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間に合わない懺悔

 その日、マリエは朝からあくびを噛み殺していた。
 主の前ではみっともない真似こそしなかったが、睡魔は常にまとわりついて、ともすればマリエの意識を遠くへ飛ばそうとする。王子の居室にある大きな窓からは柔らかな陽光が差し込み、ぽかぽかと暖かいのがかえって恨めしい。全ては昨夜の夜更かしが原因だった。
 そして寝不足なのは昨夜だけに限った話ではない。

「近頃のお前はいつも眠そうだ」
 椅子に腰かけ剣の手入れをするカレルが、そんなマリエを見咎め、声をかけてきた。
「寝不足ではないのか? 無理をすれば身体を壊すぞ」
 その言葉の示すとおり、ここ最近のマリエの顔には寝不足の様相が表れていた。目は赤らみ、瞼はは腫れぼったく、顔色もあまりよくなかった。
「はい、殿下。恥ずかしながら……」
 マリエは言葉通りに恥じ入りながら答える。
「実は近頃、本格的な勉強を始めたのでございます」
「勉強、と申したか」
 カレルはぎょっと目を見開いた。城つきの家庭教師を幾人も抱える王子にとって、その言葉はあまり好ましくないもののようだった。
「なにゆえそのようなことを。お前が自ら望んでのことか?」
「はい、殿下。その通りでございます」
「お前は元より風変わりなところがあったが、よもや勉強など自発的に始め出すとはな。父上ならば、勤勉こそ鑑であると大いに喜んでくださるのだろうが、私はそうは思わぬぞ」
 カレルの視線はどことなく胡散臭げだった。刃引きした剣を布で拭く、その慣れた手つきこそ大人のようだが、中身の方はまだ幼い少年なのかもしれない。
 こっそり笑いを噛み殺しつつ、マリエは言葉を続ける。
「わたくしは何かと不勉強なものですから。もっと殿下のお役に立てるよう、学ぶことを始めたのでございます」
「私の役に立つようにだと?」
 剣を拭く手を止めたカレルが、光る碧眼でマリエを捉える。
「お前は一体、何を学ぶつもりでいる」
「はい。恋愛とはどのようなものか、きちんと学び、知っておきたいと思ったのでございます。古今東西の恋物語を読み解き、殿下に力添えができるよう、まずは基礎から知るつもりでございます」
 近侍のはきはきとした答えを聞くが早いか、カレルの顔には複雑そうな色が滲んだ。
「また例の、大して当てにもならぬ本を読んでいるのか」
「お言葉ですが、当てにならぬ本ばかり読んでいるわけではないつもりです」
 おずおずとマリエは反論した。
 これまでマリエの努力が当てになったという自覚はさほどなかったが、皆無でもないつもりだった。少なくとも先日の進言は、ある程度の信憑性もあるものだと思っていた。
 だがカレルは嘆息し、苦々しい口調で言った。
「これまで一度として、お前がひも解く『ものの本』が役立ったことなどあったか。この間の甘い物の話も、結局は何の効も奏さなかったのだぞ」
 腰かける椅子に肘を置き、カレルはもう一度溜息をつく。
 だがその時、マリエは懺悔よりも先に疑問を抱いた。三度瞬きをしてから、慎重に尋ねた。
