今でも

 昼下がりの一時、マリエは芳しいお茶の香りと共に、カレルの居室を訪ねた。

「殿下、お茶の用意が整いました」
 テーブルの上には茶器一式と、まだ湯気を立てている焼き菓子が並んでいる。
 マリエが椅子を引くと、カレルは緩慢な動作でそこに腰かけた。しかしすぐに頬杖をつき、嘆息する。
「本日はお庭の木苺でパイを焼きました。殿下のお口に合うといいのですが」
 言いながらマリエは、ナイフでいい焼き色のパイを切り分け始めた。ざくりと音を立てた後、現れた見るからに甘酸っぱい木苺の色味に、マリエは思わず笑みを零す。今日のお茶菓子は会心の出来だった。マリエ自身が喉を鳴らしたくなるほどに、美味しそうに仕上がっている。
 しかしカレルはと言えば、心ここにあらずといった様子だ。健啖家らしくもなく目の前のパイには一瞥もくれず、ぼんやりとマリエの挙動を眺めている。
 そのそぶりに気づいたマリエは、思わず尋ねた。
「殿下、ご気分が優れないのですか」
「そうではない」
 カレルはマリエから目を逸らし、またしても深い溜息をつく。
「そうではないが……気分がよいわけでもない」
 木苺のパイですら癒せぬ憂鬱とは、やはり例の懸想についてだろう。
 先日、マリエはカレルの声に成り代わるという案を立てたが、それを実行した相手は歴史の家庭教師のみで、しかも二人揃って説教を食らうという散々な結果に終わった。要は王子の悪戯に加担しただけということだ。言われるがままに従ったことを、マリエも少々悔いていた。
「わたくしに、殿下のお心を軽くすることができればいいのですが……」
 気遣うつもりで口を開くと、カレルはちらりとマリエを見やる。
「私を案じているのか、マリエ」
「もちろんでございます」
「なら……できる、と言ったらどうする」
 カレルはためらいがちに、次の言葉を継いだ。
「お前には、私の心を軽くする術がある。そう言ったら、お前はその通りにしてくれるのか」
「必ず、その通りにいたします」
 間髪入れず、マリエは答えた。
 主の為にできることがあるのなら、迷わずその術を実行することだろう。無論、先日のような悪戯は受け入れかねるが――それ以外でなら。
「殿下の御為なら、わたくしは何でもいたします」
 マリエが更に言い募ると、それにはカレルも目を白黒させた。椅子から身を乗り出すようにして、聞き返してくる。
「何でも……と申したか」
「はい、殿下」
「いや、しかし、それは……その目で言われたところで、期待もできぬな」
 カレルはマリエの黒い瞳に視線を定め、言葉通りに期待の色を消してしまう。
 数度の失敗が、主からの信用に響いているのかもしれない。マリエはしゅんと項垂れた。
「ご期待に沿えず、申し訳ない限りです……」
 するとカレルは慌てふためき、
「そうではない。そういうことではないから落ち込むな、マリエ」
 年上の近侍を宥めた後、溜息と共にこう続けた。
「わかった。一つ、お前に頼みたいことがある」
 途端にマリエは勢いよく面を上げた。挽回の機会だ、張り切らないわけにはいかない。
「何なりと」
「では答えよ。女の心を掴むには、何をなせばよい?」
 だがカレルから告げられた問いは、マリエにとって難題だった。
「女心を……それは、わたくしにも難しいことでございます」
「なぜだ。お前とて女であろう」
「仰る通りではございますが、わたくしはご存知の通りお城勤めの身。わたくしの感覚が普通であるとも思えませんし、他の婦人の気持ちまでは……」
 マリエも紛れもなく女だが、過去に誰かからその心を掴もうとされたことは一度としてなかった。カレルのように、懸想するあまり思い詰めてしまうようなこともなかった。
 カレルが何を尋ねたいのかは理解している。だがその問いに対し、普遍的かつ実用的な答えができるとは到底思えなかった。
「私はお前に問うたのだ」
 だがカレルは有無を言わさぬ口調で答えを求めてくる。
 そこでマリエも視線を落とし、しばし黙考に暮れた。
 このところ失敗続きだった。今こそ求められた務めを果たさなくては、近侍として、忠誠を誓う身としての名折れだ。

