穏やかな日常

 マリエは、茶器を載せたワゴンを押して廊下を歩いていた。
 歩きながらもどこか、ぼんやりしていた。

「マリエ殿、どちらへ」
 警護中のアロイスに声を掛けられ、はっと我に返る。振り向けば、主の居室の扉はとうに通りすぎていた。
「どうしました、殿下がお待ちですよ」
 アロイスが笑い、扉を守る近衛兵も案じるように苦笑する。マリエも笑ってごまかそうとしたが、寝不足の顔は引き攣って、思うようには笑えなかった。
「……ぼんやりしておりました。呼び止めてくださり、ありがとうございます」
「いいえ」
 礼を述べたマリエに、アロイスは小さくかぶりを振る。
 それから眉を顰めて尋ねられた。
「近頃はあなたが心ここにあらずといったご様子ですが、大丈夫ですか」
 答えるより先にマリエは思う。
 確かに以前まで、こんなふうにぼんやりしているのは殿下の方だった。物憂い眼差しで、想い人のことをひたすらに考え、思案に暮れている姿を覚えている。
 だが今では自分の方こそ、まるで懸想でもしているように、たった一人のことを延々と考えている。
 思考がそこまで辿り着くと、マリエは振り払うように深呼吸をした。そして努めて冷静に答える。
「大丈夫です。お心遣い、感謝いたします」
「それなら、よろしいのですが」
 アロイスが好奇と気遣いの入り混じった視線を向けてくる。感づかれてはいないかと怯えつつも、何事もないそぶりでカレルの居室へと向かう。

 あの予行演習の日以来、眠れぬ夜が続いていた。
 雨が止み、日が照る暖かな日が帰ってきても、マリエの心は常に揺れ動いている。胸のざわめき〜逃れるように、マリエは夜になると無我夢中で本を開いた。
 初めは『求婚入門』に縋った。
 マリエは件の本を高く評価していて、ためになるよい内容だと思っていた。だからそこになら載っているだろうと思っていたのに、『求婚入門』にはマリエの求める記述はなかった。
 諦めきれずに他の書物にも片っ端から手を伸ばした。男の魅力とは背中に表れるのだと強調する本。異性の気を引く為にハンカチを落とせ、と語る本。女とは砂糖と何か素敵なものでできているのだと謳う本。他の者の声と言葉を借りて愛を告げる男の逸話を載せた本。そして、かつて懸想文を綴るのに参考に――というより、ほとんど模写をした詩集にまで行き着いた時、マリエは気づいた。
 城の書庫のどの本にも、殿方に口づけられた場合の対処法など載ってはいないだろう。
 マリエとしてはむしろ、口づけられたその日以降、改めて顔を合わせる場合の接し方を教えてもらいたかった。しかしそれも、どの本にも記述は見当たらなかった。

 あれは確かに、口づけられたのだと思う。
 身分を重んじる心と罪悪感とがなかなか肯定させたがらないは、そうでなければ何だったのか、他の答えは見つからなかった。逢い引きらしいことを、と前置きしたカレルの行動は、マリエの心をすっかり捉えてしまっていた。
 あの雨の日の予行演習は、果たして本当に練習に過ぎないものだったのか。
 カレルの真意はどこにあるのだろう。マリエが未だ知らぬ黒髪の婦人に懸想しているのか、それとも――もう一つの可能性は、マリエの頭ではどうしても結論づけることができなかった。幾度となく考えはしたものの、認めてしまえばマリエは、カレルの傍にはいられなくなる。それほどに不敬なことだった。
 きっと、殿下は黒髪の婦人を想うあまり、わたくしにその方を重ね合わせているのだ。マリエはそう思った。
 そう思わなくてはいけなかった。
 思いたいのかどうかは、自分でもわからなかった。
 ただひたすらに、あの日と、いつになく傍にいた主のことを考えている。穏やかな日常にあって、その心に他のものが入り込む余地すらなくなっていた。

 マリエが室内に入っていくと、窓辺にいたカレルは振り向かずに口を開いた。
「遅かったな、マリエ」
「申し訳ございません、殿下」
 深々と頭を下げた後、マリエも主から視線を逸らす。
 あの日以来、お互いに目を合わせようとしていないようだった。
 もっとも、年若い主が視線を逸らしがちになったのは、今よりもずっと前のことだったようにも思う。マリエの記憶の片隅には、カレルの懸想を知った初めの日のことも存在している。あの頃からカレルは、マリエの前で目を逸らしたり、頬を赤らめたり、そうかと思うと急に怒り出したりと忙しなかった。
 今は、マリエにもカレルを直視する勇気がなかった。俯き加減のまま、窓際から伸びる主の影を窺っていた。
 午後の日差しが作る影は輪郭がくっきりとしていて、髪が風に揺れているのもよくわかる。白金色の髪は、恐らく陽を浴びてきらきらと輝いているに違いなかった。幼い頃と比べて広くなった肩幅も、敏捷そうな身体つきも、影を見るだけでわかってしまう。
 これまで忠心をもって見つめてきた主を、真っ直ぐ見つめられなくなったことに、マリエは危うい予感を抱いていた。

