スターゲイザー(2)

 バレンタインデーの数日後、早良は郊外の住宅地に足を運んでいた。
 史子と外で会う時は、いつもこの雑居ビルのバーを選んだ。お互いに仕事の付き合い以外で酒を飲む相手が他におらず、かと言って自分の家に招くような関係でもない。そのせいか、友人として共に酒を飲む機会が増えていた。一時の不協和音が嘘のようだと早良自身が思う。
 早良にとっての史子は、時としてよき相談相手でもあった。特に他の人間には到底尋ねられそうにないことを持ちかける場合、史子は嬉々として耳を傾け、適切なアドバイスをくれた。ただし冷やかしやからかいの文句もおまけとして付いてくる為、相応の覚悟も必要だった。
 今回の場合も冷やかされるだろうことはわかっていたが、早良一人では思案にも限界があった。内容が内容だけに、からかわれる覚悟はしている。訳もなく緊張もしていた。

 軋むドアを開けて入店する。史子は既に来ていて、明るい笑顔を向けてくる。早良も緊張を押し隠し、そっと笑い返す。
 カウンター席に並んで腰を下ろし、注文を済ませた後で、彼女の方が切り出した。
「早良くん。これ、遅くなったけどバレンタインデーの」
「え?」
 カウンターの上に置かれた小さな紙袋に、早良は一瞬戸惑った。すかさず史子が語を継ぐ。朗らかに笑いながら。
「チョコレートじゃなくてゴーフレットなの。あかりさんにはこういうものの方がいいかと思って。よかったらお二人でどうぞ」
「ああ……ありがとう」
 恋人の名前を出されると、言われるがままになってしまう早良だった。あたふたと紙袋を受け取り、礼の言葉をどう続けようか考える。それから、ふと思いついたことを呟く。
「バレンタインデーに君からお菓子を貰うのは、初めてのような気がするな」
 すると史子は小首を傾げた。
「あら、初めてじゃないわよ。幼稚園の頃はあげてたじゃない」
「そんな昔の話は覚えてない」
「私は覚えてるわ。あの頃からうちの父は強引でね、私が恥ずかしいって言ってるのに、あなたにチョコを渡しなさいってしつこかったの」
 早良にやんちゃ坊主の時代があったように、史子にも引っ込み思案の内気な幼少時代があった。今の史子を見ていると、信じがたい変貌ぶりだと思ってしまうのだが――それがここ数ヶ月の話だから、余計に。
「結局、顔を見ては渡せなくて、人づてに受け取ってもらった覚えがあるわ。早良くんは記憶にない?」
 問い返され、早良は少しの間考え込んだ。しかし、思い出せなかった。バレンタインデーの微笑ましい記憶は、全てここ数年の憂鬱さで塗り替えられていた。
「あいにくと思い出せない。俺は君にお返しをしていたか?」
「あなたじゃなくて、あなたのお母様がくださったように記憶しているけど」
 早良の母親は気を遣う性質だ。いかにもそういう気の回し方をしそうだと思った。
 ちょうどその時、注文した酒のグラスが置かれた。型通りの乾杯をして口をつける。緊張気味の舌では味がよくわからない。
「中学に上がった頃から、かしらね」
 懐かしむように史子は話を続けた。
「早良くんのことを好きな女の子たちが増えてきて、私は古い付き合いってだけでライバル視されるようになったの。だから疑いの目を向けられないように、橋渡し役に徹していたわ。私自身はバレンタインデーどころじゃなかったくらい」
 その頃のことは、早良にも覚えがある。
 史子もまた気を遣う性質で、他の少女たちからチョコレートだの手紙だのを預かってきては、笑顔で早良に手渡してきた。人付き合いが疎ましくなり始めたのもその頃からだった。お蔭で、世話焼きの史子までが疎ましくてしょうがなくなった。
 史子自身がチョコレートを寄越さなかったことについて、早良は特に何も思わなかった。皆から甘味攻めを見舞われている自分に、生粋のお節介である彼女も多少は気を遣っているのだろうと、その程度にしか思わなかった。だったらもう少し慮って、橋渡しを拒むくらいのこともしてくれればいいのに、とさえ思っていた。
 しかし話を聞けば、彼女は彼女で苦労もあったようだ。
「だからずっと、早良くんにはチョコレートをあげてなかったの。知らなかったでしょう?」
 史子が片目をつむってみせる。それで早良も神妙に頭を下げた。
「それは、済まないことをしたな」
「ううん、早良くんが謝ることじゃないのよ。そういうのを繰り返すうちに、私もすっかりキューピッド役が楽しくなっちゃったしね」
