スターゲイザー(3)

 断じて深い意味はない。
 早良はおまじないのように、その言葉を心中で繰り返した。
 縋る思いで見上げた三月の空、晴れているのにやはり、今夜も星は見えない。仕事の後の疲労感は原因不明の高揚感に成り代わっていた。
 運転席のドアを閉めてから十分間、なかなか次の一歩を踏み出せない。手に提げているのは史子から預かったゴーフレットの他、なぜこんなサイズのものを作ろうと思ったのか不思議なほど小さな紙袋。史子に見立ててもらったリップパレットが、きれいに包装されて入っている。
 あかりの部屋は例によってオレンジの光が灯っていた。早良が来るのを待っているはずだ。ホワイトデーには必ず行くと予告していた。その間に、通勤時に着るコートが春物へ変わっていた。一ヶ月ぶりの訪問になったのは、年度末を控えた多忙さのせいでもあったが、それ以上に。

 断じて、深い意味はない。
 三月に入ってすぐ、志筑史子と再び会う機会を持った。そしてその際、彼女に対しても同じように繰り返していた。深い意味はないのだと。史子も早良の気持ちを汲んでくれたのか、口紅を見繕って欲しいという頼みに快く応じてくれた。珍しくからかいの言葉一つなかった。
 実際、史子の言っていたような意味で選んだつもりもない。あくまでもあかりに必要なものだと思ったからだ。彼女は化粧をする必要がある。そうすることで大人っぽくもなれるだろうし、歳相応の恋人同士にもなれるはずだ。口紅をやるから少しずつ返せ、なんてことは断じて、決して思わない。言うつもりもない。あかりなら恐らくそんな意味も知らないだろう。知らないでいて欲しい。絶対知らないはずだ、自分だって人に聞くまでは知らなかったくらいなのだから、未成年の彼女が知っているはずもない。
 そもそも口紅に深い意味を持たせたがる連中は、そういうきっかけでもなければ恋人にキス一つ出来ないような腰抜けなんだろう。早良はそう思う。こっちはキスなんてとっくに済ませている。一度きりだが、勢い任せではあったが、だからと言ってノーカウントということはありえない。自分には口紅に込められた意味なんて必要ないのだ。その気になればいつだって、何度だって出来る。普段しないのはその気になっていないというだけのことだ。キスなんて造作もない容易いことなのだから、たかだか数千円の口紅ごときに左右されるいわれはない。もちろん服だってそうで、こっちがその気になればいつでも――。
 そこまで考えて、早良はかぶりを振った。
 とにかく、断じて深い意味などなかった。

 あかりなら、『女性に服を贈る意味』だってきっと知らないだろう。
 根拠はないがそう信じたかった。でなければ、一ヶ月どころか一生顔を合わせられなくなる。早良はそれを知ってしまってからというもの、罪悪感と気恥ずかしさと自棄気味の思考とですっかりごちゃごちゃになっていた。今日がホワイトデーでなければ、このままもうしばらく彼女と会わないようにしようと思っただろう。全くどこの誰かは知らないが余計な意味づけをしやがってと喚きたくなる。そんな意味合いはなくても一向に構わないというのに。彼女が自分を、そういうことを企んでいる男だと思ったらどうする気なのか。清廉潔白の思考ではないから尚更思う。大きなお世話だ。
 だからと言って、本人に知っているかと確かめる勇気もない。知らないのならそれでよかった。この先、絶対に彼女の耳に入らないようにしなくてはならない。願わくは彼女の大学の友人が、余計な知識を吹き込んでいないことを、この先も吹き込まないことを――早良は祈る思いで恋人の部屋へと向かう。
 歩き出した道の上が、本物の地雷原のように思えた。

