スターゲイザー(1)

 夜空を見上げていた。
 星明かりが街の灯に負けてしまう空。照らされた中では星の姿が見つからない。上郷とは違うのだと、繰り返し思ったことをまた改めて実感している。
 早良自身も、星が見たいと思っていた訳ではなかった。ただ所在無く空を見上げていただけだった。エンジンを切った愛車の側面に寄り掛かり、しばらく逡巡していた。
 やがて腕時計を確かめる。――針は思いのほか進んでいた。焦りのせいで溜息が出る。
 そろそろ行かなくては。視線を転じれば小さなアパートの一室、玄関の照明が点いているのがわかった。ほんのり柔らかなオレンジ色の光は、この街の星明かりよりもずっと早良の心を惹きつけた。しかしそれも今日ばかりは、なかなか踏み込んでいく気になれない。何せ今日は、特別な日だ。
 彼女の顔を見る前から既に、動悸が激しかった。

 二月十四日は、去年までなら面倒なだけの日だった。
 表向きは端整な顔立ちで、やはり表向きは礼儀正しい人間である早良に、無謀にも思いを寄せる女性は大勢いる。バレンタインデーともなれば職場の机上にはチョコレートの山が築き上げられ、直接手渡しされる分も合わせると店が開けそうなほどの収穫になる。もちろん早良がその収穫を喜んだことは一度としてなく、どうやって捨てずに処分するかで毎年頭を悩ませていた。贈り主の名前と所属を控えて、一ヶ月後に無難なお返しをする手間もある。業務に支障が出ないよう、外面のよさを維持したい早良にはうんざりするばかりの行事だった。
 しかし、今年は違う。今年もやはり数多くのチョコレートを貰い受けてはいたが、その贈り主の名前を控えている最中、秘書がこう言ってきた。
『今年は本命の方がいらっしゃるんですから、他のチョコレートはお断りになればよかったのでは?』
 内田の忠告はからかいと言うより、仕事の増える日とその日に対する備えのまるでない早良への、純然たる皮肉のようだった。それでも秘書の言葉を聞いた瞬間から、早良の思考はある内容に独占されてしまった。たった一人の動向に。
 彼女は、チョコレートをくれるだろうか。

 前に会ったのは二月に入ったばかりの頃だった。その時あかりは、バレンタインデーについては特に触れてこなかった。何か考えているのかもしれないし、全く考えていないのかもしれない。大学生の割にあどけない彼女なら、恋人にチョコレートを贈るということは端から念頭にないかもしれない。
 今日、仕事帰りに寄るからと電話で告げた時も、あかりの反応は普段通りだった。隠し事をしている様子も、早良のように緊張しているそぶりもまるでなかった。
 早良も別にチョコレートが欲しい訳ではない。少なくとも自分ではそう思っている。甘いものが特別好きな訳でもなく、ただ、彼女がくれたものなら食べてもいいかと思う程度だ。チョコレート以外のものでも構わない。バレンタインデーを彼女が覚えていてくれて、何かしらのアクションを取ってくれたらそれでいい。でも仕送り暮らしの慎ましい生活を送っている彼女には、あまり背伸びも無理もして欲しくない。高価なものを贈られても困る。となるとここは、一般的なチョコレートにしておく方が相応ではないだろうか。とにかく張り切らなくてもいい。安いものでいいから。
 やっぱり、欲しいのかもしれない。
 あれこれ考えた末、早良は素直にその思いを認めた。チョコレートが欲しかった。チョコレートだから欲しいのではなく、恋人から貰うものだから、欲しい。全国的な行事に参加することによって、なかなか言葉では表せない互いの関係を再確認したい。それは恋人のいる人間ならごく当たり前の、自然な感情のはずだ。貰ったら貰ったで反応に困るくせに、やはり欲しい。
 ただ、彼女がバレンタインデーを意識しているかどうか。そこが疑問だった。もしもまるで意識されていなかったらどうしよう。多少は落ち込むかもしれない。多少で済めばいいが、ともあれ彼女がチョコレートを用意していなかったとしても、あからさまに落胆した顔は出来ない。だからこそ早良は緊張していた。
 今年の二月十四日は特別だった。

