからだった。とびきりの笑顔で出迎えたかと思うと、ルドミラの為に椅子を引き、マリエ手製のお茶菓子を勧め、そして熱心な口調で言った。
「待ちかねたぞ、ルドミラ嬢。あなたが来るのを今か今かと待っていた」
 随分な態度の変わりように、マリエですらも思う。
 これではルドミラ様がお怒りになっても、全くもって致し方ない。

 案の定、ルドミラはつんと顎を逸らして、非難めいた言葉を口にした。
「こんな時にだけ歓迎してくださるなんて、酷い方ですのね、殿下」
 もっともカレルは気にもならないようだ。一層朗らかに応じる。
「それは済まなかった。もちろん、今日の礼は後日必ずするつもりだ」
「……別に、よろしいのですけど」
 ルドミラの声音も、さほど尖ったものには聞こえなかった。今日も今日とて分厚い歴史書を抱えている。ここで読書を楽しむ予定のようだ。
「そう遠慮せず、何でも申せ。何か望みがあるなら私が叶えよう」
 カレルに食い下がられたルドミラは、呆れたように苦笑した。それから少し思案を巡らせ、こう言った。
「ではわたくし、お城の書庫へ招いていただきたいですわ」
 書庫という単語を聞くや否や、カレルは面映そうな顔をした。しかし令嬢に対しては、あくまで穏やかに返答する。
「そんなことでよいのか? その程度、いつでも構わぬのに」
「ええ。こちらの書庫には我が国の歴史を綴った、数多くの文献が収められていると伺っております。一度お邪魔して、日がな一日歴史書に読み耽りたいと存じます」
 たちまちルドミラは少女らしく瞳を輝かせた。恍惚とする表情からもわかる通り、彼女の歴史好きはどうやら筋金入りのものらしい。良家子女に相応しい趣味ではないだろうが、マリエはそんなルドミラの喜びに溢れた表情を好ましく思った。
「全く、奇特な望みだな。あなたはそんなに歴史が好きか」
 カレルは理解しがたいと言いたげに、眉間に皺を寄せた。
 だがルドミラの方は、そんなカレルの気持ちが解せぬ様子で目を瞬かせる。
「お言葉ですけど、殿下。わたくしは殿下が羨ましゅうございますわ。毎日のように件の書庫で、お好きなだけ歴史書を読み耽っていられるのでしょうから。わたくしも活字の海に溺れる日々を過ごしたくて堪りませんの」
「当てつけか」
 今度はカレルが拗ねた。
 あら、と声を上げたルドミラは遠慮なく追い討ちをかける。
「そう思われるのは心外ですわね。殿下のような方こそ、歴史を学び、歴史に学ぶ必要がおありだと存じますもの。そう食わず嫌いなさらないで、試しに飛び込んでみてはいかがかしら」
 歴史の勉強について、カレルが食わず嫌いをしているのか、あるいは食した上で味が合わぬと思っているのか、マリエは詳しいところを知らない。
 何にせよカレルは歴史に欠片も興味はないようで、それでも体面を保つ為にかこう応じた。
「機会があれば、私も読んでみることにしよう」
 大いなる一歩になりそうな一言だ、とマリエは密かに感心した。
「ええ、お薦めいたします。是非じっくりとお読みになってくださいませ」
 ルドミラはルドミラで熱心に歴史書を薦めてくる。カレルが反論の言葉も失っているのを見て、マリエはここぞとばかりに淹れたてのお茶を差し出した。
「どうぞ、ルドミラ様」
「あら、ありがとう」
 ルドミラが華やいだ笑みを向けてくる。ほんの少しの緊張を孕んだ、しかし楽しげな表情だった。
「殿下はともかく、あなたまでお出かけしてしまうのは辛いわね。美味しいお茶がこれ一杯だけで終わってしまうだなんて」
「嬉しゅうございます、ルドミラ様」
 マリエが深く頭を下げると、ルドミラはいち早く声を潜めた。
「ええ。ごゆっくり、楽しんできてちょうだい」

