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低い声

 近侍の仕事は多岐にわたる。
 例えば、食事。城内においてさえ、カレルの口に入る全ての食べ物はマリエの厳重な管理下にあった。マリエには専用の厨房が与えられ、主の食事はそこで作られたもののみお出しするようにと定められている。もっとも少年らしく健啖家の主は、時々マリエの目を盗んでは城の庭に生る木の実を食べたり、近衛兵から弁当の上前をはねたりしているようだが。
 例えば、衣類。カレルの着衣は信頼のおける仕立て屋を城に招いて作らせていたが、仕上がった着衣の検分、洗濯、手入れは全てマリエの務めだ。身体を動かすことを好むカレルが鉤裂きを作るのも珍しいことではなく、マリエは日々着衣を検める作業に追われている。
 例えば、日程の管理。近頃のカレルは国の公務に駆り出される機会も多く、また拝謁を求める人々の請願も後を絶たない。その多くは妃となることを望む令嬢たちによるものだ。マリエはそれらの請願を一つ一つ確認し、カレルの許しを貰い、城の執政に話を通し、近衛隊長に警備の打診をし、それでようやく招待の手紙を送ることができる。
 そして王子殿下には、よりよき王となる為に学ぶべきことが山ほどある。そういった勉学の時間を管理するのも、やはりマリエの務めだ。

 本日はカレルの家庭教師が城を訪ねてくる日だった。
 カレルを呼びに居室へ向かうマリエは、少々気が重かった。何せ主は机に向かって勉学に励むのがあまり好きではないらしい。こと国の歴史の勉強においては、気難しい年寄りの家庭教師とたびたび意見の衝突を起こしているそうだ。マリエはその時間に同席していない為、事の次第は家庭教師から一方的に聞かされただけだったが、どうもそりが合わないようだと察していた。
 しかしながら本日は、その歴史の家庭教師の授業がある。
 マリエの迎えを待つカレルは、さぞかし浮かぬ顔でいることだろう。すんなりと向かってくれればいいのだが――そうとも思えず、マリエは憂鬱な思いで主の居室に立ち入った。

「殿下、お支度は整いましたか?」
 マリエが声をかけると、寝室に立っていたカレルがすぐさま振り向いた。
「遅かったな、マリエ。もう全て済ませてしまったぞ」
 ぎこちない笑みと共に言ったカレルは、既に着替えを済ませ、白金色の髪をきれいに撫でつけ、一通りの支度を済ませて立っていた。
 マリエは驚きに目を瞠った。歴史の家庭教師が来る日は『気乗りがしない』と支度を滞らせているのがいつものカレルだ。それを見越して時間より早めに迎えに来たのだが、今日に限ってはその必要もなかったらしい。
「お待たせして申し訳ございません、殿下」
 我に返ってマリエが詫びると、カレルは笑みながら頷く。
「ああ、待った。お前が来るのを今か今かと待っていた」
「それは失礼いたしました。お出かけ前に、わたくしに何かご用でしたか?」
「お前はいつもそれだな。用がなければ呼んではならぬという決まりはあるまい」
 どうやら、カレルはマリエの到着を待ち侘びていたらしい。珍しく気を逸らせた様子で、ぐるぐると寝室を歩き回っていた。マリエが室内に立ち入ってからもしばらく、落ち着きを失った靴音が続いていた。