 落ちた視線はさまよい、主君の問いに適した答えを探し続ける。
 やがてマリエの瞳に留まったものは――焼きたての、木苺のパイだった。

「殿下、妙案がございます」
 嬉々としてマリエは面を上げ、カレルから瞠目の表情を得る。
「自ら妙案と申すか。答えよ、マリエ」
「はい。世の女性というものは、総じてお茶と、甘いお菓子を好むものでございます」
 マリエは胸を張って答えた。
「そういうものなのか」
「さようでございます、殿下。わたくしが以前読んだ、ものの本にも書いてありました」
「ものの本とは、いかような本なのだろうな」
 カレルはあからさまに疑わしげな視線をマリエに向けた。
 しかし向けられた方は意に介さず、自信たっぷりに語を継ぐ。
「外つ国に伝わるお伽話の中にもございました。女というものはそもそも、主に砂糖でできているとのことです」
 これにはカレルも眉を顰めた。
 当然だろう。目の前で話をしている女すら、砂糖でできているようには映らないはずだった。
「女が砂糖でできているわけがあるまい。水をかければ溶けてしまうではないか」
「お言葉ですが、殿下。外つ国ではそのように言い伝わっているのです」
「なぜそのような言い伝えになるのだ。皆目わからぬ」
「皆が総じて、甘いお菓子ばかりを食べているからかもしれません。そして現に、世には甘い物をこよなく愛する女たちが溢れております」
 異を唱えるカレルにも臆すことなく、とうとうとマリエは続けた。件のものの本の解釈を取り違えているとは考えもしない。
「ですから殿下、差し出口とは存じますが、かの方を一度お茶に招いてみてはいかがでしょうか。女性の心を掴むなら、あえて婉曲的な手だてを取った方がよいこともありましょう。お茶と甘いお菓子とがあれば、どんな女性の心をも惹きつけることができましょう」
 これこそまさに妙案だ。マリエは一人、悦に入った。

 会うなりすぐさま思いの丈を告げようすれば、舌が縺れてしまうだけだろう。
 現にカレルは、どのような言葉で告げるかで思案に暮れていたこともあった。愛の告白を主目的に据えるなら、おのずと緊張もするものだ。相手の側とてその空気を察すれば、落ち着き払ってもいられないだろう。
 そこへお茶とお菓子を差し出すのがマリエの役目だ。
 緊張走る場の空気を和らげ、自然と穏やかになるように、お茶とお菓子を用意する。恐らくそれらは期待通りの働きをしてくれることだろう。

「お前が言うのなら、確かなのだろうな」
 カレルの相槌に、マリエは深く首肯した。
「はい、殿下。ですからその時は、わたくしもとびきり甘いお茶菓子をご用意いたします。美味しいお茶とお菓子とで、殿下の想う方の心すらとろかしてしまえるように」
「なるほど」
 複雑そうな面差しを見せながら、カレルは肩を竦めた。そしてようやく、卓上に設えられた茶器と木苺のパイに目を向ける。
 その目にふと何かが閃き、口元がにやりと笑んだ。
「そうだ、思い出した」
 急に愉快そうにしたカレルが続ける。
「お前も甘い菓子が好きだったな、マリエ。私の茶菓子を物欲しそうな目で眺めては、喉を鳴らしていたのを覚えているぞ。皆の目を盗んで茶菓子を分け与えてやったこともあった。覚えているか?」
 たちまちマリエは赤面し、慌てて反論した。
「お、お言葉ですが……それは昔の話です、殿下」
「しかし事実には違いあるまい。今でも甘い物が好きなのだろう? そうだな?」
「……ええ。あの、確かに好んでおります」
 不承不承認める。
 今でも、自ら拵えた茶菓子に喉を鳴らすくらい、マリエは甘いお菓子を好んでいた。

 マリエがまだ城に上がったばかりの頃、他の者の目を盗み、カレルとお茶の時間を共にしたことがあった。
 お茶菓子を作るのは楽しいことだが、マリエがそれを口にできるのは味見の時のみだ。カレルがお茶を飲む間は傍らに控え、給仕をするだけだった。だが物欲しそうな顔をしていたのだろう、心優しい王子はマリエに、時々お茶菓子をそっと分け与えてくれた。
 カレルがくれたお茶菓子を味わう時、少女時代のマリエは、何とも言えぬ幸せとを感じていた。本来なら許されぬささやかな罪や秘密を共有して、どうしてか胸が温かくなった。
 だが今思えば、不敬も甚だしい行為だ。
 思い出すだけで、マリエは畏れ多さに震え上がった。