 一ヶ月ぶりだろうと何だろうと、あかりはいつでも笑顔で迎えてくれる。
「早良さん、いらっしゃいませ」
「……これ、志筑さんからだ」
 挨拶より先に、史子から預かったゴーフレットを差し出す。中身を見たあかりは大喜びで、お茶を入れますねと台所へ立った。お蔭で早良はホワイトデーのお返しの方を手渡すタイミングを失した。
 深い意味はない。
 その言葉を繰り返しつつ、やかんを火に掛け始めたあかりの後ろ姿を見遣る。オレンジのセーターとデニムジーンズという服装は、彼女が着ているからあどけなく見えるのだろうか。それとも服装が彼女をあどけなく見せているだけで、中身は既に二十歳前の娘そのものなのだろうか。早良にはよくわからない。
 ただ、あの白いワンピースはとびきりよく似合っていたと思う。
 果たしてこのリップパレットとやらはどうだろう。
「お待たせしました」
 あかりが振り向き、そのままお茶を運んでくる。同じ形状のティーカップが二つ、湯気を立ててこたつの卓上に置かれる。それで我に返った早良は、慌しくこたつに着いた。
 彼女も同じように腰を下ろす。
 そのタイミングを見計らい、もう一つの紙袋を突き出す。
「こっちは、ホワイトデーの」
 声がかすれた。
 十分に腰抜けだった。
「え……あ、ありがとうございます!」
 面を上げたあかりと目が合う。とっさに逸らす。手の先にふっと何かが触れたので、紙袋を掴んでいた指を離した。紙が触れ合う、微かな音がした。
「開けてみてもいいですか?」
 彼女の問いに、頷く。それで包装の解かれる音がしばらく続いた。音が止んでから、少しの間があり、怪訝そうな声が聞こえた。
「あの、これは……」
 視線を向けると、あかりは件のパレットの開け方に戸惑っているようだ。何度か引っ繰り返してみた末にようやく理解したらしく、やがて開けた。瞬間に声を立てた。
「わあ……! いいんですか、こんなに素敵なものをいただいても」
 彼女の反応に、早良は心底安堵した。喜んでもらえたらしいということと、もう一つ――どうやら彼女も『口紅を贈る意味』は知らないらしいということに。
 となれば、服を贈る意味の方も知らないだろう。そうだと思ってはいたがやはりほっとする。そうでなければ一生合わせる顔がなかった。
「その為に買ったんだ」
 答えてから、何とも愛想のない回答だと思った。早口で言い添える。
「俺もそういうのには明るくなくて、志筑さんに見立ててもらった。だから多分君に似合う色だと思う。そろそろ君も化粧をする時期じゃないかと思って、お節介かもしれないが練習でもしてみてはどうかとそれを選んだ。気に入ってもらえただろうか」
「はい、とっても!」
 全力で頷き、あかりは笑んだ。早良が何を言おうが、何を贈ろうが、彼女なら喜んでくれたに違いなかった。本当はホワイトデーのお返しなど、どんなものでもよかったのかもしれない。
 贈りたい品を贈った。それだけだ。白いワンピースも、リップパレットもそうだった。
 断じて、決して深い意味は。
「――でも、いいんでしょうか」
 ふと、あかりが眉尻を下げた。
「何だか、早良さんには散財させてばかりのような気がします。ほら、以前もお洋服を買っていただきましたし」
 ティーカップに伸ばしかけた手がびくりと止まる。早良はぎくしゃく視線を上げ、瞬きをするあかりの顔を見据えた。すぐに逸らしたくなる。
 狙い澄ましたような言葉だった。
「いや、それは」
 焦った。
「気にすることじゃない。特に意味があって贈ったものじゃないからな。君は気にしなくていい、深く考えなくていい。俺は贈りたいから贈ってるだけで、全くもって意味なんてない」
 弁解にしてもめちゃくちゃだという自覚はあった。あかりの質問に答えているのかどうかすら、わからなくなっていた。
 それでもあかりは笑ってくれる。少しだけ困ったように、しばらくすると、とてもうれしそうに。
「ありがとうございます、早良さん。いつか恩返ししますから」
 恩返しなんて、それこそ意味のないことだ。彼女は知らないのだろう。自分自身が早良にとってどのくらい重大な存在なのか。かつて早良に初めての感情を呼び起こした、今でも他の誰より早良を煩悶させ、動揺させている存在なのだということを、まだ知らないのだろう。ついこの間まで『リップパレット』がどんなものかも知らず、口紅を女性に贈る意味だって知らなかった男が、恋人の為にとそれを買い揃えるようになった。その事実が、どれくらい重大か。
 逸らしたはずの視線はいつの間にか彼女に留まっている。彼女がリップパレットをしげしげと見つめる様子を眺めている。目を輝かせたあかりが、パレットからごく小さな筆を、指先で取り上げた。親指と人差し指だけで摘まなければならないような、本当に小さな筆だった。
「これで、口に塗ればいいんですよね?」
 あかりが筆を動かす仕種と共に尋ねてくる。そういうあどけない仕種も、それはそれで可愛いと思う。顔が緩みそうになるのをどうにか引き締め、早良は頷く。