 ――近頃の殿下は、随分と機嫌がよろしいようだ。
 マリエは心中で首を傾げた。
 想い人のことで、カレルが煩悶していたのはまだ数日前の話だ。日に日に活力を失っていくように見えていた。
 だが萎れた花のようだったカレルが、ある日を境にいきなり生気を取り戻した。みるみるうちに元気になって、愛想のいい笑顔を振り撒くようになった。その変わりようたるや城内の誰もが首を傾げるほどで、やはり幾人かにそれとなく尋ねられたマリエも、今回ばかりは秘密にすべき答えすら持ち合わせていなかった。
 無論カレルの喜びはマリエにとっても喜びであり、幸いでもある。主が元の通り、活力溢れた日々を送ることが出来るなら、何の憂いもなく幸いなことだ。しかしこうも唐突に、そして劇的な変貌ぶりを遂げられると、その振る舞いがいささか不可解にも思えてくる。
 恐らくカレルには何がしかの出来事があったのだろう。物憂い心を晴れ渡らせるような契機が、彼の身に起こったのだろう。だがそれが何か、常に傍らに控え、日々身の回りの世話をするマリエにすらわからない。
 ずっと見守ってきたはずのカレルの内心が推し測れぬ状況が、マリエに複雑な思いと焦燥を抱かせていた。

「殿下、近頃はとみにご機嫌よろしいようですね」
 マリエはそっと声をかけた。
 するとカレルは歩き回っていた足を止め、いい笑顔で応じた。
「特に機嫌がいいというわけではない。一つのことが片づき、気分が落ち着いただけだ」
 答えの割に、カレルはどこかそわそわしていた。足を止めても靴の爪先がしきりに上下を繰り返す。指先で白金色の髪を弄りながら、視線は室内のあちらこちらを彷徨っている。
 片づいたとは何のことだろう。近頃、殿下の懸念を吹き飛ばすような朗報でも舞い込んできただろうか。マリエは思案に暮れたが、答えにはたどり着けなかった。
「全てが片づいたわけではないのだ。懸念すべきことはまだたくさんある。時が訪れてしまうその前に、全て片づけておかねばならぬ」
 カレルは自らに言い効かせるように呟くと、控えるマリエに視線を定める。
「かくなる上はだ、マリエ」
 切り出す声は微かに緊張を帯びていた。
「お前に一つ、尋ねたいことがある」
 マリエも思わず居住まいを正す。
「何なりと、殿下」
 恭しく一礼して答えれば、カレルは再びマリエから視線を外す。寝室に飾られた花瓶の中、活けられた庭の花を見つめつつ、ゆっくりと切り出した。
「どうしても口にできぬ言葉を、あえて相手に伝えなくてはならぬ時。お前ならどのような手を用いる?」
「わたくしが……でございますか?」
 マリエは黒い瞳を瞬かせた。
 その顔を見ぬまま、カレルは低い声で続ける。
「そうだ。たやすく口にできぬ言葉が、私の内にはある。しかしそれを相手に伝えないことには何も始まらぬ。私はそれを伝え、この胸裏にある懸念を晴らさなくてはならないのだ」
 やはり、とマリエは思う。
 やはりそれは、カレルにとっての想い人の話のようだ。彼に活力を取り戻させ、気分を落ち着かせたのも、恐らくはその相手なのだろう。では事態は多少なりとも好転しているのかもしれない――そう思い至ると、マリエの心も自然と弾んだ。
 カレルの想う相手を、マリエはまだ知らない。ただその口ぶりから、およそ結婚を許されるような相手ではない身分の婦人なのだろうと察していた。
 そうだとしても、マリエはカレルの心の平穏を望んでいた。カレルが望むことを、望むようにするのが一番いいと考えていた。想いを告げることを望むのならば、止める必要などない。
「殿下、殿下は遂に、想う方へそのお心を伝えるおつもりなのですね」
 思わず声を上げたマリエに、カレルは一瞬、怯むような顔をした。
 すぐに睫毛を伏せてしまう。
「……そのつもりだ。しかし、言葉にするのはたやすいことではない」
 溜息まじりの言葉が零れた。
「情けない話だが、私は、上手く告げられそうにないのだ。相手の顔を目にすると言葉が浮かばなくなってしまう。離れている間は何とでも想えるのに、奇妙なものだ」
 今は大人の面差しで、カレルがもう一度嘆息する。
 マリエの心は軋むように痛んだ。煩悶する主への同情と、その心の内がわからない寂しさとを覚えた。
「わたくしに何か、お力になれることがあればいいのですが……」
 マリエが本音を口にすれば、カレルは複雑そうに苦笑する。
「そう思うのなら、是非力を貸して欲しい。マリエ、お前ならどのようにする? どうしても言葉にできぬ想いを伝える為、どのような手段を取る?」
「わたくしが、ですか」
 問われてマリエは瞑目した。
 しばし、考える。