 前言撤回。頭を下げなければよかったと、早良は内心で思った。史子はやはり生粋のお節介のようだ。
「もっとも今は、不特定多数のキューピッドは卒業したけど」
 早良の胸中をよそに、彼女は首を竦める。
「本当はね。あれからも時々、皆に声を掛けられてたの」
「あれから……って?」
「同窓会のこと。前の時には早良くんがあかりさんの方に行っちゃったから、皆がっかりしてたのよ。あれきり集まってなかったでしょう」
 風の強かった四月、繁華街で偶然あかりと出会った時のことだ。あの時早良は同窓会の出席を直前で蹴り、あかりを部屋まで送り届けていた。義務感からの行動だったが、今になって思えば直情的なふるまいでもあった。
 あれからもうすぐ一年になる。
 もうすぐ、また春が来る。
「早良くんに会いたいって話、今でもよく持ちかけられるのよね」
 すっかり饒舌になった史子は、冷やかす笑みを浮かべてくる。
「でも、今の早良くんにはあかりさんがいるし、そういう仲介も止めにした方がいいかなって思ったの。お節介だった?」
「……いや、ありがたいよ」
 早良は正直に答えたものの、続ける言葉に迷った。冷やかされることには未だ慣れていない。あかり以外の女性から言い寄られる機会などなくてもいいのだが、その事実をはっきり口にするのも何となく、面映い。結局押し黙るより他ない。
 こちらの内心を推し測ってか、史子はバーの店内に視線をやる。他に客のいない静かな空間。うすぼんやりとした照明の中、独り言のように呟いた。
「そのうち、あかりさんもここに連れて来たいわね」
「彼女はまだ未成年だ」
 間髪入れず早良は応じた。その素早さがよほどおかしかったのだろう、史子はくすくす笑い声を立てる。
「知ってるわよ。でも今年で二十歳になるんでしょう?」
「一応はな。歳だけ取ってもしょうがない」
「わかったような物言いね。早良くん、女の子の成長ぶりを見くびってると痛い目に遭うわよ。すぐ大人になっちゃうんだから」
 その言葉にはどきりとする。心当たりはあった、それはもうことさらに。
 だが、大人になってくれた方がいいのだとも思う。中途半端に子どもだったり、大人びて見えたりするから扱いづらいのだろう。彼女が完璧に大人になってしまえば、きっと扱いに困ることもない。そしてより自然に、恋人同士らしくふるまえるようになるはずだった。
 史子の意見はさて置き、早良からすればあかりはまだまだあどけない。たとえ二十歳の誕生日を迎えても『歳だけ取って』しまうのではという不安があった。そうではなく、もっと根本から大人になって欲しかった。お互いに、歳相応の付き合い方をする為に。

 そこまで考えて、早良はようやく本来の用件を思い出した。
 酒をまた一口飲み、それから話題を転換する。
「志筑さん、君に相談したいことがある」
 即座に切り返された。
「あかりさんのこと?」
 ご明察だった。もっとも、早良が史子にする相談と言えば近頃は九割方あかりについてで、残りの一割弱もせいぜいが話のついでに明日の天気を尋ねるくらいのものだった。
「そうだ」
 早良は自分のペースで話を進めるべく、急き込んで続ける。
「ホワイトデーのお返しを何にしようかで迷っている。彼女はクッキーがいいと言うんだが、俺としては食べ物なんかよりももっと実用的な品にすべきだと思うんだ。さしあたって化粧品などどうかと考えていたんだが、君はどう思う?」
 息継ぎもろくにせず告げた。
 きょとんとした史子が、すぐに意味ありげに微笑む。
「ホワイトデーのお返し……ってことは、早良くん、あかりさんからチョコレートを貰ったのね? 是非その話から聞きたいわ」
「嫌だ」
「冷たいのね。私、興味あるんだけどな」
「俺は言いたくない」
 むしろ、言えない。とてもではないが打ち明けられる有り様ではなかった。
 史子はしばらくの間、物問いたげな顔つきでいた。しかし早良の頑迷さに諦めがついたか、おもむろに思案を始めた。
「そうね……。コスメって一口に言っても、たくさんの種類があるのよね」
「らしいな」
「人それぞれ合う色は違うものだし、一揃いを贈ったところで、あまり化粧をしない子なら使い方からしてさっぱりということもあるでしょう」
 どうやら早良の思っていた以上に、化粧品とは厄介な代物のようだ。史子は更に続けた。
