全て焼き付けて/前編

 昂る感情も、マリエが誇る忠心をもってしても、やがて訪れた体力の限界には打ち勝てなかった。

 城下町へ飛び込んで数歩も行かぬうちに、マリエは膝をがくりと折った。たちまちその場にへたり込んでしまう。城内の床とは違う、踏み固められた地面にうずくまった。
「大丈夫か、マリエ」
 問いかけるカレルも肩で呼吸をしていた。それでも額の汗を拭えば、まだマリエの手を引こうとする余裕があった。伊達に鍛えているわけではないらしい。
 手を引かれても、座り込んだマリエは立ち上がれない。城からここまで一度も立ち止まらずに駆けてきたせいか、疲れて目の前がちかちかしている。息も上がり、喉がかすれたような音を立てている。しばらくは呼吸も整えられそうになかった。
「大丈夫……では、なさそうだな」
 答えないマリエを見て、カレルは辺りに視線を巡らせる。
「ここでは往来の邪魔になる。あちらへ避けよう。立てるか?」
 マリエが座り込んでいたのは、街中を通る道の上だった。足元から伸びる広い道は、その両端に石造りの建物と木々を添え、街のずっと奥まで続いている。その向こうから馬車が近づいてくるのに気づき、マリエも慌てて立ち上がった。よろめきながらもカレルに手を引かれ、道端の木陰へと転がり込む。
「無理をさせたか、すまなかった。しかしお蔭で、無事に街へと辿り着けたぞ」
 そう言うと、カレルはマリエの傍らに膝をついた。
「よくついてきてくれた。礼を言う」
 大きな手がマリエの肩を押し、木に背を預けるよう促した。マリエがそれに従うと、絹の手巾を取り出して、そっと汗を拭ってくれる。
 畏れ多いとマリエは思ったが、そう口にする気力や体力はなかった。優しい手つきに、されるがままになっていた。
 自らの汗は外套の袖で拭い、カレルが声をかけてくる。
「水を持ってこよう。どこか井戸でもあればよいのだが」
「いえ、殿下……」
 すかさずマリエは反論しかけたが、声は続かず、激しく咳き込む結果となった。喉が渇き切って不快に痛み、今は口を開くのも辛かった。
「その様子では歩き回ることもできまい。少し休んだ方がよい」
 笑いながら命じたカレルは直後、マリエのフード越しの耳元へ顔を寄せた。声を落として言い添える。
「それと、街中では言葉に気をつけるように。素性がばれてはまずい」
 言われてマリエははっとした。視線を上げれば、身軽に立ち上がったカレルが目配せをしてくる。敏捷そうな青年はすぐに踵を返すと、一目散に街中へ駆けていった。
 白金色の髪をフードに隠し、簡素な外套をまとうカレルは、すぐに道行く人波の中へ紛れ込む。マリエはその背中が見えなくなった後も、しばらく道の先から目を逸らせなかった。

 今更ながら、不安を覚え始めていた。
 とうとう、城を抜け出してしまった。城下町まで下りてきてしまった。
 これから自分がどうなるのか、マリエには何もわからない。近衛兵に気づかれぬうちに城へ戻れるか、それとも知られて咎めを受けるか。前々から覚悟は決めていたはずだが、いざとなると心許なさを消し去ることができない。
 そしてここは常に安全に保たれた城内とは違い、警護をする兵もない。もし街中でカレルが危険な目に遭ったなら、マリエが身を挺して守らなくてはならない。にもかかわらず、こんなところで安穏と座っている自分が腹立たしく、もどかしい。
 しかし身体は既にくたくただ。街中に吹く風は乾いていて埃っぽいが、頭上に広がる緑の葉が風を漉してくれている。お蔭で鬱屈とした気分もいくらかすっきりした。木陰は火照った身体を涼ませるのにちょうどよく、わずかに零れた光が地面の上で揺れていた。


 しばらくすると、乱れていたマリエの呼吸も落ち着いた。
 笑う膝を叱咤し、木に手をつき、マリエはやっとのことで立ち上がる。途中で軽い眩暈を覚え、昨夜はあまり寝ていないことを思い出す。
 睡眠不足というなら昨晩のみならず、ここのところずっとだったが――大きく息をつき、気分の悪さを逃がそうとする。深呼吸を何度か繰り返せば、次第に眩暈も治まってきた。知らず知らず浮かんでいた汗を手巾で押さえ、マリエは再び木に寄りかかっていた。
 そして、今更のように気忙しい思いでカレルの帰りを待っていた。
 城に上がってからというもの、数えるほどしか訪れたことのない城下町の風景は、まるで異国の街並みのような寄る辺なさを抱かせた。カレルの姿が見えない心許なさは、マリエの心から他の考えを全て退けてしまう。
 早く戻ってきてくださればいいのだけど。
 そう、胸裏で呟いた時だ。