 ルドミラは本日の町行きに際して、重要な役目を担っている。
 それはカレルの居室に単身残り、主不在の間の留守番をする役目だ。
 城から城下町までは、正門からの道を通れば百数えている内に辿り着けるほどの距離しかない。しかし城内への出入りは厳しく管理されており、いかに変装しようと正門からの脱出は不可能だ。
 そこで、あえて遠回りをする道筋を辿ることになっていた。
 出入りの商人たちが使用する通用口を抜け、城の裏手の森へと出るのだ。
 森を通り川を越えてしまえば、城下町の外れに行き着く。もちろんあの森はそれなりの広さがあり、通り抜けるなら軽い散歩では済まない距離がある。カレルが地図を暗記したとはいえ、慣れない町へ出て芝居を見て戻ってくるとなると、相当の時間がかかるものと思われた。
 その間、カレルとマリエの不在を誤魔化すのがルドミラの役目だ。
 一人きりでいても時々話し声を立てたり、物音を立てたりして、兵に主の不在を気取られぬようにする。その任務を、ルドミラは意外にも乗り気で引き受けた。

「わたくし、そういう小細工は大好きですのよ。人を欺くのは楽しいんですもの」
 くすくす笑うルドミラに、カレルも頼もしげな目を向ける。
「ありがたい。あなたの働きも頼りにしている」
「お任せくださいませ。たとえ脅されようとも、殿下の行き先は他言いたしませんわ」
「ああ」
 大きく顎を引いたカレルが、その後で傍らのマリエへと向き直る。
 マリエは既に、麻布で作った外套を着込んでいた。やや硬めの布は身体の線を隠すのにちょうどよく、フードを被ってしまうと、自分が別人になってしまったようにさえ思えた。
「もう少し深く被った方がよい」
 カレルは言い、マリエのフードを目深に引いた。そして顔を覗き込むようにして、何やらおかしそうに笑ってみせた。
「なかなか似合うな、マリエ。お前はそのような服でもぴったりだ」
「……光栄に存じます」
 すかさずマリエは言ったものの、誉められたようには思えなかった。鏡がないので、自分がどんな風体でいるのか、よくわからない。
 ただ同じように外套を着込んだカレルは、傍から見てもやはりカレルにしか見えなかった。フードから覗く白金色の髪も、きびきびした動作も、外套では隠しきれない背の高さも。ごわごわした麻布からも、そこはかとない気品が漂っているように思えた。
「では、留守を頼む」
 着替えを終えたカレルは窓辺に立ち、ルドミラへと静かに告げた。
 ルドミラが素早く頷けば、窓を開け、今日の為に作った縄梯子を下ろす。
 そして、マリエを手招いた。
「マリエ、こちらに」
「はい、殿下」
 窓からの脱出はマリエの望むところではなかったが、他の出口は扉しかなく、扉の外には近衛兵がいる。他に手段はなかった。
 カレルが片腕を伸ばし、いきなりマリエの腰を抱き寄せる。いきなり触れられてマリエは跳び上がりそうになったが、カレルの方は意外にも落ち着き払っていた。
「私に掴まれ、マリエ」
「えっ、あの、お言葉ですが……」
「時間がないのだ、早く。首でよい、しがみつけ」
 急かされて、不敬だの何だのと言い返す暇もなかった。覚悟を決めたマリエはカレルの首に腕を巻きつけ、抱き着いた。
 カレルは鍛え上げた片腕で、マリエの腰をしっかり抱きかかえる。そしてもう片方の腕で縄梯子を掴み、恐ろしいほどの身軽さで窓から飛び出した。
 すぐに、風の気配が変わった。吹きつける風の強さと冷たさは間違いなく屋外のもので、フードの中へも忍び込んで、マリエの頬を撫でていく。
 抱えられるがままのマリエは、手持ち無沙汰さから恐る恐る足元を見た。
 すぐに、見なければよかったと思う。足元がない。地上は果てしなく遠い。それよりもはっきり確認出来たのは、縄梯子が風に煽られ、ふらついている様子だった。たちまち眩暈がして、血の気が引いた。
「で、殿下、どうぞお気をつけて――」
 震える声で言ったマリエに、カレルが囁いてくる。
「大丈夫だ。ここから落ちても、下は庭だ。あの木が受け止めてくれる」
「落ちそうになりましたら、是非わたくしを先に落としてくださいませ」
 マリエは冗談でもなくそう告げた。
 しかしカレルは軽く笑って、かぶりを振ったようだ。縄梯子が軋む音を立てる。
「お前一人抱えて行けぬ私ではない。案ずるな、任せておけ」
 そうして慎重に縄梯子を降りながら、励ますように明るい声をかけてくる。
「マリエ、上を見るがよい。ルドミラ嬢がこちらを見ているぞ」
 言われてマリエはぎくしゃくと、風の中で顔を上げた。
 既に離れた頭上の窓から、確かにルドミラが身を乗り出していた。彼女はマリエに気づくとにっこり笑んで、手を振ってきた。
 振り返すことはできなかったが、マリエは小さく頷いた。感謝を込めて。
 それからしがみつく首の上、フードを被ったカレルの顔を見た。眉間に皺を刻んだカレルは、呼吸を整えながら縄梯子を降りていく。決して軽くはないマリエを片腕で抱えていても、その動作は弛まずきびきびとしていた。
 至近距離からの視線を感じてか、カレルの青い瞳もマリエを見た。途端に口元が緩み、照れ笑いが滲む。
「こちらは見るな。この距離ではいささか面映い」
「し、失礼いたしました」
 マリエは慌てて目を逸らし、カレルにしがみつくことだけに集中した。
 怖くとも決して目がつむらなかった。だんだんと近づいてくる城の庭の緑を、足がつけるはずの地面を、どこか夢見心地で眺めていた。