 知らず知らず溜息をつき、マリエはお茶の支度を始める。
 普段なら一人分の茶器が、今日はきちんと二人分あった。部屋の花瓶は花を活け替えてあったし、部屋中の掃除もいつもより念入りに済ませてある。
 茶菓子の用意もできていた。後程この部屋へと運んでくる段取りとなっている。ぼんやりとしていながらも、全ては滞りなく進められていた。
 ぬかるみのなくなった道を、もうじき一台の馬車が城までやってくる。
 それから――。
「……マリエ」
 ためらいがちな声が、マリエの名をそっと呼んだ。
 思いがけず近くで聞こえたせいで、マリエは思わずびくりとした。瞬間、卓上に並べようとした皿が手から落ちる。
「あっ」
 滑り落ちた皿はとっさに動けないマリエの前で、大きな手に救われた。床に叩きつけられるより早く、カレルが拾い上げていた。
 いつの間にか傍らまで歩み寄っていたカレルは、小さな皿を卓上へと置いた。そしてやはり、視線をよそへ泳がせながら告げてくる。
「驚かせたか」
「いえ、そのようなことは」
 マリエは慌ててかぶりを振り、次いで応えた。
「拾ってくださり、ありがとうございます」
「とっさに手が出た」
 髪をかき上げながら、カレルが気まずげに応じる。相変わらずマリエの方は見ない。その様子にマリエも恥ずかしさを覚え、自然と俯いた。
 二人揃って黙ると、室内はしんと静まり返る。微風が窓から吹き込んでくるだけで、それ以外の音がしなくなる。そのことが酷く息苦しく、マリエは居心地の悪さを覚えた。
「済まなかった」
 不意に、カレルが呟いた。
 反射的にマリエは顔を上げ、まだそっぽを向いている主の横顔を見る。
「急に声をかけるべきではなかったな。お前が……その、あまり顔色がよくないように見えたので、確かめておきたかったのだ」
 カレルの言葉を聞き、マリエはそっと眉根を寄せた。
 顔色が悪いと言われるほどの自覚はなかった。寝つけぬ夜が続いていたが、それもカレルの前へ出ればしっかり目が覚めてしまう。むしろ気分が高揚し、動悸がして、寝不足の事実などきれいに忘れるのが常だった。
 それに、顔色が悪いはずがない。カレルが傍らにいれば、すぐに頬が熱くなってしまうからだ。
「お心遣いをありがとうございます、殿下」
 おずおずとマリエは答える。
「わたくしはこの通り、大変元気にございます」
「そうか。では……その、マリエ、お前は」
 言葉に迷ってみせた後、カレルは声を落として語を継いだ。
「先日のことを、どう思っているのだ」
 皿を手にしていなくてよかったとマリエは思う。
 手にしていたら、間違いなく取り落としていただろう。

 先日のことというのが何か、考えるまでもなかった。
 逢い引きの予行演習として、二人で書庫へ向かったことだ。
 そして、その書庫の中で――。
 あの雨の日以降、カレルとマリエはお互いによそよそしく振る舞っていた。予行演習での一件について言及されたのは今日が初めてで、それまではどちらも一言も口にしなかった。まるで記憶の奥底に封じ込めておくように。

 そして今、初めて言及された途端、マリエの体温はたちどころに上昇した。くらくらと眩暈も覚えた。
 カレルはいつの間にか真っ直ぐにマリエを見つめていて、その眼差しに臆しながらも、たちまちマリエは捉われてしまう。
「どう、と仰られましても……」
 たどたどしく答えるマリエを促すように、カレルは言い添えてくる。
「お前が何も言わぬと、私はかえって気になって仕方がない」
 筋張った青年らしい手が震えながら伸ばされ、頭巾から零れ落ちたマリエの髪の一筋を指先に絡めた。
「私は、お前の本心が聞きたい」
 顔を近づけそう囁かれ、マリエはびくりと身を震わせた。
 カレルの端整な顔がすぐ鼻先にあり、耳元には吐息がかかり、いやでも先日のことを思い出してしまう。目をつむりたい衝動に駆られたが、それはますますもって不敬だ。
 マリエの狼狽するそぶりを見てか、カレルはそっと黒髪の一筋を解放した。いくらか落ち着いた口調で続ける。
「今日は日差しに恵まれた。今日こそ決行の日だが、お前は本当によいのか」
 今度の問いには、マリエは即座に頷いた。
「はい、殿下」
「お前は私に命ぜられたから、共に赴くと申しているのではないか」
「とんでもないことでございます、殿下」
「では本当に、同道したいと申すか」
 重ねて尋ねられ、マリエの中で迷いが燻る。
 カレルに付き従うことに不満はない。だが不安はあった。今日の外出は二人きりのものになる。首尾よく事が運べば、初めて二人で街へ出ることとなるのだ。警護の兵もついては来ない。マリエも懐剣を持ってはいたが、いざという時にどれほど役立てるかはわからない。果たして誰にも見つからぬうち、無事に戻ってこられるだろうか。
 そしてそんな一日は、やはり、逢い引きと呼ぶべきものになるのだろうか。
 迷いを振り切るように、やがてマリエは頷いた。
「はい、殿下。お供いたします」
 惹かれる心が確かにあった。それは久方ぶりの町行きか、街で評判の芝居にか、カレルへの忠心か、あるいは他の感情か――やはり判然としなかったが、頷くには十分だった。
 自分がすべきことは決まっている。カレルの望みを叶え、そしてカレルの身を自分の手で守り抜くこと、それだけだ。他のことは考える必要もない。
「……そうか」
 マリエの答えに、カレルは深く安堵したようだった。
 ようやく口元をほころばせ、柔らかい表情になる。
「お前の心、私は嬉しく思う。今日は楽しい日になるであろう」
 そして手近な椅子に腰を下ろすと、妙にうきうきと弾む声を上げた。
「あとはルドミラ嬢が来るのを待つだけだ。かの令嬢が来るのを、これほど待ち遠しいと思ったことはない」
 もうすぐルドミラが城に現われる頃だ。マリエも大慌てでお茶の支度を再開する。
 穏やかな晴天の午後、その時は刻一刻と迫りつつあった。

 部屋の片隅では、折り畳まれた簡素な外套が、静かに出番を待っていた。