 星の見えない夜空を眺めていると、かえって気が急いてくる。
 ためらっている時間ももうない。意を決し、早良はあかりの部屋を訪ねた。

「――早良さん。これ、バレンタインデーのチョコレートです」
 部屋に入った直後、挨拶の次にその言葉が掛けられた。
 それだけで早良は堪らなく安堵した。もちろん、あかりの前で醜態を晒す訳にはいかない。緩みそうになる口元を必死で引き締めながら、平静を装う。
「あ……ありがとう。くれるとは思わなかった」
 早良の内心をどこまで察しているのか、あかりは朗らかに笑ってみせた。
「喜んでいただけてよかったです。大したものじゃなくて、申し訳ないんですけど」
「そういうことは気にしなくていい」
 子どもなんだから、と言い添えることはしなくなっていた。昨年の秋に髪を切ってからというもの、彼女はようやく大学生らしい容貌になりつつある。それでも化粧っ気はほとんどなく、服装も早良がデート先に頭を悩ませるほどカジュアルなものばかり着ている。垢抜けるという域にまではなかなか至らない彼女だった。
 手渡してきたチョコレートも言ってしまえばいささか幼い印象があった。キャラクター物の包装紙にブルーの小さなリボンがついている。あかりの趣味なんだろうかとぼんやり思う。
「開けてみてもいいのか?」
 いそいそとこたつに入った後、早良は尋ねた。同じくこたつに滑り込んだあかりが頷く。
「どうぞ」
 それで早良は逸る思いを抑えつつ、包装紙を丁寧に剥がし始めた。するりと紙の脱げた中から薄い正方形の箱が現れる。車を模ったチョコレートだった。
「早良さんは車がお好きだとうかがっていたので、それにしてみました」
 嬉々としてあかりが説明する。実のところ早良の車好きは『他の事柄と比較するなら一応は好き』という前提があっての趣味だったが、この際どうでもよかった。うれしかった。彼女からはさぞ相好を崩した顔に見えるだろうと自覚していたが、どうしようもなかった。
「大学の友達と一緒に買いに行ったんです。あんまり子どもっぽいのは失礼かなと思って、早良さんらしいのを探してみたんです」
 うれしかった。自分らしさを、恋人が知ってくれているという事実が。
 早良の早良らしさを知っている人間はどのくらいいるだろう。あかりの他は史子くらいのものかもしれない。なかなか他人に本音を曝け出せない早良にとって、『らしさ』を知っている人間がいる現在は面映くもあり、幸せでもあった。
「ありがとう」
 改めて感謝を告げると、あかりもくすぐったそうな顔をしてみせる。
「よかったです、チョコレートを用意して。その、家族以外の人にあげたことって、今までありませんでしたから……」
「俺もこういうのは初めてだ」
 素直に、早良も認めた。しかし『こういうの』についての具体的な説明には口が重くなる。
「その……あれだ、何と言うか」
 言わんとするところをいち早く察してか、あかりが頬を染めた。慌てたように語を継いでくる。
「あ、あの、何となくわかります」
「……そうか」
 最後まで告げずに済んでほっとした。しかし後に残った沈黙の気まずさはいかんともしがたい。のぼせたようになった早良はあかりから視線を外し、チョコレートの箱の裏面を検分し始めた。ちらと横目で見たところ、あかりはこたつテーブルの木目を観察していた。二人がチョコレートなら既に溶けかかっている状態だと、ふと思う。
 お互いに、初めての恋人だった。早良にとってのあかりは初恋の相手でもあるし、先のことまでしっかり見据えている相手でもある。だからバレンタインデーのチョコレートで一喜一憂もする。恋人らしいことをしてもらう度に喜び、相手との関係を何度も何度も確かめたくなる。幸せを噛み締めたくなる。
 史子あたりに知られたら、どれだけ噛み締めれば気が済むのかと指摘されそうな気もしたが――ばれなければ問題ない。ともかくも早良は幸せだった。
 だが、悩みもある。幸せだからこその煩悶、そして初恋であるがゆえの問題。早良は自らの晩熟ぶりも重々承知している。あかりとの関係の幼さも理解している。気まずさだけでお互い押し黙り、いてもたってもいられなくなるくらいだった。不慣れな関係が歯痒く、だからこそチョコレートを貰えるかどうかで頭がいっぱいになってしまう。
 このままでいいのだろうか、と思う。今のこの沈黙もそうだし、二十四歳と十九歳の恋愛にしては、まるで歳相応ではない関係についても、思う。

 やがて、年上としての矜持だけで早良は口を開いた。気まずさを打ち払う為、別の話題を切り出してみることにした。
「ところで、ホワイトデーのお返しは何がいい?」
「え?」
 あかりが顔を上げる。瞠られた瞳に光が揺れた。返答は数秒遅れて、ためらいがちに告げられた。
「お返しなんて……お気持ちだけで十分ですよ。いつもお世話になっていますし」
「そうはいかない」
 敢然と早良はかぶりを振った。
「貰うだけ貰っておいて何も返さないというのはルールに反する。ホワイトデーのお返しは世間一般の常識じゃないか。欲しいものがあるなら言ってみてくれ」
「でも、早良さんにご迷惑が」
「いいから」
「早良さん。私は本当にお気持ちだけで十分なんです」
 こういう局面ではお互いに頑固だった。ついつい早良も年上ぶりたくなってしまう。年齢をかさに着る方がかえって子どもっぽいのだという事実にもうすうす、気付きつつ。
「気を遣われるとかえって困る。大体子どもが――いや、学生が社会人に遠慮をするものじゃない」
 そこまで言われるとあかりも反論に窮したようだ。
「……そうでしょうか」
「そうだ。俺としては、君に遠慮をされる方が寂しい」
「あの、早良さんに遠慮をしているという訳ではないんです……けど」
 彼女は、いかにも気遣わしげな表情をしながら考え込んだ。そして、しばらくしてからようやく捻り出した様子で答えた。
「じゃああの、マシュマロよりはクッキーがいいです」
「クッキーか」
 食べ物か、とは辛うじて口にしなかった。
「早良さんと一緒に食べるなら、食べ応えのあるお菓子がいいかなって。あ、何だか食いしん坊ですね、私」
 はにかみ笑いを浮かべる彼女。その面立ちはやはりまだ幼い。
 他の選択肢はないのだろうかと、早良はあかりの顔を盗み見る。化粧っ気のない顔立ちは未だにあどけなく、のぼせたような頬の赤みがわかり易い。そして冬場の空気のせいか、唇は少しかさついて見えていた。

 早良は自らの晩熟さを承知している。
 その上で思う。――もう少し、子どもっぽさから脱却したい。せめてお互いに、歳相応の関係でありたい。大人らしい関係であれたら、バレンタインデーのチョコレートごときで一喜一憂することもなくなるはずだ。ことあるごとに彼女の動向を気にしなくともいいように、恋人同士らしい、確たる証が欲しかった。
 大人っぽい関係になりたい。その為に必要なものは、一体何だろうか。

 ホワイトデーまでは一ヶ月。新たな悩みに、早良の思考は独占され始めていた。

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