 一番適当だと思うのは、手紙だった。懸想文だ。
 あれならば言葉にはできぬことでも、容易に伝えられるだろう。
 しかし、マリエは一度失敗している。胡散臭い詩集から引っ張ってきた文句はカレルの怒りを買っていた。マリエにとっても恥ずべき記憶となっていたので、あの懸想文のことを蒸し返すのはよくないと思い直す。
 それでは、他に何かあるだろうか。マリエは別の記憶を手繰り始める。
 実はあれからも暇を見つけては、城の書庫へと足を運んでいた。そこにカレルの為に役立つ話はないかと探すこともしていた。懸想文の一件から、先走らぬようにと留意して口を噤んでいたが、求められれば取り出せるだけの情報が、今はマリエの胸中にある。

 そこでマリエは視線を上げ、胸を張って答えた。
「一つ、案がございます」
「申してみよ」
 カレルが促す。
 マリエは頷き、すぐに言葉を続けた。
「はい。恐れながらわたくしが、殿下の声になりましょう」
「何? 私の声に、だと?」
「さようでございます。殿下が、想う方の前で言葉を口に出来ないとおっしゃるのであれば、わたくしが殿下のお声になり、その言葉を口にいたしましょう。そして殿下のお心をその方へとお伝えしましょう」
 やや得意げに提示された案に、しかしカレルは眉を顰めた。訝しそうに尋ね返してくる。
「マリエ、それは一体どういうことだ。お前が私の声になるというのは」
「殿下はわたくしに、前もってそのお心をお話してくださればいいのです。わたくしはそのお心を、そのまま声にいたします。殿下が想う方の前へ赴かれた時、そっと物陰から声にいたします。その時殿下はこう、口を動かしていただくだけでいいのです」
 マリエは口をぱくぱくと動かしてみせる。
 滑稽としか言えないその仕種に、カレルはこめかみを押さえ、呻いた。
「それは奇策だな、マリエ。また愚にもつかない書物をひも解いてきたのか」
「さようでございます。わたくしはとてもよい案であると存じます」
 向けられた皮肉も意に介さず、マリエは意気揚々と語を継ぐ。
「実際に、そのようにして愛を告げた方もいらっしゃるのだそうです。書物の中にはそういった逸話が記されておりました。わたくしも殿下のお役に立てるのならば本望でございます」
「しかしそれでは……、私は誰に、心の内を告げなくてはならぬのだ」
「何卒わたくしにお申しつけください。一字一句違えぬよう、しかと心に留め置きます」
 言い切るマリエの真剣な面持ちを、カレルはまじまじと見ていた。
 マリエは怪訝に思いながら、主に物問いたげな視線を返す。
 カレルは双眸に戸惑いの色を隠さず、何を言ったものかと迷っているそぶりでもあった。その心中はやはり測り知れず、マリエはもどかしさを覚える。
 しばらく見つめ合った挙句、先に目を伏せたのは、カレルの方だった。
「……それができたら、苦労はない」
「殿下」
 はっとしたマリエが口を開いたのを、カレルは片手で遮った。そして低い声を立てる。
「お前のその案は、到底使えるものではないのだ。わかるか、わからぬだろうな」
 舌鋒鋭く向けられた言葉に、思わずマリエも顔を強張らせる。
「殿下、それは一体……」
「考えてみよ。考えてもわからぬようであれば、仕方あるまい」
 カレルはそう切り捨てた。