「コスメにするなら、ごく基本的な物だけ買ってあげて、残りはあかりさんご自身の好みに応じて揃えてもらう方が合理的じゃないかしら」
「……その、基本的な物というのは、例えば何なんだ」
 この件に関して早良は門外漢にも程がある。史子の言うことを半分も理解していなかったが、黙っているのも癪だった。とりあえず思いついたことを口にしてみた。
「口紅とかか?」
 早良が口紅を連想したのは、想像するに最も手軽そうな化粧品であったことと、あかりのかさつきがちな唇をちょうど思い浮かべられたからだった。
 史子も頷き、それから続ける。
「そうね。口紅と言うよりはリップパレットがいいんじゃないかしら。リップパレットならある程度は色の調節も利くし、それにケースが可愛いものが多いから、きっと喜ばれるわよ」
 そもそも『リップパレット』とは何ぞや、という知識量の早良だった。やはり史子の言うことがちっともわからない。パレットと言うからには複数の色が用意された化粧品なのだろうと、勝手に見当をつけていた。
「でもね、口紅っていろいろあるのよね」
 不意に史子が笑い出した。やけに愉快そうな顔を見せるので、早良は困惑する。
「早良くん、どうして化粧品をあかりさんにあげようと思ったの?」
 問われるとますます反応に困る。正直に答えるのも気が引け、当たり障りのない回答を述べた。
「どうしてと聞かれてもな。女性に贈るには、化粧品の方がいい気がした」
「あかりさんって元々、ほとんど化粧をしないでしょう? ファンデとマスカラ、それにグロスくらいじゃなかった?」
「だから贈ろうと思ったんだ。この先、より専門的な品も必要になるだろうと」
「ふうん」
 史子が肩を揺すって笑い続けている。早良は相談者の立場も忘れ、少々気分を害した。どういうつもりなのかと尋ねる前に、彼女の方が言ってきた。
「だってね、口紅のプレゼントって意味深長って言うでしょう」
 意味深長。その単語自体が、やけに意味深長だった。
「口紅を贈る意味って『少しずつ返してくれ』ってことなんですって」
 ほんの少し、揶揄するように笑む史子。
 早良はその顔を注視し、しばし思索に耽った。少しずつ返してもらうというのは、一体どういう意味なのか。
 考えた末にこう言った。
「返してもらっても困る。俺は口紅を塗る趣味はない」
 早良の返答に、史子は一転、失望の色を浮かべてみせた。
「冗談でしょう、早良くん。本気で言ってるの?」
「君の方こそ、何が言いたいのかよくわからないんだが」
「キスで返してってことよ?」
「――な」
 絶句。
 合点が行き、そして早良は言葉と色をなくした。口をぱくぱくさせて反論を探し始めるが、声にならない。ただ気ばかりが急く。
 他方、史子は額を押さえていた。
「どうして私が知ってて、早良くんが知らないのかしら。こっちは二十五年間彼氏なしだって言うのに……」
 そんなことはどうでもよかった。
 とにかく、誤解だ。断じてそういう意味で化粧品がいいと言い出した訳ではない。そんな意味付けを考えた奴がいたら一発頬を引っ叩いてやりたいくらいだ。早良はそう告げようと唇を開きかけ――ふと、別のことに気付く。
 意味深長なのは、口紅のプレゼントだけなのだろうか。
 例えば、過去に贈ったもの、それに早良の知らない深い意味があるとして、それをあかりが知っていた上で黙っていたとしたら。或いは知らないままでいて、ある日偶然知ってしまったら。そういう知識がないままに交際をすることは、地雷原の上を歩くようなものだ。
 慌てて早良は史子に尋ねた。
「その、志筑さん。確かめたいことがある」
「なあに?」
「例えばだが、服を女性に贈るのは、何かそういう理不尽な意味付けがされていたりするんだろうか」
 さっと史子の顔色が変わった。淡い間接照明の中でもわかるくらいに、彼女の頬が赤らんだ。
「え……ええと、あかりさんに服をプレゼントしたことがあるの?」
 嫌な予感がした。
「いや、その、例えばの話だ。あくまで例だ」
「そ、そう……」
「それで、どうなんだ。教えてくれないか」
 同い年の早良に詰め寄られ、育ちのいい史子は目を伏せた。後は言いにくそうに継いだ。
「私の口からはちょっと……し、調べてみたらどうかしら……ネットとかで」

 早良は帰宅後、史子に言われた通りにした。
 そして。