「功を奏さなかったと仰いますが、殿下はあれを試されたのですか?」
 マリエが知る限り、ここ数日のうちにカレルを訪ねてくる客人はなかった。カレルの日程管理にも携わる近侍が、主が客人を招きお菓子を振る舞ったという事実を知らずにいるのは奇妙なことだ。いつの間に、あの案を試したのだろう。
 一方のカレルはあからさまに動揺し、それを誤魔化すように油壺の蓋を開いた。
「試した……というより、まあ、似たようなことはした」
「存じませんでした。いつ試されたのですか?」
 マリエが尋ねると、カレルは刀身に薄く油を塗りながら答える。
「思い当たらぬか、マリエ」
「え? ええ、全く……」
 主の口ぶりは、マリエが知っていて当然だと言いたげだ。
 だがマリエには一切の心当たりがない。困惑していると、カレルはまた溜息をつく。
「考えてもわからぬならば、この件に関しては忘れるように。これは命令である」
 言い渡された命令に、結果としてマリエは従った。首を捻りたい気持ちはあったが、主君の前ではさすがに控えた。
 カレルは咳払いの後、気分を変えたように明るく語を継いだ。
「しかし勉強を自ら望んでするとは物好きな奴だ。私はどうも机にしがみつくのが好きではない」
「殿下の御為ならばその程度のこと、苦ではございません」
 マリエは心から答え、目を瞠るカレルの前ではにかんだ。
「それに……殿下には、感謝の気持ちもお伝えしたかったのでございます」
「感謝とは、何だ」
「その、近頃はよくお茶菓子を分けてくださいますから……」
 先日の木苺のパイを皮切りに、お茶の時間に出されるお茶菓子をたびたび分けてもらうようになっていた。マリエも三回に一度くらいは立場を弁え遠慮をするのだが、そうするとカレルは機嫌を損ねるし、マリエ自身も残念な気持ちになるので、なるべく受け取るようにしている。
 それに、幼い頃に戻ったような温かさも覚えていた。マリエがまだ大人になる前、カレルのことを今以上に近しい存在だと思っていた頃――今はもう、畏れ多くて、そんなふうには思えない。
「不敬なこととは存じておりますが、お気持ちは嬉しく思っております」
 マリエはためらいがちに主へ打ち明けた。
「ですから、そのお気持ちに報いる働きができればと考えたのでございます」
「……そうか」
 カレルは油を塗る手を止め、なぜか目を丸くしてマリエを見た。
 それから呆然と呟く。
「ある意味では功を奏したと言えるのか……?」
「何のことでございましょうか」
「独り言だ。ともかく、お前の思いは嬉しいが、無理をして身体を壊しては元も子もない」
 いくらか柔らかくなった声音で、カレルは言い含めてくる。
「よいか、机に向かうのも程々にせよ。私などは程々にしているからこそ、毎日元気でいられるのだ」
 それはカレルらしい気配りの言葉だったが、家庭教師からの苦情を聞く立場のマリエとしては容易に頷きがたい発言でもあった。
 近侍の内心を知ってか知らずでか、カレルは油で艶を増した剣をためつすがめつしている。
「私は勉強などより、近衛の連中と剣を合わせている方が気分がよい」
「聞き及んでおります。殿下の剣術の腕前は、相当なものでいらっしゃるとのこと」