 愕然としながらも、マリエは思いを巡らせる。
 また無神経なことをしでかしたのだろうか。そうに違いなかった。
 そもそもカレルの想う相手をマリエはまだ知らない。もしかするとカレルは、その相手が誰であるのか、長い付き合いの近侍にも教えたくないのかもしれない。
 そこへ自分がずけずけと踏み込んでいくのは無神経で、無遠慮なことだ。自らの不敬さに気付き、マリエは血の気が引く思いだった。

「申し訳ございません、殿下」
 すかさずマリエは頭を垂れた。
「わたくしは不躾なことを申し上げました。どうぞお忘れになってください」
「構わぬ。お前の気を回し過ぎるところも、そのくせ存外に気の回らぬところももう慣れた」
 カレルの深く長い吐息が聞こえてくる。そこにどれだけの内心が秘められているか、今のマリエには思い及びもしない。
 自分はどれだけ迂闊で、役立たずなのだろう。カレルの心を軽くするどころか、機嫌を損ねるばかりで妙案も用意できないとは。酷く落ち込んだマリエは、謝罪の言葉も続けられぬまま項垂れていた。
「マリエ、面を上げよ」
 さすがに見かねたのだろう、カレルが言い、マリエはこわごわ顔を上げる。
 呆れたような、それでいて温かな眼差しが、じっとマリエを見下ろしていた。目が合うと、カレルは微かに唇を緩めた。
「しかし、そもそも……おかしな策だ」
 ためらうような短い間の後、今度ははっきりと笑ってみせる。
「私とお前の声は似ても似つかぬではないか。仮にお前が私の声になったとして、それを聞いた者たちも私の声とは思わぬだろう。私がお前のような、柔らかく高い女の声を立てては奇妙だ」
 そこまで語ると、カレルはおかしさを堪えきれない様子で笑った。変声期をとうに過ぎたカレルの声は男らしく低音で、笑い声もまた低く響いた。
 マリエは至って真面目に反論する。
「わたくしも精一杯、声を低めるよう努めるつもりでした」
「無理があるな」
「お言葉ですが殿下、例えば殿下が風邪をお召しになったことにすれば……」
 と、諦めきれないマリエが言いかけた時だ。
 カレルの顔に閃きが走った。たちまち喜色となった王子は、素早く言葉を継いでみせる。
「なるほど、その手があったか。マリエ」
「はい」
「その策、まずは他の者に試してみるのはどうだろう」
「え?」
 きょとんとするマリエに、カレルは笑顔で歩み寄る。
 そして身を屈めると、耳元で囁いてきた。
「お前が私の声になり、城の者たちを驚かせてやるのだ。……そうだな、手始めにあの高慢ちきな家庭教師がよい。お前が私らしからぬ殊勝な言葉でも吐いてやれば、あの者も腰を抜かすであろう。その次は近衛隊長だ。あの男、滅多なことでは驚かぬからな。ああ、父上に試してみるのもよいかもしれぬ。手を貸してくれるか、マリエ」
 うきうきと弾む囁き声に、マリエは呆然とカレルの表情を見返した。
 そこに浮かんでいるのは悪童の顔だ。先程まで煩悶していた大人の面差しは、一体どこへ消えてしまったのだろう。
 今のマリエが知恵もなく、色恋に対して無遠慮で無神経ならば、カレルはまだ幼いのかもしれない。悪戯に目を輝かせ、思い悩んでいたことを一時でも忘れられるほどには。
 だがマリエにとっては、今のカレルの幼さこそが貴いものにも思えた。
 お互いにこのまま、変わらずにいられたらいいのかもしれない。そうすれば未来に待ち受ける運命にも、思い煩わされることもないだろう。相手の気持ちが掴めずに、一人悶々とすることもないだろう。

 そして、その後。
 マリエはカレルの為に精一杯の低い声を立て、彼と共に、歴史の家庭教師から大目玉を食らうこととなる。
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