 城の通用口を難なく抜けると、カレルはマリエの手を引いて駆け出した。
 変装が功を奏したか、誰に見つかることも、呼び止められることもなかった。そこからは風のように走り、二人で城の裏手に広がる森へと飛び込んだ。
 手入れされた森には、今日も清らかな空気が満ちていた。その空気を掻き回すようにつむじ風が通り抜ける。踏み固められた道の上をなぞる、二人分の風だった。
 走る風が過ぎ去った後では、青々と茂った木の葉が、ざわざわ、ざわざわと賑々しい音を立てる。よく日が照った暖かい昼下がり、森の居心地よさを楽しむこともなく、二人はひたすらに駆けた。
 強く引かれた腕は伸び、マリエはよろけながら、ほとんど引きずられるように走った。フードが落ち、髪をまとめた頭巾が耳元ではためく音を立てる。風の唸り声もする。
 前方ではやはりフードを落としたカレルが、白金色の髪をたなびかせている。
 先日、予行演習で見たばかりの光景だった。しっかりと引かれた手、手の持ち主の背中、流れるように過ぎていく森の景色、二人分の靴音、荒い呼吸。駆けていくカレルの影のように、どこまでもどこまでもついていくマリエ。
「川だ!」
 カレルが叫び、走りながら振り向いた。その表情は歓喜に満ち満ちている。
「あの川を渡れば、町までもうすぐだぞ!」
 弾む声が示した先には、森を分かつ細い川が流れている。川の向こう側まで行けば、もうじき、町が見えてくるはずだった。城の正門と比べると利用する者も少ない橋は、それでも馬車が通れるように立派で頑丈な造りをしていた。
 カレルとマリエはその橋を渡り、ついには川の向こうへ降り立った。もう一度振り返ったカレルは、やはり嬉しくて堪らないという顔をしていた。
「もうじきだ! マリエ、ついて来れるか!」
 マリエは声も出せない。息が切れ、口を聞くどころではなかった。しかし大きく頷いた。どこまでもどこまでも、ついて行くつもりでいた。
 唇に笑みが浮かんだのは、どの瞬間だっただろう。マリエもいつしか笑んでいた。この上なく不敬で、この上なく問題のある行動を取っているのに、おかしくて、笑い出したくて堪らなかった。
 楽しいのかもしれない。
 嬉しいのかもしれない。
 これから行く城下町と、芝居見物とが、楽しみで楽しみで仕方ないのかもしれない。
 あるいはこうして、カレルに手を引かれ、誰よりも傍にいること自体が、楽しくて仕方ないのかもしれない。
 思うべきことは幾多もあった。近侍として考えなくてはならないことも、心に留め置くべきことも――けれど今はそういった事柄も全て忘れて、カレルの傍らにいたいと思った。どこまでも、ついて行こうと。

 広がる城下町の景色が見えてきた。
 二人は立ち止まらず、風のように飛び込んでいく。