 次期王位継承者であるカレルには、生まれつき備わった数多の才能があった。
 中でも突出しているのが身のこなしの敏捷さだ。近衛隊長アロイス直々に手ほどきをする剣術の腕前は、警護に当たる近衛兵たちですら舌を巻くほどの上達ぶりだという。カレルも自身の才能に気づいているようで、剣術の稽古にはことさら熱が入っていた。
 もっとも、優れているのは身体能力だけに限らない。カレルは決して愚鈍でも怠け者でもなく、苦手としている勉強についても、その気にさえなればめきめきと身につけていくに違いなかった。その気持ちをどう切り替えさせるかが問題なのだが。

「わたくしには殿下のように天賦の才などございませんから、勉強が必要なのでございます」
 マリエは主に向かって告げると、微笑んでから語を継いだ。
「それで、本日こそ、殿下のお耳によい話をお持ちできたと存じます」
「よい話しか。では聞いてやろう」
 カレルが剣を置き、続きを促してくる。
「ありがとうございます。意中の方との仲を深める為には、会話のきっかけとなるものが必要なのだと、ものの本にございました。そのきっかけには、手巾を用いるのでございます」
「手巾、だと?」
 聞き返してきたカレルが、上着の懐から手巾を取り出す。柔らかい絹でできたその手巾をひらひらさせるので、マリエはすかさず頷いた。
「はい。想う方の前で手巾を落とせば、それをきっかけとして仲を深められると」
 マリエは相変わらず自信たっぷりに語った。
 だがカレルは怪しむ口調で問い返す。
「どういう理屈だ。全く訳がわからぬのだが、お前はいかような本をひも解いた」
「恋物語でございます。外つ国に伝わっているものだとのこと」
「本当にそんな文言が記されているのか? 一度、話の種に読んでみたいものだ」
「いえ、殿下のお目にかけるには……その、いささか俗な本でございますから」
 慌てたマリエが答えれば、カレルは眉間に深い皺を刻んだ。俗な本とやらがどんなものか、一国の王子たる身分では知りようもないはずだった。胡散臭がるのももっともなことだ。
 それでも、近侍の努力をむげにする気はないのだろう。握り締めた手巾を見据えながら、マリエに対して尋ねてくる。
「これを、どのようにすればよいのだ」
「はい、殿下。それを想う方の目の前で、床に落としてみせるのです」
 マリエの回答を得、カレルは一瞬、怯んでみせた。
「何と、私がか?」
「殿下がなさらなければ何の意味もございません」
「そうか、しかし……うむ」
 躊躇いがちに睫毛を伏せ、しばし逡巡するそぶりを見せていたカレルは、だがついに思い立ったようだ。頬を紅潮させながら、椅子から機敏に立ち上がった。
 深く息を吸い込み、ゆっくりと腕を伸ばす。それからはもうためらわず、長い指先が掴んでいた手巾をぱっと放した。緩やかに揺れながら、手巾はひらひら床に落ちていく。
 ちょうどマリエの足元に、落ちた手巾が広がった。
 それを確かめた後、カレルは口を開いた。
「これで……どうなると言うのだ」
 その一挙一動を見守っていたマリエは、思わず呆然とした。我に返ってからは大急ぎで説明を付け加える。肝心なことを言い忘れていたようだ。
「説明が足りず申し訳ございません。手巾は、どこでも落とせばよいというものではございません」
「何?」
「想う方の目につくような、その方が通りかかりそうなところでさりげなく落とし、その方に拾ってもらわなくてはならないのです。このような部屋の中で落とされても全く意味をなしません」
 マリエは申し訳なく思いながら告げると、身を屈め、足元に落ちた手巾を拾い上げた。一度手で払い、きれいに折り畳んでから、カレルへと差し出す。
「今度こそ、わたくしがお役に立てるといいのですが。よい結果が生まれますよう、お祈りいたします、殿下」
「……そうか」
 言葉少なに、カレルは手巾を受け取った。
 何とも言えぬ複雑な表情が浮かんでいたのは、効果のほどを疑っているからだろうとマリエは思い。だからこそ、よい結果が出ることを心から祈った。

 そして、数日後。
 城内の回廊を足早に歩いていたマリエは、ふと先を行くカレルの背中を発見した。兵を連れ、県の稽古に出向く最中のようだ。
 カレルもマリエに気づいたか、一度ちらりを振り向いて、その直後だった。
 主の手元から、はらりと小さな布が落ちたのが見えた。

 あ、とマリエが思うよりも早く、帯同していた近衛兵の一人が、素早くそれを拾い上げた。
「殿下、落とし物をなさいませんでしたか」
 足を止め、振り向いたカレルは、離れたところから見てもわかるほどに不機嫌そうだった。
「ああ、落とした」
「そうでしょう。どうぞ」
「……恩に着る」
 感謝を述べた言葉とは裏腹に、聴こえてきた声は低く、震えていた。ハンカチを受け取る仕種に、やる方のない憤懣が滲み出ているのがマリエにも察せられた。

 今更になって、マリエは深く懺悔した。
 部屋の外では常に兵を従えているカレルに、この策は全く不向きであった。
 遅い懺悔ではあったが、どうやらこの度も役立てなかったらしいカレルへ、そして確実にカレルを苛立たせたであろう近衛兵へ、心中密かに詫びたのだった。
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