 俯いた視界の端を、赤い球体がかすめ、通り抜けていった。
 何の気なしに目を動かしたマリエは、木の根元にぶつかり、尚も転がるリンゴを見つける。
 よく熟した、美味しそうなリンゴだった。喉が渇いているマリエにはこの上なく魅力的な品だったが、日頃からカレルの不作法をたしなめる立場にある近侍が、どこかから転がってきた物に飛びつくことはできない。
 それでもリンゴは拾い上げ、どなたの物だろうと視線を巡らせる。
 すると、見覚えのある外套を着込み、フードから白金色の前髪を覗かせているカレルの姿が駆けてくるのを見つけた。両腕一杯に赤いリンゴを抱えたカレルは、マリエと目が合うと、悪戯がばれた後のような表情を浮かべる。
 マリエはその姿に堪らなく安堵し、しかし主がリンゴを持ってくる姿は不思議に思いつつ、その帰りを出迎えた。
「よくぞご無事で」
「大げさな。この程度、案ずるには及ばぬ」
 カレルは首を竦めた後、ばつが悪そうに続けた。
「しかしな、水を汲んでこようにも入れ物がなかった。井戸はすぐ見つけたが、水筒も何もないのでは、お前の元へ水を運んでいく手立てもない」
 何やらぼそぼそと、弁解をするような口調だった。
「それで、水が駄目なら果物がよいかと思ってな。ちょうど近くに天幕を張った果物売りがいたから、そこで果物を買ってきた。一応、美味そうなのを選んできたつもりだ」
 マリエは呆気に取られていた。もちろんカレルの心配り、そして奔走ぶりは大変に嬉しかったのだが、それにしても数が多い。カレルの両腕で抱え切れないほどのリンゴは、二人がかりでも平らげられないだろう。
「ありがとうございます」
 礼を述べたマリエは、ですが殿下、と続けようとして、慌てて飲み込む。
 代わりに別の言葉を続けた。
「ただ、いささか多いように思うのですが……いえ、お気持ちは大変嬉しゅうございますが、随分とたくさんお買いになられたのですね」
 近侍の発言に、カレルは一層気まずげにしてみせた。
「ああ、私もほんの少しでいいと思ったのだが、いかんせん金貨しか持ち合わせていなかった」
「金貨で、このリンゴをお買い上げに……?」
「そうだ」
 カレルが神妙そうにしていたので、マリエも強く諌める気にはなれなかった。何よりも、自分を気遣ってくれた上での行動だ。感謝こそすれど責める理由はない。
 だがそれでも、金貨一枚の価値くらいは理解していて欲しいものだと思う。平民ならば一家四人が何不自由なく一月暮らせるだけの額だ、ということくらいは。
「これより細かい金は持ったことがない」
 どことなく拗ねた様子でカレルは語を継ぐ。
「店の者にも、釣りがないと困惑されてしまった。店にある貨幣が足りないから、代わりにリンゴをあるだけ持っていってくれと申すのだ。しかし私も手は二本しかないので、持てるだけ貰って、後は要らぬと断ってきた。店の者もいささかしつこかったがな、どうにか振り切った」
 マリエの胸裏には、会ったこともないリンゴ売りの慌てふためく様子が浮かんできた。金貨を出されて、転がり込んできた大金を手放しで喜べる者はそう多くないだろう。リンゴ売りが善人であればいいが、そうでなければどうなるか――背筋が寒くなる。
 だが、そういった思いをカレル本人に告げたところで詮無いことだ。
 マリエはそれらの懸念を遠くに追いやると、素直な気持ちでカレルを誉めた。
「お一人でお買い物ができたのですね、ご立派です」
「当たり前だ。私も出入りの商人と話したことがあるし、品物を売ってもらったこともある。場所が変われど、買い物をすること自体はそう変わりないものだ」
 胸を張るカレルを、マリエは温かい気持ちで見つめた。
 買い物を済ませてきたことよりも、リンゴを買ってきてくれたことよりも、ひとまず無事で戻ってきてくれたことが一番喜ばしかった。

 二人は木の根元に並んで腰を下ろし、リンゴを食べ始めた。
 マリエはどれだけ頑張っても二つ食べるのがせいぜいで、カレルも努力はしたようだが六つ目を食べ終えたところで、もういいと言い出した。残りの五個は協議の結果、城へ持ち帰ることにした。
 カレルの上着の衣嚢に二つ、マリエが手巾に三つ包んで、食べ残しのリンゴは無事しまわれた。
 満腹になった二人は顔を見合わせ、お互いに明るく笑った。
「私はしばらくリンゴは要らぬ。お前はどうだ、マリエ」
「わたくしも、今日のところは十分でございます」
 喉の渇きも癒え、マリエの気分はすっかりよくなっていた。リンゴの効果はてきめんだった。特にそれが、他でもないカレルが買ってきたものなら尚更だ。
 人心地ついたところで、先にカレルが立ち上がった。
「そろそろ行くか、マリエ」
「はい、でん――いえ、あの、お供いたします」
 マリエは、すんでのところで敬称を口にしなかった。
「うむ」
 カレルは満足そうに頷くと、マリエに向かって手を差し伸べる。マリエが目を瞬かせると、面映そうに説明を添えてきた。
「道の向こうは人出が多い。逸れてしまわぬよう、手を貸すがよい」
「はい、仰せの通りに」
 素直に手を取ってもらったのは、主の言う通り、逸れぬようにする為だ。この広い城下町で互いを見失えば大変なことになる。それでなくてもマリエは、もう置いていかれるのは嫌だった。次にカレルがどこかへ行く時は必ず付き従おうと思っていた。

 手を繋いだ旅装の二人は、午後の日が照らす街並みを歩き始めた。