「多分、そうだろう。――試しに塗ってみたらどうだ」
「えっ、い、今ですか」
 今度はあかりが視線を外した。狼狽の色が過ぎる。
「ここでお化粧をするのは……あの、恥ずかしいです」
「ちょっと口紅を塗るだけじゃないか」
 早良は平然と言い返したが、かぶりを振られてしまう。
「それでもです。だって、早良さんの前でお化粧なんて」
「俺は気にしない」
 と言うより、一刻も早く見てみたかった。彼女の唇が色づいたらどうなるのかを。そうでなければ贈った意味がないと思った。あかりが渋る様子を、焦れる思いで見つめていた。
「でも、あの、いきなりだと、使い方がよくわかりませんし」
 あかりはおずおずと言って、パレットの中身を見せる。オレンジ系のリップパレットは、オレンジの仲間をずらりと揃えてその豊富さをこちらに見せつけていた。淡いオレンジに濃いオレンジ、艶のあるオレンジにビビッドなオレンジ、それにちかちかするラメと透明なグロスがセットになっていた。史子が言うには、あかりにはこの色が似合うだろうとのことだったが、この色とはどの色なんだと今更のように早良は首を傾げた。オレンジにしたってこんなに量が豊富では、どうしていいのやらわからない。塗れるものなら塗ってみろ、貴様程度の知識ではちんぷんかんぷんだろう、そう挑戦状を叩きつけられているようにも思えた。
「これって、全部をいっぺんに塗る訳じゃないんですよね」
「多分な」
「一つだけ塗ればいいものなんでしょうか」
「そうなんじゃないか?」
 挑戦を受けるには、あかりも早良も知識に乏しかった。そういう時に尻込みしたくなるのがあかりの性分らしい。自信のないそぶりで言われた。
「あ、あの、いただいておいて何ですけど、次の機会ではいけませんか?」
「次か」
 早良は落胆した。それを恋人に悟られないようにするのは、難しかった。
「次にお会いするまでに練習しておきますから」
 取り成すようにあかりに言われると、どちらが年下かわかったものではない。わがままを言った自覚も確かにあった。ぶすっとしながら応じる。
「わかった。楽しみにしている」
「……ご期待に添えるかどうか、わからないですよ。私の顔ですから」
 はにかむ言葉に、そんなことはないと心中でだけ反論する。その顔が好きなのだ。大人びた表情もあどけない表情もしてみせるその顔立ちがいとおしいからこそ、別の一面も見たいと思った。他でもない恋人の為にだけ色づいた、もう少しばかり歳相応の姿を。
 ちらと目をやる。彼女はリップパレットを大切そうに紙袋へしまい、それからティーカップに手を伸ばして、口をつけた。白いカップの縁から覗いた唇は、ちょうど潤って艶やかだった。お茶の温度のせいか、もう既に色づいて見えた。
 口紅を贈るのは、少しずつ返して欲しいからではない。
 キスくらい造作もない、容易いことだ。その気になればいつだって出来る。今も、しようと思えば――。
「あ、忘れてました」
 あかりが声を弾ませ、卓上のゴーフレットの箱を開ける。直後に向けてきた笑顔は、やはりどうしても無邪気だった。こちらの口元が緩むくらいに。
「せっかくですから、いただきませんか。お茶の温かいうちに」
 屈託なく言われて、まさか、いただくのは別のものがいいとは言えまい。
「……そうだな」
 早良は苦笑し、ティーカップを持ち上げる。中身は案の定熱く、欲していた温度とは違っていた。
 お蔭で諦め切れない気持ちが胸の内に燻った。そもそも欲しいのは彼女の唇、だけではなかった。それだけで満足出来るなら苦労もない。
 腰抜けではないつもりだった。
 だから、
「もし、よかったら」
 彼女がゴーフレットに齧りついた、そのタイミングで申し出た。
「俺に貸してくれないか、それを」
 視線をあかりの傍らにある、リップパレットへと落とす。
 お菓子を食べる美味しそうな顔が、瞬きもしないうちから戸惑いの色に変わった。
「え……あ、あの」
 静かな夜だった。ごくんと飲み込む音も聞こえた。
「早良さんに、ですか? 早良さん、お使いになるんですか?」
「俺じゃない。俺が塗ってどうする」
 妙に気の急く思いで、早良は語を継いでいた。
「君に塗るんだ、俺が。試してみてもいいか」
 リップパレットからの傲然とした挑戦を、ならば受けて立とうという気になった。パレットというくらいだから絵を描くようなものだろう。いや、もっと簡単なはずだ、単純に色をつけるだけなのだから。彼女は尻込みしているが、見た感じ俺にでも出来そうなものだ。きっと容易い。キスよりも、更に容易いに違いない。――そう思っていた。
 あかりがたちまち頬を染め、眼差しが泳いだ。
「さ、早良さんが……私にですか? あの、それは、その」
「嫌ならいい」
「嫌ではないですけど、ちょっと、恥ずかしいです」
「俺は気にしない」

 最大規模の地雷を踏み当てた事実には、その数分後に気付いた。
 小さな小さな紅筆を取り、もう片方の手で、彼女の顎を捉えた瞬間に。