「あの頃は殿下のお心遣いに、とても幸せな思いができました。その節はお目を掛けてくださり、ありがとうございます」
 マリエが頬を紅潮させながら一礼すると、カレルは満足げに笑んだ。
「覚えていたか。お前の食欲には、あの頃より目を瞠るものがあった」
 そして切り分けられた木苺のパイを指し示し、おもむろに言い放った。
「では、よい機会だ。今日はここに同席するように」
「え?」
 告げられた言葉を、マリエはすぐに受け止められなかった。
 カレルは焦れたように尚も促す。
「私の言う意味がわからぬか。ここで茶を共にせよと言ったのだ」
「殿下、それは……」
 マリエの表情の変化は忙しなかった。今度はさっと血の気が引き、頬が引き攣るように固まる。目は宙を泳ぎ出し、やがてそっと伏せられた。答える時は素早くかぶりを振った。
「それは、とても畏れ多いことです。申し訳ございません、殿下」
 震える声に、内心の動揺が如実に現れていた。
 途端にカレルも笑みを消す。それでも一度は、冷静に問い質した。
「なぜだ。昔は喜んで相伴してくれたというのに、今はできぬと申すか」
「畏れながら、今は、昔とは違います。わたくしも立場を弁えるということを学びました」
 答えるや否や、室内の空気がたちまち凍りつく。
 主が機嫌を損ねた様子を、マリエは敏感に察した。しかしカレルの望むようには答えられない。
 胸にある忠誠心と、近侍としての慎みが、激しく葛藤する。主たるカレルと同じテーブルに着くことは甚だ不敬なふるまいだった。まして彼が着いているのは円卓で、そうなるとどこに座れば恭しく謙ったことになるのか、マリエには見当もつかない。
「私の命令が聞けぬと申すか」
 カレルが眉を逆立てる。
 その前で、マリエは項垂れるより他ない。
「申し訳ございません、殿下。しかし殿下のお立場をも察すればこその無礼、何卒お許しいただきたいと存じます」
 やはり今は、昔とは違った。今でもマリエは甘いお菓子に心惹かれており、そしてカレルに対しても主として以外の親愛の情を抱いている。
 しかしそれらを抑え込む、身分と立場の差を学んでいる。近侍として出すぎず、礼を失せず、その上でカレルの全て望むようにとふるまうのは難しいことだった。
「……そうか。ならば、仕方あるまい」
 既に幼いばかりではない王子は、意外なほどあっさりと怒りを収めてみせた。
 それからじっとマリエを見つめ、感情を込めない声で告げてきた。
「お前は、よい近侍となったのだな、マリエ」
「お褒めにあずかり、光栄でございます」
「褒めたわけでは……いや、好きなように受け取るがよい」
 諦観を隠さずにカレルは申し渡し、その後で落胆の表情を浮かべてみせた。主にそんな顔をさせてしまったことをマリエは気に病んだが、直後、カレルの言葉が場の空気をがらりと変えた。
「ならば、私にも妙案がある」
「妙案……で、ございますか、殿下」
 こわごわ尋ね返すマリエに、カレルは少しばかり寂しげな笑みを向け、
「ああ。このパイを一切れ、お前に分け与える。お前はそれを持ち帰り、誰の目にも留まらぬように一人でこっそりと食べるように。……どうだ、これならば不敬などとは思えまい?」

 かくしてマリエは木苺のパイを一切れ、油紙に包んで持ち帰ることを許された。
 カレルの居室から退出した後、人目につかない城内の片隅でそのパイを頬張りながら、マリエはふと思案に暮れた。
 殿下はなぜ、自分にパイを持たせてくださったのだろう。
 甘い物を好んでいることを思い出してくださったからだろうか。
 ではその直前、自分をお茶に同席させようとしたのも、やはり甘い物に目がない従者を慮ってくれたから、なのだろうか。
 筋の通らぬ話ではなかったが、どことなく脈絡のない命令だったようにも思う。
 腑に落ちず首を傾げるマリエは、忠心こそ持ち合わせているものの、カレルの胸中を洩らさず推し測れるほどの勘のよさを持たなかった。

 その後しばらく、カレルはお茶の時間の度に、マリエにお菓子を分け与えようとした。
 マリエはそれを、立場と礼を失しない程度に受け取るようにしていたが、やはり腑に落ちない思いは残り続けたのだった。